林檎に関する難解な話
それでは、まあ、楽しんで。
教授は壇上に上がると、いつものように一つ咳払いをした。
「ええ、さて、諸君らへの講義はとりあえず今日で一区切りとなるわけなんだが、ええ、まあ最後まで気を抜かずに頑張って欲しいものだね」
諸君も何もない。講義室にいる生徒は僕一人だけである。がらんとした講義室は二人で使うには寒々しすぎる。しかし教授は全く気にならないようで、話を続けている。
「ええ、諸君らは小学校からずっと算数、もとい数学をやってきとるが、しかし君らが分かっとると思っている数学はそのほとんどが勘違いと思い込みで成り立っとる。請け合おう。どうしてそんなことが言い切れるのか。いつの時代もそう言う生徒がいた。今はどうも少なくなっとる気もするがな、教授は我々を馬鹿にしているのか、とか私に向かって言い返す輩だ。ええ、ウチの大学まで努力に努力を重ねて、ようやっと入れた奴らだからな、そう言いたくなる気持ちも分からんではないよ、ええ。しかし私が言うのはそういうことではないんだ。諸君らが高校で習った微積分やら極限やら行列やらは今日はどうでもよろしい。私が考える諸君らの勘違いというのは、諸君らが大昔から慣れ親しんどるはずの足し算や引き算についてだ。勘のいい奴ならばここらでぴんと来て欲しいところだぞ、つまり私が言いたいのはだな、足し算や引き算のような基本的な事柄に対しても、常に疑いの視線を向けるがよしということなんだ。そしてこれは数学の基本、原点でもある」
教授はもう一つ咳払いをすると、黒板に向き直ってチョークを執り、大きく「1+1=」と書いた。
「さて、この問題の答えが分かるかな? 私は別にからかってるわけじゃない、もちろん田んぼの田なんていうとんちでもない。さっき私がさんざん諸君らを焚きつけたのが少しでも功を奏していれば、君らは簡単に2と答えることをためらうだろう。そうだ。それでいい。しかしこの問題の答えは2だ。それは紛れもなく正しい。ちょっとひねくれた奴なら、ベクトルだとか2元体だとかを持ち出してきて反論しようとするが、ええ、まあそれはそれでよろしい。しかし今日扱うのはただの自然数だ。つまり小学校の算数だ。小難しい代数学は必要ない。
「一つ意識してもらいたいことがある。諸君らはこれを読む、口に出すにあたって、簡単に『いちたすいちはに』と言ってはいないか? これは大きな語弊がある。と言うよりも、ええ、そうだな、気遣いが足らん。それではどう読むのが最も妥当なのか。そうだ、妥当という言葉さえ、わざわざ選んで口にしていることに気付いてくれよ、ええ、そしてこれは『いちたすいちはににひとしい』、と読むのが最も妥当と思われるのだ。これからその理由を説明していこう。
「かの発明王トーマス・エジソンが小学生の時、1+1=1だと言って学校を退学せざるを得なくなったのは少なからずの人が知っている逸話だと思うがどうかね? つまり砂山を一つと一つ、作って、それを合わせてしまったら答えは一つ、とまあこういうことだ。馬鹿馬鹿しいと思うかね? しかしこれには大きな示唆がある。数学というのは論理で成り立っとる学問だ。その論理とは、人々が感じる妥当性による。つまり何事かに当てはめて具体的に考えることが出来なければ、その論理は意味を成さないというわけだ。少し難しいか? そうだな、ええ、例えば、『青い肌の人間は怒りっぽい』という文があるとする。これは正しいか間違っているか、どちらだと思うかね? しかし世界中探してみたところで、青い肌の人間が見つかるはずがない。化粧はだめだぞ、我々は一人ひとりの肌をきっちり洗い流した上で青い肌の人間を探しているのだ。そして、青い肌の人間が見つからなかったなら、この文章は全く意味を成さなくなってしまうという事は分かるかね? 当てはめる具体的な何かがなければ、論理的な文は無意味になってしまうのだ。そしてこれは『1+1=2』に対しても同じことが言える。
