「愛するつもりはない」と孫娘に告げた公爵
手紙は、法務院の封蝋ではなかった。
南の港町の、町役場の印だった。
アウグスト・ヴァルデン公爵は、ペーパーナイフで封を切り、二枚の便箋を最後まで読んだ。
息子のルートヴィヒと、その妻が、馬車の事故で亡くなった。
五歳の娘が一人、軽傷で保護されている。母方の祖父母はすでに亡く、ほかに身寄りは見当たらない。
ついては、ヴァルデン公爵家の意向を伺いたい。
アウグストは、便箋を机に置いた。
窓の外で、庭師が生垣を刈る音がしていた。
しゃき、しゃき、と、三回。
四回目の音がする前に、アウグストは呼び鈴を鳴らした。
「ヴァルター」
「はい、旦那様」
執事のヴァルターが、いつもの速さで入ってきた。三十年、この家に仕えている男だ。
「南の港町へ使いを出せ。孫を引き取る」
「……お孫様、でございますか」
「ルートヴィヒに娘がいた。五歳だそうだ」
ヴァルターは、一瞬だけ、机の上の便箋に目をやった。
何も聞かずに、頭を下げた。
「かしこまりました」
「それと、子供用の部屋を用意しろ。来週には着く」
「……子供部屋」
「何か問題があるか」
「いえ。かしこまりました」
ヴァルターが出ていったあと、アウグストは便箋をもう一度手に取って、折り目に沿って畳み直した。
畳み方が、一度目より丁寧だった。
◇
三日後、アウグストは東の客間の前に立っていた。
「これが、子供部屋か」
「はい、旦那様」
寝台。机。椅子。衣装箪笥。
どれも、屋敷で一番上等な家具だった。南向きの窓から、午後の日差しが差し込んでいる。
アウグストは、部屋の中央まで歩いて、ぐるりと見回した。
「問題ない」
「……さようでございますか」
返事に、わずかな間があった。
「何だ」
「いえ。ただ、その」
ヴァルターは、言葉を選ぶように顎に手を当てた。
「幼いお子様のお部屋というのは、これだけでよろしいのかと」
「寝る場所がある。学ぶ机がある。着る物を入れる場所がある。何が足りない」
「それは、私にも分かりかねますが」
「分からんのに、足りないと思うのか」
「足りない気がいたします」
「気がする、では判断できん」
二人は、部屋の真ん中で腕を組んだ。
「旦那様。ルートヴィヒ様が幼い頃のお部屋は、どのようなお部屋でございましたか」
「……覚えておらん。妻に任せていた」
「さようでございましたな」
「お前は覚えていないのか」
「当時、私は従僕でございましたので。坊ちゃまのお部屋には、上がったことがございません」
また、沈黙が落ちた。
机の上には、羽根ペンとインク壺が置いてあった。
「……五歳は、字を書くのか」
「書くのでは、ございませんか」
「どの程度だ」
「さあ……」
「法務院の新人の初日程度か」
「それよりは、かなり下かと存じます」
「では、何程度だ」
ヴァルターは、天井を見上げた。
「……メイド長を、呼んでまいります」
◇
メイド長のゲルダは、部屋に入るなり、二人の顔、部屋、もう一度二人の顔、の順に眺めた。
「……旦那様。こちらに、五歳のお嬢様が?」
「そうだ」
「インク壺が出ておりますが」
「学ぶ机だ」
「床に、こぼされますよ」
「こぼすのか」
「こぼします。五歳ですので」
アウグストは、インク壺を見た。ヴァルターも、インク壺を見た。
ゲルダは、ため息をつかなかった。代わりに、指を折って数え始めた。
「年に合った絵本。積み木か人形のような、手で遊べる物。寝台の脇に、夜に怖くないように小さな灯り。窓の掛け金は、お嬢様の手の届かない高さに。それから、お屋敷の中で一人で行ってよい場所と、だめな場所を決めておくこと。階段と、池のそばは、だめです」
「池」
「落ちます」
「落ちるのか」
「落ちます。五歳ですので」
「書き留めろ」
「すでに書いております」
ヴァルターの手帳に、細かい字が増えていった。
ゲルダは、最後の指を折った。
「いちばん大事なことでございますが」
「何だ」
「お嬢様ご本人に、お尋ねになってください。何が好きで、何がお嫌いか。私どもが揃えるより、そのほうがずっと確かです」
「……尋ねる、か」
「はい」
「五歳に」
「五歳にでございます」
窓の外では、庭師が生垣の刈り込みを終えて、梯子を畳んでいた。
「……インク壺は、片づけておけ」
「かしこまりました」
◇
孫娘が着いたのは、雨上がりの午後だった。
馬車の扉が開いて、町役場の女性職員に手を引かれて、小さな女の子が降りてきた。
茶色の髪を、二つに編んでいる。左の額に、治りかけの擦り傷があった。
胸に、くたびれた布の袋を抱えていた。中身は着替えだと、職員が言った。
女の子は、石段の下で立ち止まった。
三階建ての、灰色の石の屋敷を見上げて、最後に、玄関の前に立つ男を見上げた。
目の形が、ルートヴィヒに似ていた。
「名は」
「……シャルロッテ」
小さな声だった。
「ロッテ、って、呼ばれてた」
アウグストは、頷いた。
「私は、お前の祖父だ。アウグスト・ヴァルデンという」
ロッテは、布の袋を両腕で抱え直した。
「お前はこれから、この屋敷で暮らす。必要な衣食住と、教育は与える」
アウグストは、言葉を切った。
これから言うことは、最初に伝えておくべきだと考えていた。守れない約束をするよりは、ずっと誠実なはずだ。
「だが、愛情などは期待するな」
石段の上で、ヴァルターが、ほんのわずかに目を閉じた。
ゲルダの口元が、何か言いたげに動いて、止まった。
ロッテは、アウグストを見上げたまま、瞬きをした。
「……あいじょう?」
「そうだ」
ロッテは、考える顔をした。袋を、もう一度抱え直した。
返事は、なかった。
「ゲルダ。部屋へ案内しろ」
「……かしこまりました」
ゲルダが、ロッテの前にしゃがんだ。
「お嬢様。お部屋は、南向きで、とても明るいんですよ」
ロッテは、ゲルダの顔と、差し出された手を見比べた。
手は、取らなかった。袋を抱えたまま、ゲルダの後ろを、二歩離れてついていった。
