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来し方を捨てて

 あとを追うと、旅人は郷の外輪を歩いていた。ウォンはどちらにも見つからぬように、林の影へ入る。あの旅人は、あの樹に――この郷にまつわる話を知っているのだ。そして、おそらくあの洞に横たわる老猿のことも。徐々に距離を詰めると、突然に子供の方がこちらへ振り向いた。小枝を踏んだ些細な音に気付いたのだろうか。子供が立ち止まると合わせて男も振り返り、二人は小声で何か話した。

「そこに誰かいるのか。用があるなら出てくるといい。我々は危害を与えるつもりもないし、もちろん与えられるつもりもない」

 凛とした声に、ウォンは警戒しながらも藪の中から出た。

「君は……郷の人間か」

 続け問われた言葉に頷いて見せる。そういえば、国の要につく者はその国の色を身につけると聞いたことがある。ならば、この旅人は東の者だ。国に携わるものなら、仙人を目指す者や獣のことに詳しいかもしれない。ウォンは意を決して問う。

「あんたたちは、この郷の、本当のことを知ってんですか」

 問うと、しばらく間があって、男から答えが返る。

「知っているわけではない。ただ、聞き知っていることと違っていた、というだけだ」

 それは、と詳しく訊ねようとして、あのあばら家の方から自分を呼ぶ声がした。その声には既に指弾の音を含んでいる。見つかれば、また閉じ込められるだろう。今度こそ錠を落とされ、一日やそこらでは済まないかもしれない。とすれば、今日にも発とうというこの旅人から話を聞くことはできなくなる。誰も答えようとしないウォンの持つ問いと、ただ一人ウォンの話を聞いてくれたあの老猿の答えを得られぬままに。

「俺は本当のことが知りたかっただけだ。ちゃんと本当の事を話して知り合った間にこそ、本当の居場所があると思ったから」

 ウォンは呟き、顔を上げた。そして、旅人との間を詰める。

「君は……」

「すいません!」

 どん、とぶつかって、ウォンは男の懐に手を差し入れた。こつん、と何か硬いものに指が触れて、それを引っ張り出す。反射的に押し返されて、ウォンはそれを握りしめたまま後ろへ転がった。

「それは」

 男が顔色を変えてこちらへ手を伸ばす。小さな鏡だ。細工物だ、後ろには瑠璃の玉がはまっている。よほど大事なものなのだろう。

「他の人に知られても、追いかけてこなくても、俺はこいつを割ります。――お願いします、ラオを、ラオを助けてください!」

 言ってみて、自分が涙声になっているのに気付く。何ごとか、とこちらへ向かう視線を振り払い、鏡をぎゅっと握りしめると、山の方へと走りだした。

 追ってこい。見失わないように。郷の方では、自分を呼ぶ声が増えている。郷中で捜しているのか。ウォンはぐっと歯を食いしばる。もうきっと限界だったのだ。松明の隠してある藪を通り過ぎ、あの岩場へ向かって走り出す。途中、振り返ると二人は確かに追ってきていた。 追われているのに、ウォンはその姿にほっと安堵した。


 自分の居た町から、当てもなく歩いて歩いて、あの郷に辿りついた時、ようやく居場所があったと安堵した。仙人を目指す村だと聞いて、素養の定まらない自分には丁度いいと思った。仙人になれば素養など関係なくなってしまうから。だから、仙人になりたい、と答えたのは本心だ。

 素養が定まりさえしていれば、きっと等しく与えられるその才を捨てて仙になろうなどと思わないだろう。だから、みんな黙っていても、ウォンと同じように苦しんでここに辿りついたのだろうと思った。過去を語らないのは、しがらみを捨てるためじゃない。口にすることが辛いからだ。皆、辛いことがあってここへ逃げてきたのだ。それを仙になりたいと(くる)みこんで、外と離れて、同じ過去を共有する者だけで暮らす。厳しい規則は、心を守るための。郷の者の――おそらく、一番初めにあの樹を見つけたあの老爺の。有情の生きるを許さぬこの地の理に背き、天の懐で花実を結ぶあの樹にすがったのだ。

――でも、ここにいても自分は何も変わりやしない。

 きっと、だから自分は馴染めなかったのだ。何も出来ずに、全てを投げて逃げた自分にも、居場所があって新しい生き方があると思った。駄目だった自分を捨てて、新しく前へ踏み出すことが出来ると思った。でも、ここは違う。

過去を捨てろと言う、あの老爺こそ辛いはずの過去を後生大事に抱えているではないか。自分以外の外の者を恨み、自分を肯定するために逃げて、何よりも過去によって作り上げられた自分を守る人の村。捨てたという過去にどこよりも縛り付けられた郷。獣性を見下し、仙を祀り上げ、それを盾にしている、落人たちの郷。

 過去を忘れたい。過去の具現だった自分を変えて、先へ進みたい。だから、自分はここでは暮らせない。もう限界だったのだ。

 郷からの声も聞こえなくなり、ウォンが疲れて足を緩めても旅人は追いついてきて捕えたりしなかった。ウォンはぐい、と額と目の上を拭った。袖が重たくなる。洞がその小さな口を開けている。洞の口を指し示すと、男は何も言わず頷いた。

「ラオ」

 ウォンは呼びかける。洞の奥に横たわる大きな白い体。下の郷とは逆の意味を込めて、過去に囚われるな、と言った優しき老猿。

「来てくれてよかった、ウォン。……そして、お久しぶりにございます」

 ウォンは膝から崩れ、その場に座り込んだ。握っていた鏡がからからと転がって、旅人の下へと帰っていく。ウォンはそのまま伏すように頭を下げる。

「お願いです、お願いします」

 繰り返す言葉に、旅人はただ頷いた。

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