第六話 緑の地獄
乾いた荒野を抜けた二人の前に現れたのは、不吉なほどに鬱蒼とした原生林だった。
そこは、世界の色調が狂ったかのような異様な光景だった。 木々の幹は病的な紫色を帯び、枝からは粘液を滴らせる灰色の苔がカーテンのように垂れ下がっている。葉は緑ではなく、どす黒い赤色をしており、まるで大地から吸い上げた血をそのまま蓄えているかのようだ。
「……ここを通るのか」
アルドは顔をしかめ、手で鼻を覆った。
森の境界に足を踏み入れた瞬間、濃厚な腐敗臭と、甘ったるい花の香りが混ざり合った異臭が鼻孔を突いたのだ。
空気は湿気をたっぷりと含んで重く、肌にまとわりつく。
乾燥しきっていた荒野とは対照的な、不快な温室のような環境だ。
「地図によれば、この『黒霧の森』を抜けるのが旧帝都への最短ルートよ」
ミナは表情を変えずに言ったが、その手は無意識のうちに腰の短剣に触れていた。
彼女も感じているのだろう。この森が放つ、生物的な拒絶反応を。
「迂回ルートは?」
「北の山脈を越えるか、南の毒沼地帯を行くか。どちらにしても二週間は余計にかかるわ」
「……選択肢はないってことか」
アルドはため息をつき、背中の剣の位置を直した。
湿気は錆びた鉄にとって大敵だ。
鞘と刀身の隙間に入り込んだ錆が、湿気を吸ってさらに膨張し、背中の重みを増している気がした。
二人は、光の届かない森の奥へと足を踏み入れた。
◇
森の中は、不気味なほど静かだった。
鳥のさえずりも、獣の遠吠えも聞こえない。
聞こえるのは、二人が踏みしめる腐葉土が湿った音と、遥か頭上で木々が擦れ合う、骨がきしむような音だけだ。
足元は最悪だった。
何層にも重なった落ち葉が腐り、泥と混ざり合って浅い沼のようになっている。
油断すると足首まで沈み込み、靴の中まで冷たい泥水が浸入してくる。
「……気をつけろ。この泥、妙に粘り気が強い」
アルドは前を行くミナに声をかけた。
彼は足元の泥に、微かな違和感を抱いていた。
ただの泥ではない。まるで意思を持って靴底に吸い付いてくるような、不快な粘着質。
歩くたびに体力を削ぎ落とされていく。
「分かってる。……それより、植物に触れないで」
ミナが鋭く警告した。
彼女が指差した先、巨大なシダ植物の葉の裏に、無数の小さな瘤が密集していた。
よく見れば、それは瘤ではなく、脈動する半透明の嚢だった。
中には黄色い液体が詰まっている。
「『溶解胞子』よ。刺激を与えると破裂して、強酸性の液体を撒き散らす変異種だわ。……鎧なんて簡単に溶かされる」
アルドはぞくりとして、身を引いた。
十年前の大戦時、この一帯には大量の魔法兵器が撃ち込まれたと聞く。
残留した魔力が土地を汚染し、生態系を根本から狂わせてしまったのだ。
ここはもう、人間が知る森ではない。
動くもの、生えるもの全てが、殺意を持った捕食者となり果てた「緑の地獄」だ。
慎重に歩を進めること数時間。
周囲の木々がいっそう密集し、視界が悪くなってきた頃だった。
アルドは、奇妙な物体を見つけた。
木の根元に、人の頭ほどの大きさがある、白骨化した何かの頭蓋骨が転がっていた。
鹿か、あるいは猪か。
だが、奇妙なのはその骨の状態だ。