石段の下に、町役場の職員が残っていた。
職員は、アウグストに書類を渡しながら、言いにくそうに言った。
「あの……お嬢様は、ここ十日ほど、ほとんどお話しにならなくて。夜も、よく泣いておいででした」
「そうか」
「それでは、私はこれで」
職員を見送ったあと、ヴァルターが、隣に立った。
「旦那様」
「何だ」
「先ほどの、愛情の件でございますが」
「事実を伝えたまでだ」
「……さようでございますか」
ヴァルターは、それ以上何も言わなかった。
◇
翌日、アウグストは、法務院から戻ったあと、ロッテの部屋を訪ねた。
ゲルダの言っていたことを、実行しようと思った。尋ねる、ということを。
ロッテは、寝台の端に座って、窓の外を眺めていた。
アウグストが入ってくると、ぴくりと肩が揺れた。
アウグストは、椅子を一脚引き寄せて、寝台から一歩ぶん離れたところに座った。
目の高さが、それでもまだ合わなかった。
「何か、必要な物はあるか」
返事がない。
「着る物でも、食べる物でも、本でもいい。言え」
ロッテの唇が、動いた。
「……パパと、ママに、会いたい」
アウグストは、膝の上で手を組んだ。
「それは、無理だ」
嘘は、つけなかった。
それで慰めになるとは思わなかったが、ほかの答えも持っていなかった。
ロッテは、うつむいた。
「……じゃあ、なにもいらない」
それきり、ロッテは窓のほうを向いてしまった。
アウグストは、組んだ手を、ほどいて、また組んだ。
三度目に組みかけたところで、立ち上がった。
廊下で、ヴァルターが待っていた。
「いかがでございましたか」
「何もいらんそうだ」
「……さようでございますか」
「ならば、それでよい。本人がそう言っている」
ヴァルターは、アウグストの後ろを一歩遅れて歩きながら、言った。
「旦那様。法務院で、証人が一度目の聴取で何も話さなかったとき、旦那様はどうなさいますか」
「二度目の聴取を行う」
「それでも話さなかったときは」
「聞き方を変える。場所を変える。立ち会う者を変える」
「なるほど」
アウグストは、足を止めた。
「……私は今、五歳の孫を、証人と同じに扱えと言われているのか」
「いいえ。旦那様が証人にさえなさることを、お嬢様にはまだ一度しかなさっていない、と申し上げております」
ヴァルターの顔は、いつもどおり穏やかだった。
腹の立つことに。
「……ゲルダを呼べ」
◇
その晩、ゲルダがロッテの部屋で、着替えの手伝いをしながら話を聞いた。
アウグストは、扉の外の廊下に立っていた。
立ち聞きをするつもりはなかった。ただ、ほかに立つ場所を思いつかなかった。
扉の隙間から、ゲルダの声と、ときどき小さな声が聞こえた。
「……前のおうちでは、寝るとき、何と一緒でした?」
「……くまさん」
「くまさん。お人形の?」
「ぬいぐるみ。茶色の。片っぽの耳が、とれかけてるの。ママが、縫ってくれるって、言ってた」
「そのくまさんは、今どちらに?」
「……おうち」
扉の外で、アウグストは懐中時計を出した。
夜の八時を回っていた。
ヴァルターが、廊下の角から現れた。
「旦那様。南方の港町にあった、ルートヴィヒ様のお住まいでございますが」
「何だ」
「町役場の書類によりますと、借家でございました。家主は、月末までに家財の引き取りがなければ、処分すると」
「月末」
「明後日でございます」
アウグストは、懐中時計を閉じた。
「今夜、使いを出せ。一番速い馬を使え。家財は、すべて引き取る」
「すべて、でございますか」
「どれがあの子にとって必要な物か、私には分からん。分からんのなら、全部持ってくるしかない」
「かしこまりました」
「茶色のくまのぬいぐるみがあるはずだ。片耳がとれかけている。それだけは、何があっても見落とすな」
ヴァルターは、深く頭を下げて、廊下を走っていった。
ヴァルターが走るのを見るのは、何年ぶりだろうと、アウグストは思った。
◇
使いは、期限の前日に港町へ着いた。家主に掛け合って、家財をひとつ残らず押さえたという。
四日後、荷馬車が二台、屋敷の裏門に着いた。
寝台。小さな机。椅子が三脚。食器棚。鍋。洗濯板。木箱に詰められた本が、四箱。子供用の、色褪せた赤い椅子。
それから、布にくるまれた、茶色のくまのぬいぐるみ。
アウグストは、ゲルダに、ロッテの部屋を前の家の配置に近づけるよう命じた。
南向きの客間の、上等な家具のいくつかが運び出され、代わりに、色褪せた赤い椅子と、小さな机が運び込まれた。本は、低い棚に並べられた。手の届く高さに。
最後に、アウグストは、くまのぬいぐるみを手に持って、ロッテの部屋に入った。
ロッテは、寝台の端に座っていた。
部屋を見回していた目が、赤い椅子のところで、大きくなった。
アウグストは、ロッテの前に立った。
しゃがむべきか、迷った。しゃがまなかった。代わりに、腕を伸ばして、ぬいぐるみを差し出した。
「お前の物だろう」
片方の耳が、とれかけていた。
ロッテは両手でぬいぐるみを受け取って、ぎゅっと胸に抱きしめた。顔を、くまの頭に押しつけた。
何も、言わなかった。
アウグストも、何も言わなかった。
ずいぶん経ってから、ロッテが、くまの頭に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「……ママの、においがする」
アウグストは、黙って部屋を出た。
扉を閉める前に、一度だけ振り返った。ロッテは、まだぬいぐるみを抱きしめていた。
廊下で、ゲルダが待っていた。
「旦那様」
「耳を、縫える者はいるか」
「私が縫えます」
「あの子が、いいと言ったらでいい」
「……かしこまりました」
◇
翌朝、ロッテは、くまを抱えて、自分からゲルダのところへ来たという。
「おみみ、ぬって。いたくないように」
ゲルダはいちばん細い針を出し、ロッテは、縫い終わるまで、くまの手を握っていたそうだ。
