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「愛するつもりはない」と孫娘に告げた公爵

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/09

手紙は、法務院の封蝋ではなかった。


南の港町の、町役場の印だった。

アウグスト・ヴァルデン公爵は、ペーパーナイフで封を切り、二枚の便箋を最後まで読んだ。


息子のルートヴィヒと、その妻が、馬車の事故で亡くなった。

五歳の娘が一人、軽傷で保護されている。母方の祖父母はすでに亡く、ほかに身寄りは見当たらない。

ついては、ヴァルデン公爵家の意向を伺いたい。


アウグストは、便箋を机に置いた。


窓の外で、庭師が生垣を刈る音がしていた。

しゃき、しゃき、と、三回。


四回目の音がする前に、アウグストは呼び鈴を鳴らした。


「ヴァルター」

「はい、旦那様」


執事のヴァルターが、いつもの速さで入ってきた。三十年、この家に仕えている男だ。


「南の港町へ使いを出せ。孫を引き取る」

「……お孫様、でございますか」

「ルートヴィヒに娘がいた。五歳だそうだ」


ヴァルターは、一瞬だけ、机の上の便箋に目をやった。

何も聞かずに、頭を下げた。


「かしこまりました」

「それと、子供用の部屋を用意しろ。来週には着く」

「……子供部屋」

「何か問題があるか」

「いえ。かしこまりました」


ヴァルターが出ていったあと、アウグストは便箋をもう一度手に取って、折り目に沿って畳み直した。

畳み方が、一度目より丁寧だった。


   ◇


三日後、アウグストは東の客間の前に立っていた。


「これが、子供部屋か」

「はい、旦那様」


寝台。机。椅子。衣装箪笥。

どれも、屋敷で一番上等な家具だった。南向きの窓から、午後の日差しが差し込んでいる。


アウグストは、部屋の中央まで歩いて、ぐるりと見回した。


「問題ない」

「……さようでございますか」


返事に、わずかな間があった。


「何だ」

「いえ。ただ、その」


ヴァルターは、言葉を選ぶように顎に手を当てた。


「幼いお子様のお部屋というのは、これだけでよろしいのかと」

「寝る場所がある。学ぶ机がある。着る物を入れる場所がある。何が足りない」

「それは、私にも分かりかねますが」

「分からんのに、足りないと思うのか」

「足りない気がいたします」

「気がする、では判断できん」


二人は、部屋の真ん中で腕を組んだ。


「旦那様。ルートヴィヒ様が幼い頃のお部屋は、どのようなお部屋でございましたか」

「……覚えておらん。妻に任せていた」

「さようでございましたな」

「お前は覚えていないのか」

「当時、私は従僕でございましたので。坊ちゃまのお部屋には、上がったことがございません」


また、沈黙が落ちた。


机の上には、羽根ペンとインク壺が置いてあった。


「……五歳は、字を書くのか」

「書くのでは、ございませんか」

「どの程度だ」

「さあ……」

「法務院の新人の初日程度か」

「それよりは、かなり下かと存じます」

「では、何程度だ」


ヴァルターは、天井を見上げた。


「……メイド長を、呼んでまいります」


   ◇


メイド長のゲルダは、部屋に入るなり、二人の顔、部屋、もう一度二人の顔、の順に眺めた。


「……旦那様。こちらに、五歳のお嬢様が?」

「そうだ」

「インク壺が出ておりますが」

「学ぶ机だ」

「床に、こぼされますよ」

「こぼすのか」

「こぼします。五歳ですので」


アウグストは、インク壺を見た。ヴァルターも、インク壺を見た。


ゲルダは、ため息をつかなかった。代わりに、指を折って数え始めた。


「年に合った絵本。積み木か人形のような、手で遊べる物。寝台の脇に、夜に怖くないように小さな灯り。窓の掛け金は、お嬢様の手の届かない高さに。それから、お屋敷の中で一人で行ってよい場所と、だめな場所を決めておくこと。階段と、池のそばは、だめです」