砕かれた形跡も、牙で噛まれた跡もない。
まるで、強烈な力で「絞め潰された」かのように、全体がひしゃげて歪んでいる。
「……何かに巻きつかれたのか?」
アルドがその骨を観察しようと屈み込んだ、その時だった。
ズズ……ッ。
地面が震えた。
いや、震えたのではない。
彼らが立っている「地面」そのものが、波打つように動いたのだ。
「――跳んでッ!!」
ミナの叫び声が響く。
だが、アルドの反応は一瞬遅れた。
泥の下から、無数の「根」が槍のように突き出してきた。
それは植物の根などではなかった。
赤黒い血管のような管が脈動する、太く、ぬらりとした触手のような蔦だ。
「ぐっ……!?」
回避しようとしたアルドの右足を、一本の蔦が絡め取った。
蛇が獲物を締め上げるような速度と力強さ。
革のブーツ越しでも分かるほどの強烈な圧力が、足首の骨を軋ませる。
「くそっ!」
アルドは反射的に背中の鞘剣を引き抜き、足元の蔦に叩きつけた。
鈍い衝撃音が響く。
だが、蔦は切れない。
分厚いゴムを鉄パイプで殴ったかのように、衝撃が吸収され、弾き返されただけだ。
刃があれば、一撃で切断できただろう。
だが、彼の手にあるのは錆びついて一体化した鉄塊だ。
表面を傷つけることはできても、繊維質で弾力のあるこの蔦を「切断」することはできない。
「斬れない……ッ!」
その焦りが、致命的な隙を生んだ。
最初の一本に気を取られている間に、泥の中から次々と新たな蔦が出現する。
左足、腰、そして剣を持つ右腕。
瞬く間に全身を絡め取られ、アルドの体は宙へと吊り上げられた。
「アルド!」
ミナが短剣を抜き放ち、駆け寄ろうとする。
だが、彼女の周囲にも無数の蔦が壁のように立ち塞がり、行く手を阻む。
ミナは目にも留まらぬ速さで短剣を振るった。
鋭利な斬撃が蔦を切り裂き、緑色の体液が飛散する。
しかし、切っても切っても、泥の下から新たな蔦が湧き出してくる。キリがない。
アルドは必死にもがいたが、動けば動くほど、蔦はより強く食い込んでくる。
そして、自分が運ばれようとしている先に気づき、戦慄した。
頭上の樹上。
そこに、巨大な赤黒い花が咲いていた。
いや、花ではない。
肉厚な花弁を開閉させ、内部に無数の棘と消化液を蓄えた、捕食植物の「口」だ。
『吸血蔓』。
獲物を締め上げて窒息させ、動かなくなったところを頭上の花袋に取り込み、数日かけて消化する悪食の植物。
――食われる。
――こんな、草の餌になって終わるのか。
恐怖が思考を白く塗りつぶそうとする。
だが、締め上げられる痛みの中で、アルドの脳裏に昨日のミナの言葉が蘇った。
『あなたはまだ、迷っている。……その迷いが、いつかあなたの首を絞めることになるわ』
迷い?
違う。
今は迷っている場合ではない。
切れないなら、どうする?
叩いても弾かれるなら、どう戦う?
アルドは拘束された右腕の中で、剣の柄を握り直した。
錆びた鉄塊。
重いだけのゴミ。
だが、この重さだけは本物だ。
(切ろうとするな……。発想を変えろ!)
相手は柔軟な蔦だ。打撃は吸収される。
だが、この蔦の「根元」はどうだ?
自分を吊り上げているこの力。
その支点はどこにある?