夕方、法務院から戻ったアウグストは、廊下でそれを聞いて、「そうか」とだけ言った。
ロッテの部屋の扉が、半分開いていた。
覗くと、ロッテが、低い棚の前に座り込んでいた。
本を一冊ずつ取り出しては、表紙を眺めて、膝の上に積んでいる。くまは、その隣に座らされていた。耳が、ぴんと立っていた。
アウグストは、扉を叩いた。
ロッテが、顔を上げた。
昨日ほどは、肩が揺れなかった。
「本が、好きなのか」
ロッテは、考えてから、こくりと頷いた。
アウグストは、膝の上の本の山から、一番上の一冊を取って、ロッテに差し出した。
赤い表紙の、薄い本だった。
「では、読むといい」
ロッテは本を受け取って、表紙を眺めて、アウグストを見上げた。
開かない。
「どうした」
「…………」
本を胸に抱えたまま、ロッテは動かなかった。
廊下から、ゲルダの声がした。
「旦那様。お嬢様は、まだ字がお読みになれないのでございますよ」
「……読めないのか」
「五歳でございますので」
アウグストは、本とロッテを見比べた。
「では、なぜ本が好きなのだ」
ロッテが、小さな声で答えた。
「……パパが、よんでくれたから」
アウグストは、長いため息をついた。
それから上着の裾を払って、ロッテの隣の床に、膝をついて座った。公爵が床に座るのを見て、廊下のゲルダが目を丸くした。
「貸せ」
ロッテは、おずおずと、本を差し出した。
それから、くまを抱え上げて、二人のあいだに座らせ直した。顔が、本のほうを向くように。
アウグストは、表紙を開いた。
大きな絵と、短い文が並んでいた。
「……『むかし、ある森に、ちいさなハリネズミがすんでいました』」
ロッテが、アウグストの顔を見上げた。
アウグストは、本から目を上げずに、続けた。
「『ハリネズミのなまえは、トゲトゲといいました』」
法務院の判決文を読み上げるときと、同じ声だった。
抑揚もなく、速さも一定で、どの文も同じ重さだった。
ロッテは、最初は不思議そうな顔をしていた。
三頁目あたりで、目が絵のほうに移った。五頁目で、アウグストの腕のほうへ、身を寄せてきた。絵が、よく見えるように。
「『トゲトゲは、だれかとなかよくなりたいとおもいました。でも、ちかよると、あいてがいたいといいます』」
ロッテが、絵のハリネズミを、指の先で撫でた。
「『おしまい』」
アウグストが本を閉じると、ロッテは、何も言わずに立ち上がった。
棚の前へ行って、二冊目を持ってきた。青い表紙の本だった。
それを、アウグストの膝の上に置いた。
「……もう一冊か」
ロッテは、答えなかった。
答えないまま、アウグストの隣に座り直した。さっきより、近くに。
アウグストは、青い本を開いた。
二冊目は、渡り鳥の話だった。
半分を過ぎたあたりで、左腕に、重みがかかった。
ロッテが、アウグストの腕にもたれて、眠っていた。
口が、半開きになっていた。くまの片手を、まだ握っていた。
アウグストは、読むのをやめた。
腕を動かせば、起きる。動かさなければ、次の頁がめくれない。
公爵は、頁のほうを諦めた。
本を床に置いて、ロッテを抱き上げたのは、時計の長い針が半分ほど回ってからだった。
思っていたより、ずっと軽かった。
寝台に寝かせて、布団を掛けた。
くまを、ロッテの腕の中に入れてやった。
廊下に出ると、ゲルダが、まだそこにいた。
「旦那様。お膝が、しびれておいででは」
「しびれていない」
しびれていた。
◇
その夜、アウグストは、書斎の灯りを消してから、もう一度、ロッテの部屋の前を通った。
扉の隙間から、寝息が聞こえた。
廊下の暗がりで、足が止まった。
ルートヴィヒが五歳のとき、字が読めなかった。
六歳になっても、まだ詰まりながら読んでいた。アウグストは、それを叱った。ヴァルデン家の嫡男が、文字ひとつ満足に読めないのか、と。
ルートヴィヒは、泣かなかった。唇を噛んで、次の日から、書斎の隅で、一人で読み書きの練習をしていた。
あの子に、本を読んでやったことがあっただろうか。
思い出そうとしても、思い出せなかった。
妻が読んでいたのかもしれない。それすら、知らなかった。
文字を覚えることは、大切だ。今でもそう思う。
だが、さっき、字の読めない子供が、物語の続きを知りたがって、二冊目を膝の上に置いていった。
あの子は、字を覚えたら、自分であの続きを読むのだろう。
読みたいものがあるから。
ルートヴィヒには、読みたいものがあっただろうか。
読みたくなるほどの物語を、誰かが先に見せてやっていただろうか。
寝息は、規則正しく続いていた。
アウグストは、扉の前を離れた。
◇
翌日の夕方、ロッテが書斎に来た。
ノックはなかった。扉が細く開いて、赤い表紙の本と、くまの片耳が、隙間から覗いた。
アウグストは、書類から顔を上げた。
「……仕事中だ」
隙間の向こうで、ロッテが、本を胸の高さまで持ち上げた。
アウグストは、書類に目を戻した。
三行読んだ。四行目で、もう一度、扉のほうを見た。
ロッテは、まだそこにいた。
アウグストは、懐中時計を出した。
「夕食の前、六時から、三十分だけだ」
「……さんじゅっぷん?」
「時計の長い針が、半分回るまでだ」
ロッテは、考えて、頷いた。
扉が閉まった。
ヴァルターが、隣の部屋から書類を持って入ってきた。
「旦那様。明日の法務院の予定でございますが――」
「六時から三十分、空けておけ」
「……六時、でございますか」
「何か問題があるか」
「いえ。ただ、六時は毎日、法務院からの報告書をお読みになる時間でございますので」
「報告書は、七時に読む」
「毎日でございますか」
「毎日だ」
ヴァルターは、手帳にそれを書き込んだ。
書き込む手が、いつもよりゆっくりだった。
「何だ」
「いえ。旦那様が、予定に私事をお入れになるのは、これが最初かと存じまして」
「私事ではない。教育だ」
「さようでございますか」
ヴァルターは、手帳を閉じた。
閉じる音が、妙に機嫌がよかった。