「池」

「落ちます」

「落ちるのか」

「落ちます。五歳ですので」


「書き留めろ」

「すでに書いております」


ヴァルターの手帳に、細かい字が増えていった。


ゲルダは、最後の指を折った。


「いちばん大事なことでございますが」

「何だ」

「お嬢様ご本人に、お尋ねになってください。何が好きで、何がお嫌いか。私どもが揃えるより、そのほうがずっと確かです」


「……尋ねる、か」

「はい」

「五歳に」

「五歳にでございます」


窓の外では、庭師が生垣の刈り込みを終えて、梯子を畳んでいた。


「……インク壺は、片づけておけ」

「かしこまりました」


   ◇


孫娘が着いたのは、雨上がりの午後だった。


馬車の扉が開いて、町役場の女性職員に手を引かれて、小さな女の子が降りてきた。

茶色の髪を、二つに編んでいる。左の額に、治りかけの擦り傷があった。

胸に、くたびれた布の袋を抱えていた。中身は着替えだと、職員が言った。


女の子は、石段の下で立ち止まった。

三階建ての、灰色の石の屋敷を見上げて、最後に、玄関の前に立つ男を見上げた。


目の形が、ルートヴィヒに似ていた。


「名は」

「……シャルロッテ」


小さな声だった。


「ロッテ、って、呼ばれてた」


アウグストは、頷いた。


「私は、お前の祖父だ。アウグスト・ヴァルデンという」


ロッテは、布の袋を両腕で抱え直した。


「お前はこれから、この屋敷で暮らす。必要な衣食住と、教育は与える」


アウグストは、言葉を切った。

これから言うことは、最初に伝えておくべきだと考えていた。守れない約束をするよりは、ずっと誠実なはずだ。


「だが、愛情などは期待するな」


石段の上で、ヴァルターが、ほんのわずかに目を閉じた。

ゲルダの口元が、何か言いたげに動いて、止まった。


ロッテは、アウグストを見上げたまま、瞬きをした。


「……あいじょう?」

「そうだ」


ロッテは、考える顔をした。袋を、もう一度抱え直した。


返事は、なかった。


「ゲルダ。部屋へ案内しろ」

「……かしこまりました」


ゲルダが、ロッテの前にしゃがんだ。


「お嬢様。お部屋は、南向きで、とても明るいんですよ」


ロッテは、ゲルダの顔と、差し出された手を見比べた。

手は、取らなかった。袋を抱えたまま、ゲルダの後ろを、二歩離れてついていった。


石段の下に、町役場の職員が残っていた。

職員は、アウグストに書類を渡しながら、言いにくそうに言った。


「あの……お嬢様は、ここ十日ほど、ほとんどお話しにならなくて。夜も、よく泣いておいででした」

「そうか」

「それでは、私はこれで」


職員を見送ったあと、ヴァルターが、隣に立った。


「旦那様」

「何だ」

「先ほどの、愛情の件でございますが」

「事実を伝えたまでだ」

「……さようでございますか」


ヴァルターは、それ以上何も言わなかった。


   ◇


翌日、アウグストは、法務院から戻ったあと、ロッテの部屋を訪ねた。


ゲルダの言っていたことを、実行しようと思った。尋ねる、ということを。


ロッテは、寝台の端に座って、窓の外を眺めていた。

アウグストが入ってくると、ぴくりと肩が揺れた。


アウグストは、椅子を一脚引き寄せて、寝台から一歩ぶん離れたところに座った。

目の高さが、それでもまだ合わなかった。


「何か、必要な物はあるか」


返事がない。


「着る物でも、食べる物でも、本でもいい。言え」


ロッテの唇が、動いた。


「……パパと、ママに、会いたい」


アウグストは、膝の上で手を組んだ。


「それは、無理だ」


嘘は、つけなかった。

それで慰めになるとは思わなかったが、ほかの答えも持っていなかった。


ロッテは、うつむいた。


「……じゃあ、なにもいらない」


それきり、ロッテは窓のほうを向いてしまった。


アウグストは、組んだ手を、ほどいて、また組んだ。

三度目に組みかけたところで、立ち上がった。


廊下で、ヴァルターが待っていた。


「いかがでございましたか」

「何もいらんそうだ」

「……さようでございますか」

「ならば、それでよい。本人がそう言っている」


ヴァルターは、アウグストの後ろを一歩遅れて歩きながら、言った。


「旦那様。法務院で、証人が一度目の聴取で何も話さなかったとき、旦那様はどうなさいますか」

「二度目の聴取を行う」

「それでも話さなかったときは」

「聞き方を変える。場所を変える。立ち会う者を変える」

「なるほど」


アウグストは、足を止めた。


「……私は今、五歳の孫を、証人と同じに扱えと言われているのか」

「いいえ。旦那様が証人にさえなさることを、お嬢様にはまだ一度しかなさっていない、と申し上げております」


ヴァルターの顔は、いつもどおり穏やかだった。

腹の立つことに。


「……ゲルダを呼べ」


   ◇


その晩、ゲルダがロッテの部屋で、着替えの手伝いをしながら話を聞いた。


アウグストは、扉の外の廊下に立っていた。

立ち聞きをするつもりはなかった。ただ、ほかに立つ場所を思いつかなかった。


扉の隙間から、ゲルダの声と、ときどき小さな声が聞こえた。


「……前のおうちでは、寝るとき、何と一緒でした?」

「……くまさん」

「くまさん。お人形の?」

「ぬいぐるみ。茶色の。片っぽの耳が、とれかけてるの。ママが、縫ってくれるって、言ってた」

「そのくまさんは、今どちらに?」

「……おうち」


扉の外で、アウグストは懐中時計を出した。

夜の八時を回っていた。


ヴァルターが、廊下の角から現れた。


「旦那様。南方の港町にあった、ルートヴィヒ様のお住まいでございますが」

「何だ」

「町役場の書類によりますと、借家でございました。家主は、月末までに家財の引き取りがなければ、処分すると」

「月末」

「明後日でございます」


アウグストは、懐中時計を閉じた。


「今夜、使いを出せ。一番速い馬を使え。家財は、すべて引き取る」

「すべて、でございますか」

「どれがあの子にとって必要な物か、私には分からん。分からんのなら、全部持ってくるしかない」

「かしこまりました」

「茶色のくまのぬいぐるみがあるはずだ。片耳がとれかけている。それだけは、何があっても見落とすな」


ヴァルターは、深く頭を下げて、廊下を走っていった。