「『1+1=2』が論理的に正しいと主張したければ、その具体的な何かを探してこなければならない。エジソンはその何かとして砂山を用いた。さあ合わせてみよう、すると砂山は一つになってしまった。となれば、エジソンが『1+1=1』を妥当だとした理由も分かるだろう。ここでもう一度、あの生意気に登場してもらうとしようか、彼はこう言うだろう。『砂山は量の計算になるのではないか』。なるほど、たしかに1の量の砂山を二つ合わせれば、2の量の砂山が出来るだろう。しかしこれが数の恐ろしいところだ。本当に恐ろしいのだ。その砂山が本当に1なのか、本当に厳密にぴったり1なのか、ということは誰にも分からないということが分かるか? ええ、もしかしたら片方の砂山が一粒だけ多いかもしれない、そうなったらこれはもう『1+1』とは呼べなくなってしまう。『1.0000001+1』なんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるな、計算なんてする気も起きんだろう。『砂粒1つと砂粒1つで合わせると2』という反論なら、これはもう砂粒を小学生よろしくリンゴに置き換えても構うまい? さあここにリンゴがある」
教授は赤リンゴをポケットから取り出した。
「そこの……メガネをかけた君、リンゴは幾つあるかね?」
「一つです」
「よろしい、君は直ぐに答えたね、ええ、頭の回転が早いのはいいことだ。だがその答えすらも全く厳密ではないのだ」
教授はリンゴを教卓の上に置いた。そして壇上から降りると、そのまま講義室を横切って、部屋から出て行ってしまった。ドアの向こうから声が飛んできた。
「何をぼさっとしてる、さっさとついて来んか!」
僕はあわてて部屋を飛び出して、教授の後を追った。
僕は教授の後ろについて、構内を歩いていた。校舎から出て、中庭を通り、渡り廊下を横切った。教授はどこへ向かっているのか想像がつかない。また別の校舎に入ったと思ったら、最上階まで階段で登って降りて、何もせずに出てきたり、構内にある池をぐるりと一周したり、そんな全く無駄と思えるようなコースもあった。その間も教授はひっきりなしに喋り続けて、僕はその細部まで聞き漏らすまいと必死だった。
「『ここにリンゴが一個ある』ということは、そのリンゴを1と名づけていることと同じだ。リンゴが一個あるのではなくて、このリンゴを一個と呼ぶのだ。だがもう一つのリンゴも全く同じように一個と名づけてしまうのはあまりにも手を抜きすぎるものだと私は考えている。小学生のエジソンも同じように考えたに違いない。リンゴは一つ一つ重さも、大きさも、微妙な色合いも、全て異なっているというのに。もしも片方が赤より小さい青リンゴだったならば? 赤と青は違うのに、両方とも1と呼んでいいものだろうか? これは確かに極端な議論かもしれないが、一笑に付してしまうのはあまりに勿体無い。我々はこの逸話から学ぶことがたくさんあるのだ。そして本物の数学というものは似たような極端さでなければ成り立たないところまで来ている。む。数学というものに対しては、どれだけ厳密に考えようが厳密すぎるということはないのだ。諸君らが小学校、ひょっとしたら幼稚園の頃から教わってきた算数、見慣れた足し算、引き算、掛け算、割り算……もう少し数学的に呼べば加減乗除となるが、これら非常に基本的なことでさえ、数学はその奥に豊穣な謎を隠しているのだ。しかしその謎を手にすることが出来るのは、それを本当に求めた者に対してのみ、知ることが許されている。
「1という概念、もっと広げて数という概念は、現実の問題に置き換える時に非常に注意を要するものだ。本当の数学は頭の中でするものだから、それ以上考えなくていい、ええ。だがそれは前にも言うたように、現実の問題に当てはめることが出来て初めて意味を持つ。これについてイギリスの数学者で論理学者でもあるバートランド・ラッセルの言葉がある。彼は古代ギリシャのアリストテレス以来最大の論理学者の一人ともいわれているな、ええ、とにかくすごい人だ。彼はこう残している。少し長いぞ、『しかしそのことは、二足す二は四だという私の信念を揺るがすものではない』とあなたは言うかもしれない。それはその通りだろう。しかしきわめて周辺的な問題では、そうはいかない場合が出てくるのだ。そして、ある動物が犬であるかどうか、ある長さが一メートルより短いかどうかが問題になるのは、常に周辺的な場合なのである。二とは、何かが二つあることでなければならない。したがって、二足す二は四という命題は、その何かに適用されなければ意味がない。二匹の犬と二匹の犬を足せば確かに四匹の犬になるだろう。しかし、その二匹が本当に犬かどうか分からない場合もあるのだ。『いずれにせよ四匹の動物がいることには間違いないだろう』ともあなたは言うかもしれない。しかしこの世には、動物なのか植物なのかはっきりしない微生物もいる。『では生物ということにしよう』とあなたは言うだろう。しかし生物なのか無生物なのかはっきりしないものもこの世にはある。しまいにあなたはこう言うことになるだろう。『二つの存在足す二つの存在は四つの存在だ』。『存在』の意味するところを教えてもらえれば、そこから議論を再開しよう。…………とまあこんな感じだ。何となく意味は分かってほしいねえ」
