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若者と老猿

郷から完全に見えなくなったのを確かめて、ウォンは樹上に隠しておいた小さな松明に火をつけた。山を分け入り、岩場へと出る。風車台に上った時にだけ見える、地滑り跡のような僅かな岩場だ。そこに、藪に隠れた割れ目があって、中が広く(うろ)になっている。

「ラオ、具合はどうだ」

 入り口近くに松明を差し、奥に呼びかけると、洞の奥でむくりと白い塊が起き上がった。こちらを見返すのは熊よりも大きな白い猿だ。皺だらけの顔の真ん中で、低い鼻がひくひくと動いている。

「ウォンかい。いい匂いだ、五稜子(ごりょうし)の実だね」

「ああ、一個しか持って来れなかったけどさ」

 充分、と大猿は頷いた。洞の奥で横たわる大きな体。もう随分な年なのだという。体はふさふさと長く白い毛でおおわれて、長い尾がある。鼻の頭は薄曇りの空のように、少し青みを帯びていた。白く大きな老猿の姿に、初めて見た時は神様や霊獣の類なのかと思った。向こうから名を尋ねられて、恐る恐る近寄ると、彼は小さく笑んでいった。でかいだけのただの猿だ、と。

 ラオは目が見えない。近寄ってみると、目がしらには(やに)が溜まり、双眸は白濁していた。しかし、老猿は落ち着いていた。まだ鼻が利くし、もうそう動くことがないから、と。いつから居たのだろうか。ウォンがこの岩室を見つけてからずっと、ラオは伏せっていた。

「今日は、風が強かったね。冷えなかったかい」

「俺は大丈夫。ってことは、冷えたんだろ、ラオ。明日、持って来れたら藁を少しかっぱらってくる」

 地べたに横たわっていた彼の為に、ウォンは寝藁をひいてやった。もともと作業小屋で少し余っていたのを、こっそり持ってきたのだ。目やにをとってやって、彼は断ったけれども、少しばかりに食べ物を運んできた。水は洞の隅で、岩から染み出した清水が溜まっているから大丈夫だ。

近づくと、こちらへ顔を寄せて、老猿は言う。

「ウォン。そう君の世話には及ばないよ。見つかれば、君も咎められるだろう」

「ばれなきゃいい。みんな暗くなったらすぐ休むし、俺は坐に出ていることになってる。森から出てきたのを見つかったところで、用足しだって言やぁいいさ」

 そうかい、とくぐもった声が帰ってくる。ウォンはラオの体に触れた。毛はしなやかでたくさんあって、上等な絨毯のようだ。

「ラオの毛は綺麗だな。白い猿は神様だって、昔ばあちゃんに聞いたことがある」

 背を撫でやって呟くと、ラオはゆるりと首を振った。

「歳をとったから、白くなったんだ。昔はもっと色が濃くてね。国中を動き回っていた時は、五稜子の実のような黄色だった。それにもっとつやがあったはずだよ」

 惜しむような声でそう応え、ラオは大きく息をついた。掌の下で彼の体がぐぐっと動く。毛の下、皮の下にすぐ骨があるのがわかる。毛のせいで大きく膨らんで見えるが、その下は酷く痩せている。肉がなければいくら外を覆っていても寒いだろう。

「元気になれば、つやは戻るさ。もっと食べねぇと駄目だよ、ラオ。ほら」

 鼻の下に五稜子の実を近付けてやると、老猿は深く呼吸した。

「ああ、いい匂いだ。でも、今はいい。さっき水を飲んだから」

「水だけじゃあ腹は膨れねぇよ」

 口を尖らせると、ラオは笑う。

「そんなことはないよ。確かに腹に入ってる。それにこれは病気じゃあないんだ」

 ぴた、と岩から水の滴る音がする。そして、実を下に置くように言って、ラオはもたげていた頭を下ろした。

「ウォン。今日も、君の話が聞きたい。昨日は、君が鍛冶の家の子だということしかわからなかったから」

「昔の事は、話すなって言われてんだ。心がそれに囚われるからさ」

「下では話せない、というだけさ。それに私は昔のことが聞きたいんじゃない。今の君を作るものがなんなのか、それを聞きたいだけなんだよ」

 ふう、と息をつき、ウォンは老猿の前に腰を下ろした。見えてはいないのに、こちらを見つめる目はどこまでもこちらを見透かしているように見えた。

「……うちは、ずっとじいちゃんのじいちゃんの、そのまたじいちゃんが生まれる前からずっと鍛冶やってたんだ。刀こそ作ってないけれど、それ以外なら何でも作ってきたよ。俺はそこの長男坊として生まれた」

 相槌を打つ、老猿の息の音。

「うちには長子にだけ教えられる秘伝があった。それは素養が定まって、十五の年になったら――つまり、一人前の人間になったら、親から教えられるんだ。そうやって腕を継いできた」

 胸の奥が重く詰まるような感じがして、ウォンは深く息をついた。それでも、重みは抜けていかない。話を止めても、ラオは続きを促すかのように黙ってこちらを見ていた。

「……俺には、弟がいてさ。同じように親父から鍛冶を教わってきた、しっかりものの弟だ。俺は十五を過ぎても、素養が定まらなかったんだ。そうこうしているうちに、弟が十五になった」

「弟君は素養が定まっていたのかい」

 ウォンはそれに、頷いて返す。

「十五の年になったその日に、弟から素養はもう定まってるって聞いた。親父は早く、自分の技を伝えたくて仕方がない顔をしていたし、皆、俺の素養が定まらないのに苛々してた」

 まだか、と急かす父母の声。黙ってはいたが、弟の槌を打つ手も、まるで咎めるかのように聞こえた。

「長子が継ぐのが決まりなら、弟が長子になればいい。だから、俺は家を出た」

「それで下の(さと)についたのかい」

「どこへ行っても良かったんだ。そしたら、仙人になれる村があるって聞いた。仙人になれば、世の中に辛い思いをする必要がないんだって」

 ラオの青い鼻先がぴくりと動き、眉間にさらに皺が寄る。何か言いたげで、それでも、彼は沈黙を(とお)した。

「わかってるよ。でも、たとえそれが嘘だっていいんだ。あそこは俺に居場所をくれる」

 これで全部だ、と応えると、ラオは大きく頷いた。

「初めあった時、君から火の匂いがした」

「ラオは、なんでもわかるんだな」

 ウォンは立ち上がり、洞の入り口を見やった。そろそろ戻らなければ、さすがに誰かが訝しむだろうか。戻るよ、と言うとラオもただ頷いた。

 松明をとり、洞の外へ出る。灯りが出ると洞の中は完全に闇になってしまった。じゃあ、と去ろうとすると、後ろからラオの声が届く。

「ウォン、下の者達は……」

「ん? 何だ、ラオ」

「いや、いい。それより、今日の風は懐かしい匂いがする、と思ったんだ。……さて、気をつけて帰るんだよ」

 ああ、と応えて返し、ウォンは藪を払って駆けだした。布をかぶせて松明の火を消すと、途中の茂みにそれを隠した。小屋に戻ると皆もう休んでいて、ウォンの寝床の隣の男が、気付いて起きた。遅かったな、という声に、便所に行ってた、とだけ答えて、ウォンはすぐに横になった。

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