ヴァルターが走るのを見るのは、何年ぶりだろうと、アウグストは思った。


   ◇


使いは、期限の前日に港町へ着いた。家主に掛け合って、家財をひとつ残らず押さえたという。


四日後、荷馬車が二台、屋敷の裏門に着いた。


寝台。小さな机。椅子が三脚。食器棚。鍋。洗濯板。木箱に詰められた本が、四箱。子供用の、色褪せた赤い椅子。

それから、布にくるまれた、茶色のくまのぬいぐるみ。


アウグストは、ゲルダに、ロッテの部屋を前の家の配置に近づけるよう命じた。

南向きの客間の、上等な家具のいくつかが運び出され、代わりに、色褪せた赤い椅子と、小さな机が運び込まれた。本は、低い棚に並べられた。手の届く高さに。


最後に、アウグストは、くまのぬいぐるみを手に持って、ロッテの部屋に入った。


ロッテは、寝台の端に座っていた。

部屋を見回していた目が、赤い椅子のところで、大きくなった。


アウグストは、ロッテの前に立った。

しゃがむべきか、迷った。しゃがまなかった。代わりに、腕を伸ばして、ぬいぐるみを差し出した。


「お前の物だろう」


片方の耳が、とれかけていた。


ロッテは両手でぬいぐるみを受け取って、ぎゅっと胸に抱きしめた。顔を、くまの頭に押しつけた。


何も、言わなかった。


アウグストも、何も言わなかった。


ずいぶん経ってから、ロッテが、くまの頭に顔を埋めたまま、小さな声で言った。


「……ママの、においがする」


アウグストは、黙って部屋を出た。

扉を閉める前に、一度だけ振り返った。ロッテは、まだぬいぐるみを抱きしめていた。


廊下で、ゲルダが待っていた。


「旦那様」

「耳を、縫える者はいるか」

「私が縫えます」

「あの子が、いいと言ったらでいい」

「……かしこまりました」


   ◇


翌朝、ロッテは、くまを抱えて、自分からゲルダのところへ来たという。


「おみみ、ぬって。いたくないように」


ゲルダはいちばん細い針を出し、ロッテは、縫い終わるまで、くまの手を握っていたそうだ。


夕方、法務院から戻ったアウグストは、廊下でそれを聞いて、「そうか」とだけ言った。


ロッテの部屋の扉が、半分開いていた。


覗くと、ロッテが、低い棚の前に座り込んでいた。

本を一冊ずつ取り出しては、表紙を眺めて、膝の上に積んでいる。くまは、その隣に座らされていた。耳が、ぴんと立っていた。


アウグストは、扉を叩いた。


ロッテが、顔を上げた。

昨日ほどは、肩が揺れなかった。


「本が、好きなのか」


ロッテは、考えてから、こくりと頷いた。


アウグストは、膝の上の本の山から、一番上の一冊を取って、ロッテに差し出した。

赤い表紙の、薄い本だった。


「では、読むといい」


ロッテは本を受け取って、表紙を眺めて、アウグストを見上げた。


開かない。


「どうした」

「…………」


本を胸に抱えたまま、ロッテは動かなかった。


廊下から、ゲルダの声がした。


「旦那様。お嬢様は、まだ字がお読みになれないのでございますよ」

「……読めないのか」

「五歳でございますので」


アウグストは、本とロッテを見比べた。


「では、なぜ本が好きなのだ」


ロッテが、小さな声で答えた。


「……パパが、よんでくれたから」


アウグストは、長いため息をついた。

それから上着の裾を払って、ロッテの隣の床に、膝をついて座った。公爵が床に座るのを見て、廊下のゲルダが目を丸くした。


「貸せ」


ロッテは、おずおずと、本を差し出した。

それから、くまを抱え上げて、二人のあいだに座らせ直した。顔が、本のほうを向くように。


アウグストは、表紙を開いた。

大きな絵と、短い文が並んでいた。


「……『むかし、ある森に、ちいさなハリネズミがすんでいました』」


ロッテが、アウグストの顔を見上げた。

アウグストは、本から目を上げずに、続けた。


「『ハリネズミのなまえは、トゲトゲといいました』」


法務院の判決文を読み上げるときと、同じ声だった。

抑揚もなく、速さも一定で、どの文も同じ重さだった。


ロッテは、最初は不思議そうな顔をしていた。

三頁目あたりで、目が絵のほうに移った。五頁目で、アウグストの腕のほうへ、身を寄せてきた。絵が、よく見えるように。


「『トゲトゲは、だれかとなかよくなりたいとおもいました。でも、ちかよると、あいてがいたいといいます』」


ロッテが、絵のハリネズミを、指の先で撫でた。


「『おしまい』」


アウグストが本を閉じると、ロッテは、何も言わずに立ち上がった。

棚の前へ行って、二冊目を持ってきた。青い表紙の本だった。


それを、アウグストの膝の上に置いた。


「……もう一冊か」


ロッテは、答えなかった。

答えないまま、アウグストの隣に座り直した。さっきより、近くに。


アウグストは、青い本を開いた。


二冊目は、渡り鳥の話だった。

半分を過ぎたあたりで、左腕に、重みがかかった。


ロッテが、アウグストの腕にもたれて、眠っていた。

口が、半開きになっていた。くまの片手を、まだ握っていた。


アウグストは、読むのをやめた。


腕を動かせば、起きる。動かさなければ、次の頁がめくれない。

公爵は、頁のほうを諦めた。


本を床に置いて、ロッテを抱き上げたのは、時計の長い針が半分ほど回ってからだった。

思っていたより、ずっと軽かった。


寝台に寝かせて、布団を掛けた。

くまを、ロッテの腕の中に入れてやった。


廊下に出ると、ゲルダが、まだそこにいた。


「旦那様。お膝が、しびれておいででは」

「しびれていない」


しびれていた。


   ◇


その夜、アウグストは、書斎の灯りを消してから、もう一度、ロッテの部屋の前を通った。


扉の隙間から、寝息が聞こえた。


廊下の暗がりで、足が止まった。


ルートヴィヒが五歳のとき、字が読めなかった。

六歳になっても、まだ詰まりながら読んでいた。アウグストは、それを叱った。ヴァルデン家の嫡男が、文字ひとつ満足に読めないのか、と。

ルートヴィヒは、泣かなかった。唇を噛んで、次の日から、書斎の隅で、一人で読み書きの練習をしていた。


あの子に、本を読んでやったことがあっただろうか。


思い出そうとしても、思い出せなかった。

妻が読んでいたのかもしれない。それすら、知らなかった。