◇
六時の三十分は、その日から毎日になった。
ロッテは、五時五十分には書斎の前にいた。くまと、本を二冊抱えて。
読む前に、前回までのあらすじを話すのが決まりになった。誰も決めていないが、決まりになった。
「わたりどりの、つづきね。とりさんたち、まだ、うみのうえなの。いちわだけ、おくれてるの」
「知っている。昨日読んだ」
「おじいさま、ちゃんときいてた?」
「聞いていた」
「じゃあ、おくれてるとりの、なまえは?」
アウグストは、詰まった。
法務院で、証人の名を取り違えたことは一度もない。
「……ハヤテ、だ」
「ピピ」
隣の部屋で、ヴァルターが咳をした。
◇
「お嬢様は、お部屋でお一人で召し上がっております」
ある晩、ゲルダが、書斎で言った。
「それが、どうした」
「旦那様も、食堂でお一人で召し上がっております」
「それが、どうした」
「同じ屋敷の中で、お二人とも、お一人で召し上がっております」
アウグストは、ペンを置いた。
「……何が言いたい」
「五歳のお子様が、ご両親を亡くされてまだひと月でございます。夜に一人で食べる食事は、ずいぶん静かだと存じます」
アウグストは、自分の食堂を思い浮かべた。二十人が座れる長いテーブルの、いちばん端の一席を。
それが静かかどうかを、考えたことはなかった。
アウグストは立ち上がって、ロッテの部屋へ行った。
ロッテは、小さな机で、夕食の皿を前にしていた。
扉を叩くと、フォークを持ったまま、こちらを向いた。
アウグストは、扉のところに立ったまま聞いた。
「私と一緒に、食事をしたいか」
ロッテの目が、泳いだ。
フォークを置いて、くまのほうを向いた。くまに相談しているようだった。
相談がまとまったらしく、小さく頷いた。
「では、明日の夜から、食堂で食べよう」
ロッテは、もう一度、小さく頷いた。
◇
翌日の夕食は、静かだった。
ゲルダの助言で、長いテーブルの端の一角に、二人分の席が向かい合わせに用意された。
ロッテの椅子には、クッションが二枚重ねてあった。それでも、テーブルの上にはロッテの胸から上しか出ていなかった。
二人は、黙って食べた。
ナイフとフォークの音だけがした。
給仕の従僕が、皿を替えるたびに、足音を殺すようにしていた。
ふと、ロッテの皿に目が行った。
鶏の香草焼きは、半分なくなっていた。パンも、端が齧ってあった。
皿の端に、ニンジンのグラッセが、四切れ、そのまま残っていた。並べ直したように、きちんと揃えて。
「それは、食べないのか」
ロッテの手が、止まった。
「……やさい、すきじゃない」
「好き嫌いはよくない」
アウグストは、ナプキンで口元を拭いた。
言うべきことは、言っておくべきだ。
「出されたものは、残さず食べるべきだ。作った者がいる。育てた者がいる。それに、体を作るのに必要だ」
正しいことを言った、と思った。
ロッテは、フォークを持ったまま、うつむいた。
ニンジンを一切れ、フォークの先でつついた。持ち上げかけて、下ろした。
結局、その夜、ニンジンは四切れのまま残った。
ロッテは、それ以上何も食べずに、「ごちそうさまでした」と小さく言って、席を立った。
◇
翌朝、ロッテは食堂に来なかった。
向かいの席が、空いていた。クッションだけが二枚、律儀に重なっていた。
「ゲルダ」
「はい」
「あの子は」
「お部屋で、朝食を召し上がっております」
「なぜだ。今日から、食堂で食べると決めたはずだ」
ゲルダは、間を置いて答えた。
「好き嫌いを、叱られるから、だそうでございます」
アウグストは、ナイフを置いた。
「叱ってなどいない。教えただけだ」
「お嬢様には、叱られたように聞こえたのでございましょう」
「私は、正しいことを言った」
「はい。旦那様のお考えは、正しいと思います。食べ物を粗末にしないことは、大切でございます」
ゲルダは、否定しなかった。
否定されなかったことで、アウグストは次の言葉を見失った。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「何だ」
「旦那様は、今この一皿を、お嬢様に飲み込ませたいのでございますか。それとも、お嬢様が大人になるまで、いろいろな物をおいしく食べて、丈夫にお育ちになってほしいのでございますか」
「後者に決まっている」
「でしたら、嫌な思いを何度も重ねますと、食卓そのものが嫌いになることもございます。お嬢様は今朝、ニンジンではなく、食堂を避けておられます」
アウグストは、眉を寄せた。
「では、嫌いだと言えば、何でも許すのか」
「いいえ」
ゲルダは、首を振った。
「食べられるようになる努力をやめることと、今日、無理に食べさせないことは、別でございます」
後ろで、紅茶を注いでいたヴァルターが、口を開いた。
「旦那様。僭越ながら、騎士団の新兵の鍛錬に似ているかと存じます」
「……新兵」
「入団初日に、重い鎧を着せて城壁を十周走らせましても、強い兵士にはなりません。三日で脱走いたします。私の甥が、それで脱走いたしました」
「お前の甥は、騎士団にいたのか」
「三日だけおりました」
ゲルダが、口元を押さえた。
アウグストは、紅茶の杯を持ち上げて、一口飲んだ。
飲んでから、置いた。
「……つまり、初日は鎧を着せずに走らせろと」
「初日は、歩かせるだけでもよろしいかと」
「歩かせて、何になる」
「次の日も、来ます」
杯の中で、紅茶が冷めかけていた。
「……今夜の夕食も、ニンジンを出せ」
「旦那様」
「出すだけだ」
ゲルダとヴァルターが、顔を見合わせた。
◇
その夜、ロッテは食堂の入口で、ゲルダの後ろに半分隠れて立っていた。
アウグストは、もう席についていた。
ロッテが入ってこないので、ナイフとフォークを持たずに、待っていた。
ゲルダが、ロッテの背中を押した。
ロッテは、一歩ずつ、テーブルまで歩いてきた。クッションの椅子によじ登って、くまを隣の椅子に座らせた。
