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晩成の明星

 郷に降りると、小屋の仲間に押さえられた、逃げようとしなかったのもあるが、皆の手に力はなかった。すぐに老爺が来て、頬を張られたが痛くはなかった。皆の目は一様で朝、老爺が見せたものと同じだったが、もう怖くはない。

「何故、逃げた。どこへ行っておったのじゃ」

 問う声が震えている。ウォンは呟くようにそれに答える。

「もう、囚われることはなくなりました。もう逃げもしません」

 ほっ、と老爺が驚いた声を上げる。

「外のしがらみを切ってくるとはのう。ただ逃げ出したものとばかり思ったが、ならばよい。本当にお前は強い子じゃ」

 老爺が仲間に離すように行った。

「理由によっては追放とも思ったがの、ウォン。それならば、これまで通りこの郷で……」

 その言葉に、ウォンはぱっと顔を上げ、老爺の目をしっかりと見据えた。じっと見つめると、強気の老爺の目が怯えたように揺れた。

「俺は出ていきます。過去に怯えて暮らすことも、過去や外の何もかもから逃げることも、もうしない。もう囚われない。自分の居場所は、前へ進んで掴みます」

 膝立ちの姿勢から、ウォンは立ち上がる。

「全部、ラオが――ヤンタオが教えてくれた」

 老爺の目が見開いた。何か言おうとしているようだが唇はただ震えているだけだ。これ以上聞くこともないし、これ以上言うことはない。道は自分で選ぶものだから。

「風車、まだ仕上げてないっすから。元に戻したら、出ていきます。たまに、油を差してやってください」

 ウォンは寝泊まりしている小屋の方へ歩き出す。すぐにでも出ていけるだろう。元々身一つでここに来たのだから。仲間が遠巻きにこちらを見つめる中、ウォンはそれを手早く仕上げた。梯子を軋ませ、風車台の上まで上る。あの岩場が見えて、ウォンは胸の部分の服をぎゅっと握った。あの熱を自分は決して忘れないだろう。風車を取りつけると、磨き上げた滑車は頬を撫ぜる程度の風にも小気味よくからからと回った。

 辺りを見回す。緑の広がる天の懐。遠くに見える御柱はどこまでも空へと続いている。あの旅人たちは向こうへ向かったのだろうか。ウォンは頬を緩め、ゆっくりと下に降りた。

「今までお世話になりました。」

 それに応える声はなく、見送りの言葉もない。でも、それが当たり前だ。沈黙こそがこの郷の掟。各々の事は自分の胸の中に留めておくのが決まりだ。最後こそ、掟を守って出て行こう。

振り返ると、老爺の姿があった。絶望したような顔をしていた。ウォンはその視線にただ一礼し、その後振り返ることなく郷を去った。


 未明の工房に、高い槌の音が響いている。閃光が尾を引いて、焼けた鉄から火花が散る。夜通し、炉の前の作業に飲み水がすっかり空になってしまった。

「兄ちゃん、代わるよ。昨日の昼間からずっとだろ」

 弟の声。振り返り、ウォンはいや、と汗を拭った。

「もうこれで(しま)いだ。上がるよ。お前はこれからやるんか?」

 弟は頷く。ウォンは隣で槌を取った弟に、炉の前を空けた。

 あれから七年経ったか。家に帰ると、驚く父母より先に、弟が駆けだしてきて(すが)りついて泣いた。その口から出たのはひたすらの謝罪だった。素養など、定まっていなかった。嘘を嘘だと言えないまま、自分が家を出てしまって、ずっと悔いてきたのだと言う。ウォンはそれを許した。失ったものよりも得たものの方がずっと大きいからだ。ウォンが彼でも、もしかしたらそうだったかもしれない。

 外に出ると、夏の夜気が体を通り抜けて行った。ウォンは庭木に近寄る。今ではずいぶんと大きくなったそれには、今年ようやく数はないが実がついた。飛びあがって、ひとつ、それを取る。五つの稜が立つ黄色い実、微かな甘い香り。懐かしい匂い。

 東の空がうっすらと赤みを帯びている。あの山の向こうは、かつていたあの郷――昇仙郷があるはずだ。浮世から逃れようと、天嶮の麓に隠れた小さな郷。金環山の上にはひと際明るい星がある。他の星に遅れても、暁に先駆けて、ひと際輝く明星だ。

 ウォンは胸にそっと手を当てる。

「大丈夫だ、ラオ。俺は、もう大丈夫」

 朝の光に他の星が目を閉じても、その星は輝く。晩成の明星は、居場所を得たから。


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