文字を覚えることは、大切だ。今でもそう思う。

だが、さっき、字の読めない子供が、物語の続きを知りたがって、二冊目を膝の上に置いていった。


あの子は、字を覚えたら、自分であの続きを読むのだろう。

読みたいものがあるから。


ルートヴィヒには、読みたいものがあっただろうか。

読みたくなるほどの物語を、誰かが先に見せてやっていただろうか。


寝息は、規則正しく続いていた。

アウグストは、扉の前を離れた。


   ◇


翌日の夕方、ロッテが書斎に来た。


ノックはなかった。扉が細く開いて、赤い表紙の本と、くまの片耳が、隙間から覗いた。


アウグストは、書類から顔を上げた。


「……仕事中だ」


隙間の向こうで、ロッテが、本を胸の高さまで持ち上げた。


アウグストは、書類に目を戻した。

三行読んだ。四行目で、もう一度、扉のほうを見た。


ロッテは、まだそこにいた。


アウグストは、懐中時計を出した。


「夕食の前、六時から、三十分だけだ」

「……さんじゅっぷん?」

「時計の長い針が、半分回るまでだ」


ロッテは、考えて、頷いた。

扉が閉まった。


ヴァルターが、隣の部屋から書類を持って入ってきた。


「旦那様。明日の法務院の予定でございますが――」

「六時から三十分、空けておけ」

「……六時、でございますか」

「何か問題があるか」

「いえ。ただ、六時は毎日、法務院からの報告書をお読みになる時間でございますので」

「報告書は、七時に読む」

「毎日でございますか」

「毎日だ」


ヴァルターは、手帳にそれを書き込んだ。

書き込む手が、いつもよりゆっくりだった。


「何だ」

「いえ。旦那様が、予定に私事をお入れになるのは、これが最初かと存じまして」

「私事ではない。教育だ」

「さようでございますか」


ヴァルターは、手帳を閉じた。

閉じる音が、妙に機嫌がよかった。


   ◇


六時の三十分は、その日から毎日になった。


ロッテは、五時五十分には書斎の前にいた。くまと、本を二冊抱えて。

読む前に、前回までのあらすじを話すのが決まりになった。誰も決めていないが、決まりになった。


「わたりどりの、つづきね。とりさんたち、まだ、うみのうえなの。いちわだけ、おくれてるの」

「知っている。昨日読んだ」

「おじいさま、ちゃんときいてた?」

「聞いていた」

「じゃあ、おくれてるとりの、なまえは?」


アウグストは、詰まった。

法務院で、証人の名を取り違えたことは一度もない。


「……ハヤテ、だ」

「ピピ」


隣の部屋で、ヴァルターが咳をした。


   ◇


「お嬢様は、お部屋でお一人で召し上がっております」


ある晩、ゲルダが、書斎で言った。


「それが、どうした」

「旦那様も、食堂でお一人で召し上がっております」

「それが、どうした」

「同じ屋敷の中で、お二人とも、お一人で召し上がっております」


アウグストは、ペンを置いた。


「……何が言いたい」

「五歳のお子様が、ご両親を亡くされてまだひと月でございます。夜に一人で食べる食事は、ずいぶん静かだと存じます」


アウグストは、自分の食堂を思い浮かべた。二十人が座れる長いテーブルの、いちばん端の一席を。


それが静かかどうかを、考えたことはなかった。


アウグストは立ち上がって、ロッテの部屋へ行った。


ロッテは、小さな机で、夕食の皿を前にしていた。

扉を叩くと、フォークを持ったまま、こちらを向いた。


アウグストは、扉のところに立ったまま聞いた。


「私と一緒に、食事をしたいか」


ロッテの目が、泳いだ。

フォークを置いて、くまのほうを向いた。くまに相談しているようだった。


相談がまとまったらしく、小さく頷いた。


「では、明日の夜から、食堂で食べよう」


ロッテは、もう一度、小さく頷いた。


   ◇


翌日の夕食は、静かだった。


ゲルダの助言で、長いテーブルの端の一角に、二人分の席が向かい合わせに用意された。

ロッテの椅子には、クッションが二枚重ねてあった。それでも、テーブルの上にはロッテの胸から上しか出ていなかった。


二人は、黙って食べた。


ナイフとフォークの音だけがした。

給仕の従僕が、皿を替えるたびに、足音を殺すようにしていた。


ふと、ロッテの皿に目が行った。


鶏の香草焼きは、半分なくなっていた。パンも、端が齧ってあった。

皿の端に、ニンジンのグラッセが、四切れ、そのまま残っていた。並べ直したように、きちんと揃えて。


「それは、食べないのか」


ロッテの手が、止まった。


「……やさい、すきじゃない」

「好き嫌いはよくない」


アウグストは、ナプキンで口元を拭いた。

言うべきことは、言っておくべきだ。


「出されたものは、残さず食べるべきだ。作った者がいる。育てた者がいる。それに、体を作るのに必要だ」


正しいことを言った、と思った。


ロッテは、フォークを持ったまま、うつむいた。

ニンジンを一切れ、フォークの先でつついた。持ち上げかけて、下ろした。


結局、その夜、ニンジンは四切れのまま残った。

ロッテは、それ以上何も食べずに、「ごちそうさまでした」と小さく言って、席を立った。


   ◇


翌朝、ロッテは食堂に来なかった。


向かいの席が、空いていた。クッションだけが二枚、律儀に重なっていた。


「ゲルダ」

「はい」

「あの子は」

「お部屋で、朝食を召し上がっております」

「なぜだ。今日から、食堂で食べると決めたはずだ」


ゲルダは、間を置いて答えた。


「好き嫌いを、叱られるから、だそうでございます」


アウグストは、ナイフを置いた。


「叱ってなどいない。教えただけだ」

「お嬢様には、叱られたように聞こえたのでございましょう」

「私は、正しいことを言った」

「はい。旦那様のお考えは、正しいと思います。食べ物を粗末にしないことは、大切でございます」


ゲルダは、否定しなかった。

否定されなかったことで、アウグストは次の言葉を見失った。


「ひとつ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」

「何だ」

「旦那様は、今この一皿を、お嬢様に飲み込ませたいのでございますか。それとも、お嬢様が大人になるまで、いろいろな物をおいしく食べて、丈夫にお育ちになってほしいのでございますか」