皿が運ばれてきた。
仔牛の煮込み。パン。ニンジンのグラッセが、三切れ。
ロッテの目が、ニンジンから、アウグストの顔へ、上目遣いに移った。
アウグストは、ナイフを取った。
「それは、まだ苦手か」
ロッテは、肩をすくめるようにして、小さく頷いた。
「そうか」
アウグストは、仔牛の煮込みを一切れ切った。
「では、今日は食べずともよい」
ロッテが、顔を上げた。
目が、丸くなっていた。
「……いいの?」
「今日はな」
アウグストは、煮込みを口に運んで、飲み込んでから付け足した。
「ただし、好き嫌いを減らす努力は続ける。毎日、少しずつだ」
ロッテは、ニンジンとアウグストを見比べて、こくりと頷いた。
パンに、手が伸びた。
その夜、ロッテは、仔牛の煮込みを全部食べた。
ニンジンは、三切れ残った。正確には、二切れがロッテの皿に、一切れが、いつのまにかくまの前に移っていた。
アウグストは、それについては何も言わなかった。
◇
翌日、アウグストは厨房に下りていった。
公爵が厨房に下りてくるのは、料理長のフランツが勤め始めて二十年で、二回目だった。一回目は、厨房で小火が出たときだった。
フランツは、大鍋の前で、帽子を取って直立した。
「旦那様。何か、問題でも」
「問題ではない。ニンジンについて相談がある」
「……ニンジン、でございますか」
「五歳の子供が、ニンジンを食べられるようになる調理法はあるか」
フランツは、帽子を胸に当てたまま、考えた。
「いくつか、ございます」
「言え」
「細かく刻んで、肉と一緒に煮込みに混ぜる。すりおろして、パンの生地に練り込む。甘く煮るより、じっくり焼いたほうが食べやすいお子様もおります。それから」
フランツは、大鍋のほうをちらりと見た。
「鶏と根菜を、形がなくなるまで煮込んで、裏漉しして、ポタージュにいたします。色は、橙になりますが」
「それで、食べられるのか」
「食べられるお子様もおります。食べられないお子様もおります。同じお子様でも、日によって違います」
フランツは、言葉を選んで付け足した。
「料理で、苦手が治るわけではございません。ただ、口に入れてみる最初の一回を、楽にすることはできます」
アウグストは、頷いた。
「では、それで頼む」
「かしこまりました。……それから、旦那様」
「何だ」
「ついでに、カブもポタージュにいたしましょうか」
アウグストの眉が、ぴくりと動いた。
「なぜ、カブの話が出る」
「いえ。旦那様が、カブを毎回お皿の端に寄せておいでなのは、厨房の全員が存じておりますので」
「……今の話とは関係ない」
「かしこまりました」
フランツは、帽子をかぶり直した。
口元が、笑っていた。
◇
ポタージュは、三日目に出た。
ロッテは、橙色のスープを、スプーンの先で恐る恐るすくって、匂いを嗅いだ。
「……これ、なに?」
「鶏と、根菜のスープだそうだ」
「こんさい?」
「土の中で育つ野菜だ」
ロッテのスプーンが、止まった。
言わなくてもよかったことを言った、とアウグストは気づいた。
ロッテは、スープを睨んだ。
長いこと睨んでから、目をつぶって、スプーンを口に入れた。
口の中で、もごもごと転がした。
目を開けた。
「……あまい」
「そうか」
「にんじん、はいってる?」
「入っている」
ロッテは、皿を覗き込んだ。ニンジンを探しているらしかった。
見つからないまま、もう一口すくった。
その夜、ロッテはポタージュを半分飲んだ。
半分で、お腹がいっぱいだと言った。
翌日のグラッセは、一切れも食べなかった。
その次の日、ポタージュを、また半分飲んだ。
アウグストは、毎晩それを見ていた。何も言わなかった。言えば、またスプーンが止まる気がした。
◇
十日ほどして、夕食の皿に、カブのソテーが添えられていた。
アウグストは、何事もなかったように、カブを皿の端に寄せた。
いつもの手つきだった。三十年、そうしてきた。
向かいで、ロッテがそれを見ていた。
「おじいさまは、カブ、たべないの?」
アウグストのナイフが、止まった。
「……苦手だ」
「すききらい?」
「そうとも言う」
ロッテは、首を傾げた。
「すききらいは、ダメなんでしょ?」
食堂が、静かになった。
給仕の従僕が、水差しを持ったまま固まった。
入口の脇で控えていたヴァルターが、天井を見上げた。
皿の端に、カブがある。
アウグストは、ナイフとフォークを持ち直した。
カブを一切れ、フォークに刺した。
口に入れた。
噛んだ。
眉間に、皺が寄った。
もう一度、噛んだ。皺が、深くなった。
飲み込めなかった。
アウグストは、ナプキンで口元を覆った。
ロッテが、椅子から身を乗り出した。
「おじいさま」
「……何だ」
「むり、しなくていいよ」
ナプキンを口から離せないまま、アウグストはロッテを見た。
心配そうな顔だった。
二週間前、ニンジンを前にしていた顔と、同じ顔だった。
ようやく、カブを飲み込んだ。
水を、一杯飲んだ。
長い息をついた。
「……私はお前に、少々厳しすぎたようだ」
ロッテは、瞬きをした。
「おこってない?」
「怒ってなどおらん」
アウグストは、水の杯を置いた。
「ただし、好き嫌いをなくす努力は続けるぞ」
「おじいさまも?」
アウグストは、黙った。
皿の端に、カブがまだ三切れ残っていた。
「…………無論だ」
入口の脇で、ヴァルターが咳払いをした。
咳払いにしては、長かった。
その夜から、ヴァルデン家の夕食には、ニンジンとカブが、小さく一切れずつ並ぶようになった。
食べられる日もあった。食べられない日もあった。食べられなかった一切れは、そのまま下げられた。誰も、何も言わなかった。
ロッテが一切れ食べられた夜、アウグストは、自分のカブを半切れ食べた。
アウグストが一切れ食べられた夜、ロッテは「すごい」と言った。
公爵が五歳の孫に褒められているのを見て、給仕の従僕が、皿を落としかけた。
◇
夏になると、ロッテは庭に出るようになった。
