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樹の主

 朝になり、小屋の皆で朝飯を済ませると、ウォンは部屋の隅から桶を引っ張り出した。今日は仕上げだけで済みそうだ。赤錆の沈んだ水に、手を入れると沈んでいた茶色が舞う。

「ウォン」

 呼ばれて顔を上げると、同じ小屋の男が戸口のところに立っていた。昨日、畑から一番に帰ってきた初老の男だ。何だ、と応えたが、男は険しい顔をして何も答えなかった。男の向こうには、老爺(ろうや)の姿があって、それも同じような顔をしていたのだった。

 ウォンが立ち上がると、男は小屋を出ていった。目の前には郷長である小さな老爺だけが残る。

「何すか?」

 老爺は静かに答えた。

「……おぬし、昨日はどこに行っておった」

 見あげてくる目は、向きとは違って冷たく、見下げるようなものだった。息と応えるための言葉が、喉の底に急いで引っ込んでいく。老爺は一歩進み出て、合わせて引いたウォンは、小屋の奥へ押しやられた形になった。

「否、昨日だけではないの。ここ数日毎日じゃ」

爺様(じっさま)、気付いて……」

「わしが気付いておらぬとでも思うたか? ただでさえここの(ことわり)に馴染めず、その目に疑いを灯した小僧が、暗くなるまで坐するとは思えぬ。しかしな、お前はまだ若い。追いだすのも憐れ、また、外に出たくなるのも已む無しとこれまで見逃しておった」

 老爺はじり、と距離を詰める。

「しかし、あの樹から実を盗むようになっては、もはや看過はならぬ。獣の棲めぬこの地で、実をつけるあの樹は仙を志す我らには、神も同じよ」

 後ずさった足に、滑車の入った桶が当たる。跳ねた水で裾が冷たくなる。

「さぁ、どこに行っておった。ただ実を食べるならああも時間はかかるまい。何を隠している。何に囚われておる」

 小柄な老爺が急に大きく、自分は小さく縮んでしまったような気がした。背に壁が当たり、迫る老爺にウォンはその場に座り込む。

「何も、何もない。実は俺が食べて、山を散歩しただけで……」

「庇うか。囚われたものは、有情のものじゃな。獣に囚われるなど、自ら仙の道を断つものぞ。獣性を捨てられぬものに、道など開けぬ。また、天下の地に暮らすここの者に、獣の息がかかるなどもっての外。隠しだてすれば、この郷の禁を犯す咎人としてここから放逐する」

 放逐、聞き慣れない言葉だが、その言葉の意味するところはウォンにも把握しえた。心の臓や喉元をぎゅっと掴まれたような、命を脅かしうる言葉だ。この外に出て、他にどこに居場所があるだろう。ここは自分に残された最後の在り処。

 眼前にぬっと近寄った老爺の顔には、その言葉通りの凄味があった。ウォンが守ろうとする命を、獣と呼び下げる老爺にとって、獣は邪であり、あの樹こそ聖であるのだろう。ここの者は老爺の教えや定めに沿って生きているから、老爺の意志は郷そのものの意志だ。それならば、実を盗ることはひどく恐ろしいことではないか。

 すみませ、と短い謝罪が、喉から剥がれてこぼれる。途端に、老爺の顔が普段通りの柔和なそれに変わる。まるで今までの表情が嘘だったかのような好々爺(こうこうや)のそれに、ウォンはそれまでの顔と同じだけたじろいだ。

「おぬしは年の割に、賢く鋭い。だが、優しく(もろ)いのじゃ。そんなおまえが心揺るがすものならば、他の者が心囚われることも大いにある。おぬしは今ここからやり直せるが、他のものが囚われては憐れじゃろう。そうは思わぬか? わかっておくれ」

 老爺の言葉に頷きながらも、ウォンは視線から目を逸らし、俯く。

「爺様、俺は……どの言葉が正しいのかわからないよ」

 ウォンの前から引いて、こちらに背を向けた老爺は静かな声で答えた。

「獣の言葉は正しく聞こえるじゃろうが、所詮獣の言葉よ、受け入れてはならぬ」

 外で、老爺を呼ぶ声が聞こえる。急ぎの用を伝える声だ。老爺は振り返り、立つように行った。外の声に待つように言って、老爺は歩き出す。外から人が来た、というらしい。

「さぁ、ついてくるのじゃ」

 外に出ると老爺は五稜子の樹に一番近い、最も古く小さな小屋にウォンを連れていった。何にも使っていない、空の伏せ屋だ。

「今日はそこで、一日坐すが良い。わしがここに来たばかりの頃、使っていた(しず)()よ。心を落ち着かせ、よく考えるのじゃ」

 針金のような細い指にぎゅっと掴まれて、ウォンは大人しくその中に入った。後ろで薄い戸が閉まる。錠は落とされなかった。

 老爺の擦る足音が遠ざかってから、ウォンは一つだけ開けられた小さな格子戸から外を見やった。ここからはヤンタオの木がよく見える。緑の丸葉の中に、ちらほらと見える黄色い実。去年も、あの実はそのうちに腐れて落ちたのだったか。誰も食べず、愛でず、崇められるあの果樹は、一体何のために実をつけるのだろう。微かな甘い香りに、ウォンは大きく呼吸した。

 ふいに外の声が大きくなって、ウォンは窓から頭を引っ込めた。見つからぬように、そっと覗き見ると、見慣れぬ人が老爺と共に立っていた。影は二つ。背が高く額に青い巻き布をした若い男と、五稜子の実のような髪をした子供だ。子供の方は十五かそこらだろうか。壁と窓に耳を寄せると、僅かながらにもその声が聞こえた。

「突然に失礼した。こちらも不意のことで風の知らせに立ち寄ったところ。……ここの主にご挨拶申し上げたい。この樹の主はどこぞにいらっしゃろうか」

 男の声には張りがあって、言葉の隅まで聞きとれた。対して、それに応える老爺の声は小さく、風の鳴るのに消えてしまっている。樹の主というなら、あの樹は郷のもの、言うなれば眼前の老爺のものだ。そうでなくても、老爺がここの長であることは、見れば大体わかろうものだ。

「そうですか。ならば、我々は少しこの郷を見て、今日にも去ろうと思います。――昇仙の邪魔となるのは、本意ではない」

 老爺は何と答えたのだろう、青年の応えを聞く限りでは推し当てることはできそうもない。耳を離し、旅人を見やると、今度は子供の方が樹上を指し、何か話していた。それに老爺は首を振る。こちらはわかった。あの実について食べれぬのかと言っているのだろう。子供が怪訝そうな顔をしたが、その先に会話はないようだ。若い男が子供を連れてこちらに歩いてくる。ウォンは慌てて頭を下げ、窓から覗きこめぬ場所で坐した。少しして、あの青い巻き布の男の声がした。このあばら家のすぐ外、木の板を一枚隔てたところだ。

「……ああ、ここはおかしい。だが、ここにいないというなら捜さなければな。随分、気が弱まってきている。急がねば手遅れになろう」

「この郷の中から捜しますか? 師匠」

 ここにいない何かを捜す会話。足音が遠のいて行って、こっそり窓の外を見やると、離れていくその男の懐で何か光るのが見えた。

 ここにいない者、弱りつつある者、樹の主。急がねば手遅れになるということは、間に合いさえすれば、彼らはそれを助けうるということだ。ばらばらと真珠玉のように散らばっていた自分の考えが、糸を通したように繋がった。

「ラオ……!」

 再び坐したのも数秒。ウォンは小屋から飛び出していった。

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