「後者に決まっている」

「でしたら、嫌な思いを何度も重ねますと、食卓そのものが嫌いになることもございます。お嬢様は今朝、ニンジンではなく、食堂を避けておられます」


アウグストは、眉を寄せた。


「では、嫌いだと言えば、何でも許すのか」

「いいえ」


ゲルダは、首を振った。


「食べられるようになる努力をやめることと、今日、無理に食べさせないことは、別でございます」


後ろで、紅茶を注いでいたヴァルターが、口を開いた。


「旦那様。僭越ながら、騎士団の新兵の鍛錬に似ているかと存じます」

「……新兵」

「入団初日に、重い鎧を着せて城壁を十周走らせましても、強い兵士にはなりません。三日で脱走いたします。私の甥が、それで脱走いたしました」

「お前の甥は、騎士団にいたのか」

「三日だけおりました」


ゲルダが、口元を押さえた。


アウグストは、紅茶の杯を持ち上げて、一口飲んだ。

飲んでから、置いた。


「……つまり、初日は鎧を着せずに走らせろと」

「初日は、歩かせるだけでもよろしいかと」

「歩かせて、何になる」

「次の日も、来ます」


杯の中で、紅茶が冷めかけていた。


「……今夜の夕食も、ニンジンを出せ」

「旦那様」

「出すだけだ」


ゲルダとヴァルターが、顔を見合わせた。


   ◇


その夜、ロッテは食堂の入口で、ゲルダの後ろに半分隠れて立っていた。


アウグストは、もう席についていた。

ロッテが入ってこないので、ナイフとフォークを持たずに、待っていた。


ゲルダが、ロッテの背中を押した。

ロッテは、一歩ずつ、テーブルまで歩いてきた。クッションの椅子によじ登って、くまを隣の椅子に座らせた。


皿が運ばれてきた。

仔牛の煮込み。パン。ニンジンのグラッセが、三切れ。


ロッテの目が、ニンジンから、アウグストの顔へ、上目遣いに移った。


アウグストは、ナイフを取った。


「それは、まだ苦手か」


ロッテは、肩をすくめるようにして、小さく頷いた。


「そうか」


アウグストは、仔牛の煮込みを一切れ切った。


「では、今日は食べずともよい」


ロッテが、顔を上げた。

目が、丸くなっていた。


「……いいの?」

「今日はな」


アウグストは、煮込みを口に運んで、飲み込んでから付け足した。


「ただし、好き嫌いを減らす努力は続ける。毎日、少しずつだ」


ロッテは、ニンジンとアウグストを見比べて、こくりと頷いた。

パンに、手が伸びた。


その夜、ロッテは、仔牛の煮込みを全部食べた。

ニンジンは、三切れ残った。正確には、二切れがロッテの皿に、一切れが、いつのまにかくまの前に移っていた。


アウグストは、それについては何も言わなかった。


   ◇


翌日、アウグストは厨房に下りていった。


公爵が厨房に下りてくるのは、料理長のフランツが勤め始めて二十年で、二回目だった。一回目は、厨房で小火が出たときだった。


フランツは、大鍋の前で、帽子を取って直立した。


「旦那様。何か、問題でも」

「問題ではない。ニンジンについて相談がある」

「……ニンジン、でございますか」

「五歳の子供が、ニンジンを食べられるようになる調理法はあるか」


フランツは、帽子を胸に当てたまま、考えた。


「いくつか、ございます」

「言え」

「細かく刻んで、肉と一緒に煮込みに混ぜる。すりおろして、パンの生地に練り込む。甘く煮るより、じっくり焼いたほうが食べやすいお子様もおります。それから」


フランツは、大鍋のほうをちらりと見た。


「鶏と根菜を、形がなくなるまで煮込んで、裏漉しして、ポタージュにいたします。色は、橙になりますが」

「それで、食べられるのか」

「食べられるお子様もおります。食べられないお子様もおります。同じお子様でも、日によって違います」


フランツは、言葉を選んで付け足した。


「料理で、苦手が治るわけではございません。ただ、口に入れてみる最初の一回を、楽にすることはできます」


アウグストは、頷いた。


「では、それで頼む」

「かしこまりました。……それから、旦那様」

「何だ」

「ついでに、カブもポタージュにいたしましょうか」


アウグストの眉が、ぴくりと動いた。


「なぜ、カブの話が出る」

「いえ。旦那様が、カブを毎回お皿の端に寄せておいでなのは、厨房の全員が存じておりますので」

「……今の話とは関係ない」

「かしこまりました」


フランツは、帽子をかぶり直した。

口元が、笑っていた。


   ◇


ポタージュは、三日目に出た。


ロッテは、橙色のスープを、スプーンの先で恐る恐るすくって、匂いを嗅いだ。


「……これ、なに?」

「鶏と、根菜のスープだそうだ」

「こんさい?」

「土の中で育つ野菜だ」


ロッテのスプーンが、止まった。

言わなくてもよかったことを言った、とアウグストは気づいた。


ロッテは、スープを睨んだ。

長いこと睨んでから、目をつぶって、スプーンを口に入れた。


口の中で、もごもごと転がした。


目を開けた。


「……あまい」

「そうか」

「にんじん、はいってる?」

「入っている」


ロッテは、皿を覗き込んだ。ニンジンを探しているらしかった。

見つからないまま、もう一口すくった。


その夜、ロッテはポタージュを半分飲んだ。

半分で、お腹がいっぱいだと言った。


翌日のグラッセは、一切れも食べなかった。


その次の日、ポタージュを、また半分飲んだ。


アウグストは、毎晩それを見ていた。何も言わなかった。言えば、またスプーンが止まる気がした。


   ◇


十日ほどして、夕食の皿に、カブのソテーが添えられていた。


アウグストは、何事もなかったように、カブを皿の端に寄せた。