六時の書斎には、本と一緒に、拾った物が届くようになった。
つるつるの白い石。カタツムリの、空の殻。灰色の羽根。
「これ、わたりどりの?」
「鳩だ」
「はとは、わたる?」
「渡らん」
「……ずっと、ここにいるの?」
「ずっといる」
ロッテは、羽根を窓の光にかざして、満足そうに頷いた。
羽根は、アウグストの机のペン立てに挿された。法務院の書類の横で、灰色の羽根が一本、揺れていた。
ある日の収穫は、鉢植えだった。
素焼きの小さな鉢に、緑の芽が三本出ている。
これは拾った物ではなく、庭師のおじいさんに分けてもらったのだという。
その日から、ロッテは鉢植えに水をやった。
朝にやって、昼にやって、夕方にやった。夕食の前に、もう一度やった。
一週間後、芽が、くたりと倒れた。
ロッテは、鉢植えを抱えて、書斎に来た。
六時より、二十分早かった。
「おじいさま。これ、げんきない」
アウグストは、鉢植えを受け取って、土に指を入れた。
指が、ずぶりと沈んだ。
「水を、やりすぎたな」
「……おみず、いっぱいあげたのに?」
「多すぎると、根が息をできなくなる。土が乾いてから、やればいい」
ロッテは、鉢植えとアウグストを、順番に見た。
「おじいさまも、おみず、いっぱいのんだら、おおきくなる?」
「私は、もう大きくなりきっている」
「なりきったら、どうなるの」
「それ以上は、大きくならん」
ロッテは、考えた。
「じゃあ、ちっちゃくなっていくの?」
アウグストの手が、止まった。
書類を持って入ってきたヴァルターが、扉の前で立ち止まった。
書類で、顔の下半分を隠した。肩が、揺れていた。
アウグストは、鉢植えを机に置いて、真剣に考えた。
五十年。若い頃より、肩の厚みは確かに落ちた。去年、法務院の礼服の胴回りを、仕立て屋に詰めさせたばかりだ。
「……否定は、できんな」
ロッテが、ぱちぱちと瞬きをして、くすっと笑った。
アウグストの口の端も、わずかに動いた。
本人は、気づいていない。ヴァルターは、気づいた。
書類が、床に散らばった。
◇
その夜、アウグストは、庭に面した廊下の窓から、物置小屋のほうを眺めた。
暗くて、鉢植えは見えなかった。
昔、妻がよく、この窓から庭を見ていた。
春に、白い花が咲く木の前で、立ち止まっていた。何がそんなに面白いのかと思ったことはあるが、妻にその理由を聞いたことはなかった。
あの木は、まだ庭の奥に立っている。
アウグストは、ヴァルターを呼んだ。
「明日、庭師に言っておけ。あの子の鉢植えを、日当たりのいい場所に移すようにと」
「かしこまりました」
「それと」
ひと呼吸、間があった。
「庭の奥の白い花の木は、毎年、ちゃんと咲いているか」
ヴァルターの眉が、わずかに上がった。
「はい。奥様がいらした頃から、毎年、欠かさず」
「……そうか」
アウグストは、窓から離れた。
◇
その日、王宮の会議は長引いた。
隣国との通商条約の、条文の解釈で揉めた。法務院の長として、アウグストが立ち会わないわけにはいかなかった。
屋敷に戻ったのは、夜の九時を回っていた。
玄関の扉を開けると、ヴァルターが待っていた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「遅くなった。夕食は、軽いものでいい」
「かしこまりました。それと、旦那様」
「何だ」
「お嬢様が、まだ起きておいでです」
アウグストは、上着を脱ぐ手を止めた。
「なぜだ。とっくに寝る時間だろう」
「食堂で、お待ちでございます」
食堂の扉を開けると、長いテーブルの端の一角に、灯りが一つだけ点いていた。
ロッテが、クッションの椅子に座っていた。
くまを膝に乗せて、こくり、こくりと、船を漕いでいた。
扉の音で、はっと顔を上げた。
「……おじいさま」
「なぜ、起きている」
アウグストは、テーブルに近づいた。
ロッテの前の皿は、空だった。パンのかけらが、二つ残っていた。
「夕食は、食べたのか」
「お嬢様には、七時に軽くお召し上がりいただきました」
後ろから、ゲルダが言った。
「ですが、どうしても、旦那様をお待ちになると」
「なぜ、待っていた」
ロッテは、ぬいぐるみを抱え直した。
「……おじいさまと、たべたかったの」
アウグストは、上着を腕にかけたまま、立っていた。
「夕食は、決まった時間に食べるものだ。遅くなれば、体に悪い。眠る時間も――」
「旦那様」
ヴァルターが、口を挟んだ。
「お嬢様は、夕食をお待ちだったのではございません」
振り返っても、ヴァルターはそれ以上言わなかった。
ロッテは、眠そうな目で、アウグストを見上げていた。
その目が、アウグストの顔から離れなかった。いるかどうかを、何度も確かめるように。
アウグストは、上着を椅子の背に掛けた。
ロッテの向かいの席に、座った。
「……ゲルダ。この子に、温めた牛乳を」
「かしこまりました」
「私には、スープを一杯でいい」
運ばれてきた牛乳を、ロッテは両手で持って飲んだ。
アウグストは、スープを飲んだ。橙色の、鶏と根菜のポタージュだった。
半分飲んだところで、ロッテがまた船を漕ぎ始めた。
アウグストは、スープを置いて、ロッテを抱き上げた。
ロッテは、目を閉じたまま、アウグストの上着の襟を掴んだ。
部屋まで運ぶあいだ、ヴァルターが、灯りを持って先を歩いた。
◇
翌朝、アウグストは、ヴァルターを書斎に呼んだ。
「今後、帰りが七時を過ぎる場合は、法務院から屋敷に使いを出す」
「かしこまりました」
「あの子には、待たずに先に食べるよう伝えろ。だが、私が戻るのが八時前なら、温かい牛乳くらいは一緒に飲めるようにしておけ」
「……かしこまりました」
「それから、週に二度、木曜と日曜は、王宮の会議を夕方の五時までに切り上げる。法務院の次官に、そう調整させろ」
「次官殿が、泣きますな」
「泣かせておけ。仕事は終わらせる」
ヴァルターは、手帳に書き込んだ。