教授はこれを全くつっかえることもなくすらすら言ってのけた。昔から何度も繰り返し唱えてきたのだろうと思った。二人は大学の構内をほとんど一周した後、教授の研究室の方に近づいていた。馬鹿に遠回りをした。
「さて、そろそろ目的地に近づいている。私が何をしようとしているか分かるかな? ええ、私が今から諸君らに伝えたいのは、『合わせる』ということについてだ。『1+1』の『+』の部分だ。それでもって、これからは大いに譲歩する。リンゴは皆同じものとすれば、両方に1と名づけても構うまい。その上で、私の話を聞いて欲しいね。ちなみに、砂山に関してはこの場合でも上手く行かないのだ。それについてはあの生意気に譲ろうとしようか、せいぜい頭をひねるがいい。さて、着いたぞ」
そこはやはり教授の研究室だった。教授はドアを開けると、僕に中へ入るよう促した。
簡素な部屋だった。本棚と机しかない。その机の上に、リンゴがもう一つ乗っていた。
「私の質問の答えは分かったかな? リンゴはいくつあるか、正解は二つだ」
教授は悪戯っぽく笑った。
「これは今度こそとんちだ。今この部屋と、講義室にリンゴは1つずつある。だが、リンゴが幾つか、とだけ問われれば、その数は想像もつかないということは分かるかね? この世には数え切れないほどのリンゴがあるのだから。つまり何がいいたいのかというと、我々は何をもって1つと2つを区別しているのかということだ。これほど2つの距離が離れていれば、諸君らは私の正解に文句を言うだろう。私もそれは理解する。つまり、1と2を区別するのは距離だ。これは一つの発見だ。さて、発見があれば、それは次の段階に進まなければならない。すなわち、その距離とは具体的にどのくらいか。例えば、リンゴを講義室の隅々に放して置いたなら、諸君らは何個と答えただろう? 気付いた人は2個と答えるし、気付かなければ1個と答える。分かれてしまうのだ。合わせる、とはどの程度の距離まで近づければいいものか? 遠すぎればそれはただの一個だし、くっつけてしまえばそれはもはや『リンゴを二個くっつけた何か』であってリンゴではない。さて、気付くということは認識だ。人間の認識とはどのようなものなのか、それは数学においてどのような影響を及ぼすのか。私の人生も残り少ないことだし、これからはこの距離を出来るだけ厳密に測定することを余生に充てたいと思うね。
「そうだ、問題の答えがもう一つあったな、どうして『いちたすいちはににひとしい』と読むのが妥当かという話だ。これも今までのことを何となくでも理解してもらえれば分かると思うが、つまり数という概念の難しさに起因している。1も2も、概念としては確かであっても、現実的に適用できるかといわれればその確かさは揺らいでしまうのだ。それならば、計算の便宜上1+1という計算と、2という概念を等しいということに決めてしまって、その印として等号で結ぶことにしようと、それだけのことだ。決して1+1が2という別物に変わってしまうわけではない。この二つの概念は本来的に全く別のものだし、それを詳しく説明しようとすれば本が一冊書けることだろうな。ええ。普段計算をする時はこんなことを考えたりはもちろんしないだろうが、この単純な作業の裏に奥深い世界があるということを知っておいて欲しい」
教授は部屋の奥まで歩いていくと、机の上のリンゴを手に取った。
「このリンゴはメガネの君にあげよう。講義室のリンゴは私がもらう。それでいいね?」
教授はリンゴを投げてよこした。受け取ったそのリンゴは手のひらに余るくらい大きくて冷たかった。僕は教授が言ったことの意味をゆっくりと考えて、反芻した。数学には、確かに一筋縄ではいかない魔物が棲んでいる。それから、教授がたった一人を諸君と呼ぶわけも大体分かった気がした。
ラッセルの引用は、新潮文庫「フェルマーの最終定理」より。