いつもの手つきだった。三十年、そうしてきた。


向かいで、ロッテがそれを見ていた。


「おじいさまは、カブ、たべないの?」


アウグストのナイフが、止まった。


「……苦手だ」

「すききらい?」

「そうとも言う」


ロッテは、首を傾げた。


「すききらいは、ダメなんでしょ?」


食堂が、静かになった。


給仕の従僕が、水差しを持ったまま固まった。

入口の脇で控えていたヴァルターが、天井を見上げた。


皿の端に、カブがある。


アウグストは、ナイフとフォークを持ち直した。

カブを一切れ、フォークに刺した。


口に入れた。


噛んだ。


眉間に、皺が寄った。

もう一度、噛んだ。皺が、深くなった。


飲み込めなかった。


アウグストは、ナプキンで口元を覆った。

ロッテが、椅子から身を乗り出した。


「おじいさま」

「……何だ」

「むり、しなくていいよ」


ナプキンを口から離せないまま、アウグストはロッテを見た。


心配そうな顔だった。

二週間前、ニンジンを前にしていた顔と、同じ顔だった。


ようやく、カブを飲み込んだ。

水を、一杯飲んだ。


長い息をついた。


「……私はお前に、少々厳しすぎたようだ」


ロッテは、瞬きをした。


「おこってない?」

「怒ってなどおらん」


アウグストは、水の杯を置いた。


「ただし、好き嫌いをなくす努力は続けるぞ」

「おじいさまも?」


アウグストは、黙った。


皿の端に、カブがまだ三切れ残っていた。


「…………無論だ」


入口の脇で、ヴァルターが咳払いをした。

咳払いにしては、長かった。


その夜から、ヴァルデン家の夕食には、ニンジンとカブが、小さく一切れずつ並ぶようになった。

食べられる日もあった。食べられない日もあった。食べられなかった一切れは、そのまま下げられた。誰も、何も言わなかった。


ロッテが一切れ食べられた夜、アウグストは、自分のカブを半切れ食べた。

アウグストが一切れ食べられた夜、ロッテは「すごい」と言った。


公爵が五歳の孫に褒められているのを見て、給仕の従僕が、皿を落としかけた。


   ◇


夏になると、ロッテは庭に出るようになった。


六時の書斎には、本と一緒に、拾った物が届くようになった。

つるつるの白い石。カタツムリの、空の殻。灰色の羽根。


「これ、わたりどりの?」

「鳩だ」

「はとは、わたる?」

「渡らん」

「……ずっと、ここにいるの?」

「ずっといる」


ロッテは、羽根を窓の光にかざして、満足そうに頷いた。

羽根は、アウグストの机のペン立てに挿された。法務院の書類の横で、灰色の羽根が一本、揺れていた。


ある日の収穫は、鉢植えだった。


素焼きの小さな鉢に、緑の芽が三本出ている。

これは拾った物ではなく、庭師のおじいさんに分けてもらったのだという。


その日から、ロッテは鉢植えに水をやった。

朝にやって、昼にやって、夕方にやった。夕食の前に、もう一度やった。


一週間後、芽が、くたりと倒れた。


ロッテは、鉢植えを抱えて、書斎に来た。

六時より、二十分早かった。


「おじいさま。これ、げんきない」


アウグストは、鉢植えを受け取って、土に指を入れた。

指が、ずぶりと沈んだ。


「水を、やりすぎたな」

「……おみず、いっぱいあげたのに?」

「多すぎると、根が息をできなくなる。土が乾いてから、やればいい」


ロッテは、鉢植えとアウグストを、順番に見た。


「おじいさまも、おみず、いっぱいのんだら、おおきくなる?」

「私は、もう大きくなりきっている」

「なりきったら、どうなるの」

「それ以上は、大きくならん」


ロッテは、考えた。


「じゃあ、ちっちゃくなっていくの?」


アウグストの手が、止まった。


書類を持って入ってきたヴァルターが、扉の前で立ち止まった。

書類で、顔の下半分を隠した。肩が、揺れていた。


アウグストは、鉢植えを机に置いて、真剣に考えた。


五十年。若い頃より、肩の厚みは確かに落ちた。去年、法務院の礼服の胴回りを、仕立て屋に詰めさせたばかりだ。


「……否定は、できんな」


ロッテが、ぱちぱちと瞬きをして、くすっと笑った。


アウグストの口の端も、わずかに動いた。

本人は、気づいていない。ヴァルターは、気づいた。


書類が、床に散らばった。


   ◇


その夜、アウグストは、庭に面した廊下の窓から、物置小屋のほうを眺めた。


暗くて、鉢植えは見えなかった。


昔、妻がよく、この窓から庭を見ていた。

春に、白い花が咲く木の前で、立ち止まっていた。何がそんなに面白いのかと思ったことはあるが、妻にその理由を聞いたことはなかった。


あの木は、まだ庭の奥に立っている。


アウグストは、ヴァルターを呼んだ。


「明日、庭師に言っておけ。あの子の鉢植えを、日当たりのいい場所に移すようにと」

「かしこまりました」

「それと」


ひと呼吸、間があった。


「庭の奥の白い花の木は、毎年、ちゃんと咲いているか」


ヴァルターの眉が、わずかに上がった。


「はい。奥様がいらした頃から、毎年、欠かさず」

「……そうか」


アウグストは、窓から離れた。


   ◇


その日、王宮の会議は長引いた。


隣国との通商条約の、条文の解釈で揉めた。法務院の長として、アウグストが立ち会わないわけにはいかなかった。

屋敷に戻ったのは、夜の九時を回っていた。


玄関の扉を開けると、ヴァルターが待っていた。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「遅くなった。夕食は、軽いものでいい」