書き込みながら、言った。
「旦那様」
「何だ」
「奥様も、坊ちゃまも、よく、旦那様のお帰りをお待ちでございました」
アウグストのペンが、止まった。
「……そうか」
「はい」
ヴァルターは、それ以上は言わなかった。
手帳を閉じて、一礼して、書斎を出ていった。
止まったペンの先から、インクが一滴、書類に落ちた。
アウグストは、それを拭かなかった。
◇
秋の初め、ロッテが熱を出した。
朝食の席に来なかったので、ゲルダが部屋を見に行った。額が、熱かった。
アウグストは、すぐに医師を呼んだ。王都でいちばん評判のいい、子供を診る医師を。
医師は、ロッテの喉と胸を診て、眼鏡を押し上げた。
「季節の変わり目の風邪でしょうな。三日ほど熱は続くかもしれませんが、命にかかわるものではございません。水分を十分に。それから、よく眠ること」
「薬は」
「熱冷ましを置いてまいります。夜に熱が上がるようでしたら、お使いください」
医師が帰ったあと、アウグストは、ゲルダに指示を出した。
「夜は、交代で誰かがそばにつけ。薬の時間と量は、紙に書いて枕元に貼っておけ。水差しは、常に満たしておけ」
「かしこまりました」
正しい手配だった。足りないものは、何もないはずだった。
寝台のそばに立つと、ロッテは赤い顔をして、目を半分開けていた。
くまが、枕の横で倒れていた。片方の耳は、ゲルダがきれいに縫い直してある。
「水を、飲みなさい」
アウグストは、水差しから杯に水を注いで、差し出した。
ロッテは、ゲルダに背中を支えられて、二口飲んだ。
杯を返しながら、ロッテが、かすれた声で言った。
「……パパと、ママはね」
「何だ」
「ロッテが、おねつのとき、ずっと、そばにいてくれたの」
アウグストの手が、杯を持ったまま止まった。
「ママが、おでこ、つめたいのしてくれて。パパが、ごほん、よんでくれた」
ロッテは、布団の端を握った。
「……おじいさまも、いてくれる?」
アウグストは、すぐには答えられなかった。
医師は呼んだ。薬もある。夜は、使用人が交代でつく。
自分がそばにいたところで、熱が下がるわけではない。
その言葉が、喉まで来ていた。
二十年前にも、同じ言葉を言ったことがあった。
アウグストは、その言葉を飲み込んだ。
「……ああ。いる」
ロッテは、布団の端を握ったまま、目を閉じた。
◇
その日の午後、王宮から使いが来た。
明日の朝、国王陛下の御前で、例の通商条約の最終協議がある。法務院の長として、出席されたい。
アウグストは書状を読み終えると、法務院の次官宛てに、手紙を三通書いた。
一通目は、条約の条文解釈についての、自分の最終的な見解。二十頁あった。
二通目は、協議の場で想定される質問と、その答え。
三通目は、次官本人に宛てた、短い手紙だった。
〈この二通があれば、君で足りる。私でなければならぬ判断は、明日の協議には含まれていない。万一含まれた場合は、使いを寄越せ。屋敷にいる〉
書き終えて、封をして、ヴァルターに渡した。
「法務院へ。今夜のうちに届けろ」
「かしこまりました。……旦那様、明日の御前協議は」
「行かん」
ヴァルターの手が、封書を持ったまま止まった。
「私は、残る」
アウグストは、それだけ言って、立ち上がった。
ヴァルターは、深く頭を下げた。
頭を下げたまま、しばらく上げなかった。
◇
あの日も、秋だった。
妻のアデーレは、半年、病床に伏せていた。
その朝、アウグストが法務院へ出かけようとしたとき、寝台から、細い声で呼び止められた。
「今日は、そばにいてくださいませんか」
アウグストは、上着の釦を留めながら答えた。
「今日は、法務会議がある。最高の医師を手配してある。私がいたところで、病が治るわけではない」
アデーレは、そうですね、と言った。
少し笑って、そうですね、と。
夕方、屋敷から使いが来た。
帰ったときには、もう間に合わなかった。
寝台のそばで、八つのルートヴィヒが泣いていた。
アウグストは、泣かなかった。葬儀の手配をして、親戚に手紙を書いて、法務院に三日の休みを届けた。四日目には、出仕した。
◇
その夜、アウグストは、ロッテの寝台の脇に椅子を置いて座った。
ゲルダが、夜の番を代わると言った。アウグストは、断った。
ゲルダは何か言いかけて、やめて、代わりに毛布を一枚持ってきた。
ロッテの熱は、夜中に一度上がった。
アウグストは、枕元の紙を読んで、熱冷ましを量って、飲ませた。苦い、とロッテは顔をしかめた。水を飲ませた。額の布を、冷たい水に浸して絞り直した。
慣れない手つきだった。
布を絞りすぎて、ぱりぱりにしてしまい、もう一度浸し直した。
明け方近く、ロッテの寝息が落ち着いた。
アウグストは、椅子の背にもたれた。
立ち上がろうとして、袖が引っかかっているのに気づいた。
ロッテの小さな手が、アウグストの上着の袖を握っていた。
いつから握っていたのか、分からなかった。
袖を引こうとして、やめた。
椅子に座り直した。
窓の外が、白み始めていた。
◇
朝の七時に、ヴァルターが扉を開けた。音は、ほとんどしなかった。
「旦那様。一睡もなさっていないと伺いました。少しお休みになってください。あとは、私どもが」
アウグストは、椅子に座ったまま、自分の袖を見下ろした。
「……この子が、まだ袖を離さん」
ヴァルターの目が、寝台の上の小さな手に行った。
「それでは、仕方ありませんな」
アウグストは、袖に目を落としたまま、言った。
「……ああ。仕方がない」
ヴァルターは、音を立てずに扉を閉めた。
昼前に、法務院から使いが来た。
御前協議は、次官の説明で滞りなく終わった。陛下から、公爵の見解書は大変よくまとまっていたとのお言葉があった、とのことだった。
アウグストは、それを、ロッテの寝台のそばで聞いた。
袖は、まだ握られていた。
◇
ロッテの熱は、三日で下がった。
四日目の夕方、ロッテは、赤い表紙の本を持って書斎に来た。
