五稜子の樹
梯子を降り切ると、老爺が滑車を見せるように言った。汚れるか、と思ったがどうせ後で自分が手入れするのだ。ウォンは構わず、がらりとそれを地面に置いた。
「ふむ、酷いものじゃのう」
皺だらけの指で老爺は滑車を撫でた。年を経たその皮膚はなめし革のような厚みを持って見える。赤錆びてでこぼこになった滑車とよく似た手だ。
「錆を取って、油を注せばまだ動くんじゃないすかね」
「そうかのう。じゃあ、これはこのままウォン、おぬしに任せようぞ」
立ち上がった老爺はこちらに背を向け、郷の中央にある古木の方へと、ゆっくり歩き出す。古い風車の回るようにぎしりぎしりと軋みながら。ウォンは錆びた滑車を拾い上げると、ざっとそれを見回して、老爺に呼びかけた。
「窯を貸してもらえれば、俺、もう一回これ焼き直せますよ。前にやったことがあるし、それなら――」
言いかけて、こちらを見る老爺の視線に気がついた。冷たく咎めるような眼差しに、その先の言葉をぐっと飲み込む。老爺は白いひげに覆われた口元をもぐもぐと動かす。
「過去の事は全て忘れい。それがあるから、お前は病む。仙にはなれん」
「……はい」
「うむ。風車に上れるのはおぬしだけでの。幸い、今は挽く麦もない。ゆっくりで構わぬ。よろしく頼んだぞ、ウォンシン」
小さく返事を返し、ウォンは俯いた。細則というほどではないが、この郷では守らねばならぬこと、犯してはならぬことがいくつかある。自他を問わず過去に触れぬこと。それはもっとも基本の条項であって、どうしてかウォンが一番苦手なことだった。
ウォンは一度、生活小屋に戻り、桶の中に滑車を入れる。錆をとるのは骨が折れそうだ。道具があまりないから、何を使うかも考えなければいけなかった。ウォンは別の手桶を持って水を汲みに出て、井戸を覗き込んだ。釣瓶をとり、ゆっくりと底へと下ろす。遠い水面に、自分の顔が映る。はっきりとした眉と、への字に結ばれた唇。この郷に来た頃はまだ、口も真一文字だったような気がするが、今はつんと上向いてしまっている。
釣瓶を取ろうとして、髪を押さえていた組み紐が解ける。撥ねがちな硬い髪が目や額にかからぬように、前頭で押さえる紐だ。かろうじて紐は中に落とさずに済んだが、引き上げた釣瓶がまた井戸の底へと戻っていってしまった。釣瓶が叩いた水面が波を立てて、映っていた自分が崩れる。乱暴にすれば、釣瓶は簡単に壊れてしまいそうだ。目の前を覆う赤毛を払い、ウォンは釣瓶を引き上げた。
作業小屋に寄って油をとってきたが、それももう残り少なかった。錆止めに全体に塗りたいが間に合うかは微妙なところだ。使えそうな道具をいくつか取ったが、どれも元々錆取りに使うものではない。できることなら、一度分解したいが、自分の力で外せるだろうか。
水につけて、力いっぱいにひねると滑車はばらばらになった。風に触れていなかった部分は黒く、元々の鉄のつやが残っている。海が遠くても、風が当たれば鉄は錆び、雨が叩けば僅かにも溶ける。そうだ。家にいた頃は、もっと砥ぎや焼き直しの仕事があって――
そこまで考えて、ウォンはぶんぶんと頭を振った。老爺から注意されたばかりだというのに。忘れようとすればするほど、事あるごとに思いだしてしまうから、困る。
作業にとりかかって、どのくらい経ったろう。生活小屋に人が帰ってきたのに気付いて、ウォンは顔を上げた。雨戸の向こうに見える空は随分赤い、そういえば赤茶に濁る桶の水には自分の顔がくっきりと映っている。小屋の中は薄暗い。入ってきたのは先輩の男で、歳は四十がらみだろう。首に掛けた手ぬぐいで顔の汗を拭っている。畑から帰ってきたのか。
「ああ、おかえり。もうそんな時間か」
声をかけて、ウォンは手を止めた。同じ小屋の他の人もすぐに戻ってくるだろう。黄の地は虫や鳥がほとんどいないから、外のように作物が喰われることがない。それでも、花は咲かず、よって実を結ぶこともないから、ここでは葉もの根ものを作るのがやっとだ。手に入らない米や麦は、時折外に出ていってそれらと交換してくる。ここはきっと土が強すぎるのだ。
「お前、ずっとそれやってたんか」
滑車とやすりを手に、ウォンは頷いて返した。擦った部分を水にさらし、引き上げる。滑車はところどころ茶けて見えるものの、もう殆ど鉄そのものの色だ。あと少し磨いたら、油を塗ればいい。
「お前、今日、組み坐やってないだろう。暗くなる前に行った方がいいぞ」
男は言う。ここの郷の者は、一日一回、必ず中央にある古木の周りで座して、気の修養を行う。時間はそれぞれだが、皆それを欠かすことはない。ここにいるものは皆、意気こそ違えど、仙人になるのを目指しているからだ。
「そうするよ。でも、皆先に食って休んでていいよ。俺、今日は殆ど動いてないし、腹減ってねぇから」
ウォンは滑車をつけた桶を隅に押しやって、立ち上がった。外に出ると、小屋へ帰ってくる仲間とすれ違った。これから坐か、と問う声に、労いの言葉を返しながら、郷の中央にある古木へと向かう。見事な枝ぶり。花実の望めぬ黄の地で、それが果樹だとわかるのは、それが何故か、ただ一本だけ実をつけているからだ。
白い縄の張られた太い幹、くねりながら四方八方に広がる枝。丸い葉とその陰には黄色い実がついている。実は五つの稜があって切ると星に見える。――ヤンタオの木、と皆はいう。
自分がこの郷に辿りついた時には、この樹は小さな赤い花でいっぱいだった。実がなるのを見るのは二度目だ。張り出した大枝の下に座し、ウォンは静かに目を閉じた。
目的が、居場所が無くなったからこそ、ここに来た。あの老爺のように初めから仙を志して来たのではないが、仙になることができるというなら、それにすがりたい。浮世に心揺るがぬ強いものになりたい。黙してしばらく座していたが、微かな甘い匂いに、心はちっとも落ち着かなかった。
ウォンは立ち上がり、辺りを見回して誰もいないのを確かめた。辺りはすっかり暗く、小屋の明かりもおぼろげだ。もう外に出てくる者はいないだろうし、帰りが遅いからと言って、坐に出た自分を探しには来ないだろう。
ウォンは足にぐっと力を入れ、飛び上がった。掌ほどの黄色い実を掴み、もぎ取る。これがどうしても食べたいと言っていた者がいる。決して取ってはならぬ、と言われているその実を手に、ウォンは御山のほうへ走りだした。