「かしこまりました。それと、旦那様」

「何だ」

「お嬢様が、まだ起きておいでです」


アウグストは、上着を脱ぐ手を止めた。


「なぜだ。とっくに寝る時間だろう」

「食堂で、お待ちでございます」


食堂の扉を開けると、長いテーブルの端の一角に、灯りが一つだけ点いていた。


ロッテが、クッションの椅子に座っていた。

くまを膝に乗せて、こくり、こくりと、船を漕いでいた。


扉の音で、はっと顔を上げた。


「……おじいさま」

「なぜ、起きている」


アウグストは、テーブルに近づいた。

ロッテの前の皿は、空だった。パンのかけらが、二つ残っていた。


「夕食は、食べたのか」

「お嬢様には、七時に軽くお召し上がりいただきました」


後ろから、ゲルダが言った。


「ですが、どうしても、旦那様をお待ちになると」


「なぜ、待っていた」


ロッテは、ぬいぐるみを抱え直した。


「……おじいさまと、たべたかったの」


アウグストは、上着を腕にかけたまま、立っていた。


「夕食は、決まった時間に食べるものだ。遅くなれば、体に悪い。眠る時間も――」

「旦那様」


ヴァルターが、口を挟んだ。


「お嬢様は、夕食をお待ちだったのではございません」


振り返っても、ヴァルターはそれ以上言わなかった。


ロッテは、眠そうな目で、アウグストを見上げていた。

その目が、アウグストの顔から離れなかった。いるかどうかを、何度も確かめるように。


アウグストは、上着を椅子の背に掛けた。

ロッテの向かいの席に、座った。


「……ゲルダ。この子に、温めた牛乳を」

「かしこまりました」

「私には、スープを一杯でいい」


運ばれてきた牛乳を、ロッテは両手で持って飲んだ。

アウグストは、スープを飲んだ。橙色の、鶏と根菜のポタージュだった。


半分飲んだところで、ロッテがまた船を漕ぎ始めた。


アウグストは、スープを置いて、ロッテを抱き上げた。

ロッテは、目を閉じたまま、アウグストの上着の襟を掴んだ。


部屋まで運ぶあいだ、ヴァルターが、灯りを持って先を歩いた。


   ◇


翌朝、アウグストは、ヴァルターを書斎に呼んだ。


「今後、帰りが七時を過ぎる場合は、法務院から屋敷に使いを出す」

「かしこまりました」

「あの子には、待たずに先に食べるよう伝えろ。だが、私が戻るのが八時前なら、温かい牛乳くらいは一緒に飲めるようにしておけ」

「……かしこまりました」

「それから、週に二度、木曜と日曜は、王宮の会議を夕方の五時までに切り上げる。法務院の次官に、そう調整させろ」

「次官殿が、泣きますな」

「泣かせておけ。仕事は終わらせる」


ヴァルターは、手帳に書き込んだ。

書き込みながら、言った。


「旦那様」

「何だ」

「奥様も、坊ちゃまも、よく、旦那様のお帰りをお待ちでございました」


アウグストのペンが、止まった。


「……そうか」

「はい」


ヴァルターは、それ以上は言わなかった。

手帳を閉じて、一礼して、書斎を出ていった。


止まったペンの先から、インクが一滴、書類に落ちた。

アウグストは、それを拭かなかった。


   ◇


秋の初め、ロッテが熱を出した。


朝食の席に来なかったので、ゲルダが部屋を見に行った。額が、熱かった。

アウグストは、すぐに医師を呼んだ。王都でいちばん評判のいい、子供を診る医師を。


医師は、ロッテの喉と胸を診て、眼鏡を押し上げた。


「季節の変わり目の風邪でしょうな。三日ほど熱は続くかもしれませんが、命にかかわるものではございません。水分を十分に。それから、よく眠ること」

「薬は」

「熱冷ましを置いてまいります。夜に熱が上がるようでしたら、お使いください」


医師が帰ったあと、アウグストは、ゲルダに指示を出した。


「夜は、交代で誰かがそばにつけ。薬の時間と量は、紙に書いて枕元に貼っておけ。水差しは、常に満たしておけ」

「かしこまりました」


正しい手配だった。足りないものは、何もないはずだった。


寝台のそばに立つと、ロッテは赤い顔をして、目を半分開けていた。

くまが、枕の横で倒れていた。片方の耳は、ゲルダがきれいに縫い直してある。


「水を、飲みなさい」


アウグストは、水差しから杯に水を注いで、差し出した。

ロッテは、ゲルダに背中を支えられて、二口飲んだ。


杯を返しながら、ロッテが、かすれた声で言った。


「……パパと、ママはね」

「何だ」

「ロッテが、おねつのとき、ずっと、そばにいてくれたの」


アウグストの手が、杯を持ったまま止まった。


「ママが、おでこ、つめたいのしてくれて。パパが、ごほん、よんでくれた」


ロッテは、布団の端を握った。


「……おじいさまも、いてくれる?」


アウグストは、すぐには答えられなかった。


医師は呼んだ。薬もある。夜は、使用人が交代でつく。

自分がそばにいたところで、熱が下がるわけではない。


その言葉が、喉まで来ていた。


二十年前にも、同じ言葉を言ったことがあった。


アウグストは、その言葉を飲み込んだ。


「……ああ。いる」


ロッテは、布団の端を握ったまま、目を閉じた。


   ◇


その日の午後、王宮から使いが来た。


明日の朝、国王陛下の御前で、例の通商条約の最終協議がある。法務院の長として、出席されたい。


アウグストは書状を読み終えると、法務院の次官宛てに、手紙を三通書いた。


一通目は、条約の条文解釈についての、自分の最終的な見解。二十頁あった。

二通目は、協議の場で想定される質問と、その答え。

三通目は、次官本人に宛てた、短い手紙だった。


〈この二通があれば、君で足りる。私でなければならぬ判断は、明日の協議には含まれていない。万一含まれた場合は、使いを寄越せ。屋敷にいる〉


書き終えて、封をして、ヴァルターに渡した。


「法務院へ。今夜のうちに届けろ」

「かしこまりました。……旦那様、明日の御前協議は」

「行かん」


ヴァルターの手が、封書を持ったまま止まった。


「私は、残る」


アウグストは、それだけ言って、立ち上がった。


ヴァルターは、深く頭を下げた。

頭を下げたまま、しばらく上げなかった。


   ◇


あの日も、秋だった。


妻のアデーレは、半年、病床に伏せていた。

その朝、アウグストが法務院へ出かけようとしたとき、寝台から、細い声で呼び止められた。


「今日は、そばにいてくださいませんか」


アウグストは、上着の釦を留めながら答えた。


「今日は、法務会議がある。最高の医師を手配してある。私がいたところで、病が治るわけではない」


アデーレは、そうですね、と言った。

少し笑って、そうですね、と。


夕方、屋敷から使いが来た。

帰ったときには、もう間に合わなかった。


寝台のそばで、八つのルートヴィヒが泣いていた。

アウグストは、泣かなかった。葬儀の手配をして、親戚に手紙を書いて、法務院に三日の休みを届けた。四日目には、出仕した。


   ◇


その夜、アウグストは、ロッテの寝台の脇に椅子を置いて座った。


ゲルダが、夜の番を代わると言った。アウグストは、断った。

ゲルダは何か言いかけて、やめて、代わりに毛布を一枚持ってきた。


ロッテの熱は、夜中に一度上がった。

アウグストは、枕元の紙を読んで、熱冷ましを量って、飲ませた。苦い、とロッテは顔をしかめた。水を飲ませた。額の布を、冷たい水に浸して絞り直した。


慣れない手つきだった。

布を絞りすぎて、ぱりぱりにしてしまい、もう一度浸し直した。


明け方近く、ロッテの寝息が落ち着いた。


アウグストは、椅子の背にもたれた。

立ち上がろうとして、袖が引っかかっているのに気づいた。


ロッテの小さな手が、アウグストの上着の袖を握っていた。

いつから握っていたのか、分からなかった。


袖を引こうとして、やめた。

椅子に座り直した。


窓の外が、白み始めていた。