ハリネズミの話だった。もう十回は読んでいる。
「……また、それか」
「これがいいの」
アウグストは、本を開いた。
「『むかし、ある森に、ちいさなハリネズミがすんでいました』」
隣で、ロッテの口が動いていた。
声は出していない。アウグストが読むのと同じ言葉を、唇だけで追っていた。
アウグストは、読むのを止めた。
「……覚えたのか」
「ちょっとだけ」
ロッテは、本の文字を、指でたどった。
「これ、『ハリネズミ』でしょ。ここも、ここも、おなじかたち」
三つの同じ言葉の上を、小さな指が順番に押さえていった。
「……そうだ」
「じぶんで、よめるようになったら、ぜんぶ、よめるね」
「全部か」
「ぜんぶ」
アウグストは、本の続きを読んだ。
いつもより、遅く読んだ。法務院なら、書記官が居眠りを始める速さだった。ロッテの唇が、ついてこられるように。
◇
冬の初めの、晴れた日に、アウグストはロッテを連れて墓地へ行った。
王都の外れの、丘の上の墓地だった。
ヴァルデン家の墓所には、白い石の墓が一つあった。アデーレの墓だ。アウグストは、毎月、ここに来ていた。誰にも言わずに。
その隣に、新しい墓碑が二つ、できていた。
南の港町から、ルートヴィヒと、その妻を移したのだ。
ロッテは、墓碑の前で、立ち止まった。
石に刻まれた二つの名前を、指でたどった。まだ全部は読めない。それでも、どれが父親の名前かは分かったらしい。最初の字の上で、指が止まった。
ロッテは、ゲルダが用意してくれた小さな花束を、墓碑の前に置いた。
白い花だった。春になると庭の奥の木に咲く花と、同じ色をしていた。
胸の前で手を組んで、ロッテは目を閉じた。
アウグストは、二歩後ろに立ち、三つ並ぶ墓碑を見た。
胸に手を当て、目を閉じた。
◇
正しく生きてきた、と思っていた。
公平であること。規律を守ること。責任を果たすこと。法の前で、誰をも特別扱いしないこと。
それは、今でも間違っていたとは思わない。この国の誰かは、そのおかげで、正しい裁きを受けられたはずだ。
ただ、その正しさの陰で、見なかったものが多すぎた。
アデーレ。
君に、不自由はさせなかったつもりだ。
衣装も、宝石も、医師も。
必要だと思ったものは、全部与えた。
だが、君と一緒に食事をしたことが、何度あっただろう。
君が庭の白い花の前で、何を思って立ち止まっていたのか、一度も聞かなかった。何がおかしくて笑っていたのか、何が寂しくて黙っていたのか、知ろうとしなかった。
あの朝、そばにいなかったことだけではない。一緒に暮らした十二年の、どの日にも、私はちゃんとそばにいなかった。
ルートヴィヒ。
お前に教えたことが、全部間違っていたとは思わない。文字も、法も、礼儀も、お前の役に立ったはずだ。
だが、その先にあるものを、見せてやらなかった。
本を開けば、知らない森にハリネズミがいること。字を覚えれば、その続きを自分で読めること。お前が何を好きで、何になりたかったのか、私は一度も聞かなかった。
お前が選んだ人を、愚かだと決めつけた。どうして父親に相談できなかったのかを、考えようともしなかった。
アデーレが死んだ日、泣かなかった。
ルートヴィヒが家を出た朝、置き手紙を読んでも、泣かなかった。
悲しくなかったわけでは、ないのだと思う。
今なら、それが分かる。
あのとき胸の中にあったものが何だったのか、ようやく、名前をつけられる。
それでも、やはり今も涙は出なかった。
出ないのか、出し方を忘れているだけなのか、それも分からない。近頃は、分からないことがずいぶん増えた。
ルートヴィヒ。お前の娘は、よく喋るぞ。
来たばかりの頃は、ひと言も喋らなかったが。
本が好きだ。
ニンジンが嫌いだが、ポタージュにしたら半分飲めるようになった。
鉢植えに水をやりすぎる。
鳩の羽根を、渡り鳥の羽根だと思っていた。
物語の鳥の名前を、私より正確に覚えている。
私が小さくなりかけていることも、遠慮なく指摘する。
そして、私の袖を握って、離さない。
アデーレ。君の白い花の木は、毎年咲いているそうだ。
二十年、確かめもしなかった。
春になったら、あの子と見に行く。
君が何を見ていたのか、少しは分かるかもしれない。
いつか、私がそちらへ行ったら。
そのときは、たくさん話をしてくれ。
私が聞かなかったことを、全部。
君が花の前で何を見ていたのか。
お前が本当は何をしたかったのか。
お前が選んだ人の、どこが好きだったのか。
私も、話したいことが沢山ある。
ただ、それは、まだ先だ。
もう少し、こちらでやることがある。
◇
「……おじいさま?」
袖を、引っぱられた。
アウグストは、目を開けた。
ロッテが、見上げていた。手を合わせるのは、とっくに終わっていたらしい。
「ずっと、めをつぶってた」
「……そうか」
「ねてたの?」
「寝てはいない」
「ほんと?」
「本当だ」
ロッテは、疑わしそうな顔をした。
墓のほうを振り返って、小さく手を振った。
「パパ、ママ、またくるね」
もう一つの白い墓のほうにも、手を振った。
「おばあさまも、またね」
アウグストは、返事をしなかった。
喉の奥が、うまく動かなかった。
◇
丘を下る道は、落ち葉で覆われていた。
ロッテが、右手を差し出した。
アウグストは、その手を見下ろした。
小さな手だった。指の先が、寒さで赤くなっていた。
アウグストは、その手を取った。
二人で、落ち葉を踏んで歩いた。
ロッテの歩幅に合わせると、ずいぶんゆっくりになった。
「おじいさま」
「何だ」
「きょうは、ごほん、よんでくれる?」
「……何冊だ」
「さんさつ!」
「二冊までだ」
「えー」
ロッテが、繋いだ手をぶらぶらと振った。
「三冊目は、明日だ」
ぶらぶらが、止まった。
ロッテが、アウグストを見上げた。
「……じゃあ、あしたも、よんでくれる?」
アウグストは、前を向いたまま答えた。
「無論だ」
(了)




