白老猿
「ファン、灯りを」
男が子供に指示して、火を灯させた。闇が覆っていた洞を橙の炎が照らす。ラオはその奥でぐったりと横たわっていた。昨日持ってきた五稜子の実はない。食べたのだろう。もともと青白い顔だが、今はいつもに増して血の気がない。
「やはり、そうだったか」
男がラオを見て、得心がいったように呟いた。
「はい。斯様な場所でお会いできるとは思いもしませんでしたが、昨日風の香にこちらへいらっしゃることに気がつきました」
若い男と、ラオはまるで時を共有してきたかのように互いを懐かしんで、言葉を交わしている。
「大変懐かしゅうございます、青龍様」
ウォンはその言葉に、眼を見開く。青龍といえば東の守り神、獣性の権化ではないか。それが今、人の姿でここにいるという。男は否定せず、ラオの方へと近づくと、その目の前にゆったりと座す。老猿の大きな顔を見つめ、青龍と呼ばれた男は顔を曇らせる。
「息災、というわけにはいかないようだな、ヤンタオ」
男は郷にある樹の名前で老猿を呼んだ。洞の中に風が吹いたような気がして、男の手元を見やると、その腕は青い鱗に覆われていた。鋭い爪と青い竜麟、ラオが言うようにこの男は青龍なのだ。ならば、先ほどの会話も頷ける。神獣、と固まっていた唇から、言葉がこぼれた。ウォンは再び、額を地面に擦りつけて頭を下げた。
「ラオの病気、治してやってください。下のあの樹は、本当はラオのなんだろ」
額に触れる岩はひやりと冷たい。真っ先に帰ってきたのはラオの声だった。
「ウォン、顔を上げて。私が伏せっているのは、病気じゃないんだよ。……私にも、ようやく寿命が来たんだ」
ウォンは顔を上げて、老猿と青龍の男とを順に見やった。ラオはまっすぐにこちらを見つめているが、男の顔のほうは暗く、目を伏せている。
「そんな、どうして……。なぁ、あんた神獣なんだろ! それなら」
「生きる者はすべて、等しく寿命が来るんだよ、ウォン。私はそれが人よりずっと遅くて、そして、今来たというだけなんだ」
ラオに続けて、男が口を開く。
「傷や病なら治せるが、そのどれもが、元より天から賜る寿命の中にある。俺とて、治せるものならとうに治している。ヤンタオの言葉は真だ」
「そんな……」
膝を掴む手に力が入り、長跨の下の肉に爪が食う。死からは誰も逃れ得ぬ。そんな理など、ウォンも理解している。ただ、それが目の前で、誰よりも慕った人に起こるのが受け入れられなかった。男がひとつ息をつく。
「気休めかもしれないが、盲いた目ならば治してやれる。ヤンタオ。その状態でもわかろうが、目の前の青年をちゃんと見てやってくれ。――彼は下の郷を出てきた」
男は龍化した掌でラオのまぶたの上を撫でた。伏せられていた目があくと、もうその瞳は濁ってはいなかった。夜更けのようなつややかな黒だ。
「なるほど、ウォン。君は――」
ラオは何か言いかけて、ゆるりと首を振った。
「近づく死は逃れ得ませんが、青龍様、連れの君、そして、ウォン。つまらぬかもしれませんが、せめて、私の話をここに残して逝こうと思います」
聞いてくれるね、とラオがこちらを見る。頷くより他はなかった。生きる苦しみは生きているうちにも逃れられるが、死は逃れようと思った時にはすでに、間に合うところを逃しているのだ。常に後ろについてくる、影のように。
「ヤンタオ、というその名すらも、随分と懐かしくなりました。あれは、四方の初代様が生きていた頃、御柱にいた仙人の人々に拾われた、母無きましらの子。あの頃の私は、口もきけない餌を貰うだけのただの子猿でございました」
ヤンタオが洞の天井を見つめる。男が連れてきた子供の持つ灯りがゆらゆらと洞を照らしている。
「下の木は、私があの実を好んで食べたゆえに、仙の方々がこの地でも実を結ぶように術を掛けたもの。確かに、私の為ではありましたが、あれはもとよりこの地に生えていたものですから所有など誰にもできないのです。少し前、ある若者に乞われて、私はあの場所を譲りました。今、郷のある場所です」
若者、と言われて、ウォンは真っ先にあの老爺が思い至った。きっと郷が出来る前は、通りがかる者も花を愛で、実を口にしたはずだ。それが今や、神樹と称えられるだけの構築物になってしまった。
「もとより、私はあの戦い以後、国を巡る旅に出ていましたから、常にあの樹の周りにいる必要もなかったのです。しかし、戻ってみると今度は樹どころかあの郷に、私は近寄れませんでした。体も随分大きくなっていましたから、人々にとって恐ろしかったのかもしれません。だから、ここを臨終の床と決めて伏したところに、ウォン、君が怖じずに来てくれたのは本当に嬉しかった」
ウォンはふるふると首を振った。恐ろしくなかったわけではない。ラオの方が先に声をかけてきてくれたからこそ、ウォンは近寄れたのだ。見えない目でこちらを見て曰く、君は善い人のようだ、と。ただそれだけで、救われた気がしたのだ。色々なものを投げ出しても、尚も重たくなる思考に押しつぶされそうだった心が、ふっと軽くなった。悪し者と卑屈にひしゃげた心にふうと息を吹き込んでくれた。たった一言で、本当の居場所を得た。
「ただ探したところで居場所などありません。私を育ててくれた仙の人々がいなくなって、外に出てみてようやくそれに気付いたのです。旅に出て己を知るというのは、他無ければ対する己が在り得ないからなのでしょう。私の居場所は、仙の人々との間にあったから、私は一万もの永い時を彷徨わねばなりませんでした」
いつになく話すラオは、ふうと息をつき、ラオは目を伏せる。
「だから、下の人々を見ると、辛いのです。彼らはあの場にいる限り、傷つくことはないでしょう。しかし、傷が癒えることもなければその痛みから何かを得ることもない」
「……俺は」
ウォンはぽつりと話し始める。
「郷に来てすぐ、人の死を見た。隠されていたけど、俺は見たんだ。爺様と何人かがその人をこっそり埋めた。なのに、周りのみんなには、その人は仙人になって、ここを出ていったと言ったんだ。初めは騙してるって思ったけど、違った。みんなだって知ってたんだ、あの場所じゃ仙人になんかなれないって」
ラオは悲しげに微笑んでいる。そうだ。それを見る前にも、ウォンはあの里に微かな奇異を感じていた。今、口にしてみて、足元が崩れるような感覚と共に、ずっと胸につかえていたものが取れる。
「ウォン」
ラオがこちらへ呼びかける。手足は動かないが、傍にくるように言っているのだ。ウォンは立ち上がり、ラオの傍へ腰かける。そして、いつものようにその白い毛を撫でてやる。またラオが呼びかける。今度は返事が出来なかった。代わりにぼたぼたと涙を流し、ラオの首にすがって泣いた。