   ◇


朝の七時に、ヴァルターが扉を開けた。音は、ほとんどしなかった。


「旦那様。一睡もなさっていないと伺いました。少しお休みになってください。あとは、私どもが」


アウグストは、椅子に座ったまま、自分の袖を見下ろした。


「……この子が、まだ袖を離さん」


ヴァルターの目が、寝台の上の小さな手に行った。


「それでは、仕方ありませんな」


アウグストは、袖に目を落としたまま、言った。


「……ああ。仕方がない」


ヴァルターは、音を立てずに扉を閉めた。


昼前に、法務院から使いが来た。

御前協議は、次官の説明で滞りなく終わった。陛下から、公爵の見解書は大変よくまとまっていたとのお言葉があった、とのことだった。


アウグストは、それを、ロッテの寝台のそばで聞いた。

袖は、まだ握られていた。


   ◇


ロッテの熱は、三日で下がった。


四日目の夕方、ロッテは、赤い表紙の本を持って書斎に来た。

ハリネズミの話だった。もう十回は読んでいる。


「……また、それか」

「これがいいの」


アウグストは、本を開いた。


「『むかし、ある森に、ちいさなハリネズミがすんでいました』」


隣で、ロッテの口が動いていた。

声は出していない。アウグストが読むのと同じ言葉を、唇だけで追っていた。


アウグストは、読むのを止めた。


「……覚えたのか」

「ちょっとだけ」


ロッテは、本の文字を、指でたどった。


「これ、『ハリネズミ』でしょ。ここも、ここも、おなじかたち」


三つの同じ言葉の上を、小さな指が順番に押さえていった。


「……そうだ」

「じぶんで、よめるようになったら、ぜんぶ、よめるね」

「全部か」

「ぜんぶ」


アウグストは、本の続きを読んだ。

いつもより、遅く読んだ。法務院なら、書記官が居眠りを始める速さだった。ロッテの唇が、ついてこられるように。


   ◇


冬の初めの、晴れた日に、アウグストはロッテを連れて墓地へ行った。


王都の外れの、丘の上の墓地だった。

ヴァルデン家の墓所には、白い石の墓が一つあった。アデーレの墓だ。アウグストは、毎月、ここに来ていた。誰にも言わずに。


その隣に、新しい墓碑が二つ、できていた。

南の港町から、ルートヴィヒと、その妻を移したのだ。


ロッテは、墓碑の前で、立ち止まった。

石に刻まれた二つの名前を、指でたどった。まだ全部は読めない。それでも、どれが父親の名前かは分かったらしい。最初の字の上で、指が止まった。


ロッテは、ゲルダが用意してくれた小さな花束を、墓碑の前に置いた。

白い花だった。春になると庭の奥の木に咲く花と、同じ色をしていた。


胸の前で手を組んで、ロッテは目を閉じた。


アウグストは、二歩後ろに立ち、三つ並ぶ墓碑を見た。

胸に手を当て、目を閉じた。


   ◇


正しく生きてきた、と思っていた。


公平であること。規律を守ること。責任を果たすこと。法の前で、誰をも特別扱いしないこと。

それは、今でも間違っていたとは思わない。この国の誰かは、そのおかげで、正しい裁きを受けられたはずだ。


ただ、その正しさの陰で、見なかったものが多すぎた。


アデーレ。

君に、不自由はさせなかったつもりだ。

衣装も、宝石も、医師も。


必要だと思ったものは、全部与えた。


だが、君と一緒に食事をしたことが、何度あっただろう。

君が庭の白い花の前で、何を思って立ち止まっていたのか、一度も聞かなかった。何がおかしくて笑っていたのか、何が寂しくて黙っていたのか、知ろうとしなかった。

あの朝、そばにいなかったことだけではない。一緒に暮らした十二年の、どの日にも、私はちゃんとそばにいなかった。


ルートヴィヒ。

お前に教えたことが、全部間違っていたとは思わない。文字も、法も、礼儀も、お前の役に立ったはずだ。


だが、その先にあるものを、見せてやらなかった。

本を開けば、知らない森にハリネズミがいること。字を覚えれば、その続きを自分で読めること。お前が何を好きで、何になりたかったのか、私は一度も聞かなかった。

お前が選んだ人を、愚かだと決めつけた。どうして父親に相談できなかったのかを、考えようともしなかった。


アデーレが死んだ日、泣かなかった。

ルートヴィヒが家を出た朝、置き手紙を読んでも、泣かなかった。


悲しくなかったわけでは、ないのだと思う。

今なら、それが分かる。


あのとき胸の中にあったものが何だったのか、ようやく、名前をつけられる。


それでも、やはり今も涙は出なかった。

出ないのか、出し方を忘れているだけなのか、それも分からない。近頃は、分からないことがずいぶん増えた。


ルートヴィヒ。お前の娘は、よく喋るぞ。

来たばかりの頃は、ひと言も喋らなかったが。


本が好きだ。

ニンジンが嫌いだが、ポタージュにしたら半分飲めるようになった。

鉢植えに水をやりすぎる。

鳩の羽根を、渡り鳥の羽根だと思っていた。

物語の鳥の名前を、私より正確に覚えている。

私が小さくなりかけていることも、遠慮なく指摘する。

そして、私の袖を握って、離さない。


アデーレ。君の白い花の木は、毎年咲いているそうだ。

二十年、確かめもしなかった。

春になったら、あの子と見に行く。

君が何を見ていたのか、少しは分かるかもしれない。


いつか、私がそちらへ行ったら。


そのときは、たくさん話をしてくれ。

私が聞かなかったことを、全部。


君が花の前で何を見ていたのか。

お前が本当は何をしたかったのか。

お前が選んだ人の、どこが好きだったのか。


私も、話したいことが沢山ある。


ただ、それは、まだ先だ。

もう少し、こちらでやることがある。


   ◇


「……おじいさま?」


袖を、引っぱられた。


アウグストは、目を開けた。

ロッテが、見上げていた。手を合わせるのは、とっくに終わっていたらしい。


「ずっと、めをつぶってた」

「……そうか」

「ねてたの?」

「寝てはいない」

「ほんと?」

「本当だ」


ロッテは、疑わしそうな顔をした。

墓のほうを振り返って、小さく手を振った。


「パパ、ママ、またくるね」


もう一つの白い墓のほうにも、手を振った。


「おばあさまも、またね」


アウグストは、返事をしなかった。

喉の奥が、うまく動かなかった。


   ◇


丘を下る道は、落ち葉で覆われていた。


ロッテが、右手を差し出した。


アウグストは、その手を見下ろした。

小さな手だった。指の先が、寒さで赤くなっていた。


アウグストは、その手を取った。


二人で、落ち葉を踏んで歩いた。

ロッテの歩幅に合わせると、ずいぶんゆっくりになった。


「おじいさま」

「何だ」

「きょうは、ごほん、よんでくれる?」

「……何冊だ」

「さんさつ!」

「二冊までだ」

「えー」


ロッテが、繋いだ手をぶらぶらと振った。


「三冊目は、明日だ」


ぶらぶらが、止まった。

ロッテが、アウグストを見上げた。


「……じゃあ、あしたも、よんでくれる?」


アウグストは、前を向いたまま答えた。


「無論だ」


(了)

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― 新着の感想 ―
良いお話でした。私は好きです。
良いお話でした。 アウグストが反省してきちんと孫娘を育てた後で、いつか奥様と息子さんに会えた時、怒られるかもしれませんが許してもらえるのではとも思います。 ただ、今のアウグストだから仕事も自分の裁量で…
描きたかった世界は美しいと思います。 それを表現する道具としてAIを使うのは良いと思います。 ただ、AIを使ったなら、ちゃんと読み返してAIがやらかしがちなミスは修整してほしいです。 すでに指摘され…
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