人性の人
耳の横でラオの吐息が聞こえる。体を離すと、ラオはこちらを見て微かに口角を上げた。表情に乏しい顔だが、目は優しかった。
「私はこれまでにたくさんの仙人と獣人を目にしました。あの場所を出て以降、ずっと仙とは何か考えてきたのです。そして、思い至ったのは、獣も仙も同じだ、ということです」
ラオは続ける。
「獣性の人に比べて、仙の人々はどこか頼りなげで、己が薄いように私は感じていました。それでも彼らが居る場には柔らかな空気があって。彼らこそがあの辛い戦いを支えていたのでしょう。きっと仙とは人性の人なのです。獣の性を負う人々の中、人の性を負う人々。良し悪しに囚われず、人と人との和の中に、己を見出して生きる。それが仙だったのです」
ラオの言葉に、男が頷く。
「そうなのだろうな。仙のものは、やはり皆成るべくしてなったのだと思うことが多い。他の獣人たちと一緒だ。……なるほど、人性の人、か」
ラオは頷いて、洞の入り口を見やる。外はまだ明るいようだ。まだあの老爺達は自分を捜しているだろうか。
「下の人々は、確かに獣ではなくなりました。しかし、人でもない。あれではただの抜けがらです。厳しい則の中に、欲を捨て、感性を排し、空になった身に何が宿るでしょうか。餌のない籠に鳥が入らないように、そこはただ虚ろが残ります」
ただ、役目もなく周り続けたあの風車のように。あの郷にもきっといつか錆が来て、動かなくなるのだろう。
「しかし、彼らの目的を知り、それがどういうことかを知りながらも私はあの場所を譲りました。外を知らなければ、彼らは幸せでいられるでしょう。緩慢に時を過ごしていられます」
そう言った後、ラオは俯いた。
「ウォン。私は初め、君にも黙っているつもりだったんだ。それが、君が選んだ道だから。でも、君は優しい。君は若い。何よりあの郷の答えに自ら向きあい、近づきつつあった。今こうして話したのは、そんな君を、その魂を、あの五稜子の実のように腐らせるのは惜しく思ったからなんだよ。――もう、君ひとりでも、わかるね……」
「ラオ?」
ラオはもたげていた頭をゆっくりと前脚に乗せた。いつも眠っているときのように。今度眠ったら、それはもう、覚めることはないだろう。二度と戻れぬ旅立ち。
「嫌だ、ラオ、待ってくれ、お願いだ」
ラオは震えるように、小さく首を振った。止まったはずの涙が再び頬を伝う。すすり泣きの声に気がついてみると、青龍に侍していた少年も泣いている。
「青龍様。一万年は、永うございましたね」
「……ああ」
ラオの声に、男は静かな口調で応える。
「私はこの生の大半を孤独に過ごしましたが、いよいよ死を迎えようという今、私の死を止めようとしてくれる人がいる、私の死を悼んで泣いてくれる人がいる。これほどに、幸せなことがあるでしょうか」
ラオの目に宿っていた光が揺らぐ。ラオは、青龍に小さく礼を告げ、最後になろう口を開いた。
「もう逝かなくては。体は育ったこの地に、力は授かった天に、そして、心はウォンシン、君に残しましょう。君の今後に光があるように。――魂が、再び出逢えるように」
微かに、弱々しく続いていた息が、ふーっと長く続いた後、聞こえなくなった。喉の奥から咽びがせり上がってくる。それがわっと溢れそうになったときに、ラオの体を白い光が包みこんだ。横たわっていた大きな体は金の光に変わり、ウォンの周りをくるくると回った後、入り込むようにして弾けて消えた。光の当たった胸のあたりがじんと熱い。
「ありがとう、ラオ。また、会おうな」
当てもないが、それの言葉が一番適当に思った。立ち上がろうと手を動かすと、何か指先にこつん、と当たった。石かと思ったが、何かの種のようだった。きっと、あの実の。
「助けられなくて、すまなかったな」
男が済まなさそうに言うそれに、ウォンは首を振った。
「助かりましたから。俺も、ラオも。脅すような真似してすいませんした。俺は……とりあえず、一度郷に戻ります。話をつけておきたいんです。やりかけている仕事もあるんで」
男は頷いた。
外に出ると、日はまだまだ高かった。灯りがあったとは言え、中の暗さに対して外は眩しい。旅人は、このまま自分たちの目的に向けて、先へ行くという。礼を言い、別れようと踵を返すと、ウォンはあの男に留められた。今になって思い出した、と。
「俺が知っている、子猿の頃のヤンタオはな。君の髪と同じ毛色をしていた」
洞に灯した火のような、赤毛。きっと、ラオが言いかけたのは、そのことなのだろう。ウォンは頬を緩める。
そうだ。自分はこれからいくつもの苦しみと孤独とに出逢うだろう。そして、乗り越える。黄の地で育った、いつかの子猿のように。