アルドは宙吊りの状態で、視線を下へ巡らせた。
自分を捕らえている蔦の束。
それらが集束し、地面の泥の中へ潜り込んでいる一点。
そこにあるのは、太く、動きの鈍い「幹」の部分だ。
「……ウオオオオッ!」
アルドは全身の筋肉を総動員し、体を海老反りにさせた。
拘束を解こうとするのではない。
逆に、蔦が自分を持ち上げようとする力を利用し、勢いをつけて「落下」するための予備動作だ。
蔦がアルドを捕食口へ放り込もうと、大きくしなった瞬間。
アルドは重力に逆らうのをやめ、自らの体重と、背負った十キロの鉄塊の重さを全て乗せて、真下へ向かって体を叩き落とした。
狙うは、地面から露出していた「幹」の分岐点。
剣の先端――鞘の石突きの部分を、杭打ち機のように真上から突き立てる。
鉄と植物の繊維が激突する、押し潰されるような重い音が森に響いた。
鋭利な刃ではない。
だが、一点に集中した鉄塊の衝撃は、柔軟な繊維組織を押し潰し、内部の細胞を破裂させるには十分だった。
幹がひしゃげ、破裂音と共に大量の樹液が噴き出す。
蒸気が噴き出す音にも似た、耳障りな断末魔が鼓膜を刺した。
植物とは思えないその絶叫と共に、中枢神経を破壊された蔦の力が一瞬で抜ける。
支えを失ったアルドは、泥濘の中に無様に崩れ落ちた。
「まだだッ!」
アルドは間髪入れずに起き上がった。
蔦はまだ痙攣し、暴れている。
完全に死んではいない。
彼は剣を両手で高く振り上げた。
薪割りと同じだ。
狙うのは、さきほど潰した幹の傷口。
一撃。二撃。三撃。
泥と樹液を跳ね飛ばしながら、アルドは無心で鉄塊を叩きつけ続けた。
斬るのではない。
叩き潰し、繊維を千切り、組織を破壊する。
それは剣術など呼べる代物ではなかった。
生きるための、なりふり構わぬ破壊工作だ。
五度目の打撃で、ついに太い幹がねじ切れた。
同時に、周囲で暴れていた蔦が一斉に力を失い、ダラリと地面に崩れ落ちた。
頭上の巨大な花も、糸が切れた操り人形のように枯れ萎んでいく。
荒い息だけが残る。
アルドは膝をつき、肩で息をした。
全身が樹液と泥でドロドロに汚れ、酸欠で視界が明滅している。
右腕の筋肉が悲鳴を上げていた。
「……終わった、か」
剣を杖にして、どうにか立ち上がる。
蔦の壁が消えた向こうから、ミナが駆け寄ってきた。
彼女の服も泥で汚れているが、怪我はないようだ。
「……無茶苦茶ね」
ミナは、ぐちゃぐちゃに粉砕された植物の幹と、アルドの錆びた剣を見比べて、呆れたように言った。
その声には、称賛とも侮蔑ともつかない響きがあった。
「普通、根元を断ち切るなら斧か炎を使うものよ。……剣で叩き潰してねじ切るなんて、聞いたことがないわ」
「……斬れないんだ。これしか方法がなかった」
アルドは、こびりついた樹液を布で拭い取りながら答えた。
皮肉な話だ。
もしこの剣が錆びておらず、軽量で鋭利な名剣だったなら、弾力のある蔦を斬り裂くことも、幹を粉砕することもできなかったかもしれない。
錆びて重くなり、ただの鈍器と化したからこそ、この怪物を倒せたのだ。
「役に立つのか立たないのか、分からない剣だ」
アルドは苦笑し、剣を背中に戻した。
だが、その重みは先ほどまでとは少し違って感じられた。
呪いであることに変わりはない。
だが、使いようによっては、自分を守る牙になり得る。
その事実を、身体が覚えたからだ。
「先へ急ぎましょう。血と樹液の匂いで、他の何かが寄ってくるかもしれない」
ミナが周囲を警戒しながら促す。
アルドも頷き、泥沼から足を引き抜いた。
森は依然として深く、出口は見えない。
だが、二人は止まらなかった。
歪んだ自然、襲い来る捕食者。
それら全てをねじ伏せてでも進む。
その泥臭い覚悟だけが、今の彼らの羅針盤だった。
薄暗い樹冠の隙間から、わずかな光が差し込んでいる。
それは希望の光か、それとも誘蛾灯の罠か。
確かめるためには、歩き続けるしかなかった。




