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第五話 荒野の墓標

 国境の河を越えた先に広がっていたのは、色彩を失った世界だった。

 草木は枯れ果て、赤茶けた大地が地平線の彼方まで続いている。

 かつては肥沃な穀倉地帯だったとされるこの平原も、十年前の大戦で焼き払われ、魔力の暴走によって土地が汚染されてからは、草一本生えない死の大地へと変貌していた。

 乾いた風が吹き荒れている。

 風は砂塵を巻き上げ、容赦なく二人の肌を叩いた。

 河原での湿り気が嘘のように、空気は乾ききっている。

 喉の奥に張り付くような渇きが、常にアルドを苛んでいた。

「……水は」

 アルドは立ち止まり、腰の革袋に手を伸ばした。

 一口だけ含む。

 ぬるくなった水が、乾いた粘膜に染み渡る。

 だが、それを飲み込むことは躊躇われた。

 次の水源がどこにあるか分からない以上、この革袋の中身は命そのものだ。

「あと二日分、といったところか」

 アルドは声を絞り出すように呟いた。

 隣を歩くミナは、フードを目深に被り、黙々と足を動かしている。

 彼女の足取りは乱れていないが、その唇は乾燥で白く乾いていた。

 無尽蔵に見える彼女の体力にも、限界はある。

「この先に、宿場町の跡があるはずだ。井戸が生きている保証はないが、確認する価値はある」

 アルドが地図も見ずに言うと、ミナは小さく頷いた。

「あなたの記憶が正しければ、ね」

「十年前、俺が焼いた場所だ。……忘れるわけがない」

 アルドは自嘲気味に吐き捨て、再び歩き出した。

 背中の剣が重い。

 その重さは、物理的な質量以上に、過去の罪の重さとなって彼にのしかかっていた。


 ◇


 日が傾き、長い影が大地に伸びる頃、二人はその場所にたどり着いた。

 宿場町「ロスパ」。

 かつては街道を行き交う商隊で賑わった交通の要衝。

 だが今、二人の目の前にあるのは、風化し崩れかけた石壁の残骸と、炭化した梁が墓標のように突き出した、静寂の廃墟だった。

 建物の屋根は落ち、窓枠は朽ち果てている。

 通りには、壊れた馬車の車輪や、風に洗われて白骨化した家畜の骨が散乱していた。

 人の気配はない。

 あるのは、風が廃屋の隙間を通り抜ける際に発する、亡霊のすすり泣きのような風切り音だけだ。

「……ひどいものね」

 ミナが瓦礫の山を見つめ、感情のこもらない声で言った。

 アルドは答えなかった。

 答える言葉を持っていなかった。

 この町を守るはずだった軍勢を率いていたのは、他ならぬアルド自身だったからだ。

 魔王軍の別動隊による奇襲。

 防衛ラインの崩壊。

 そして行われた、焦土作戦という名の撤退戦。

 住民を逃がす時間は稼いだが、町は灰燼に帰した。

「井戸を探すぞ」

 アルドは追憶を振り払うように足を速めた。

 広場の中央、かつて市場が開かれていた場所に、石組みの井戸があった。

 アルドは古びた釣瓶のロープを引いた。

 ロープは腐りかけていたが、慎重に手繰り寄せると、底から木桶が上がってきた。

 中には、わずかだが水が溜まっていた。

 泥が混じり、濁っている。

 だが、死臭はしない。

「……飲めそうだ。煮沸すればな」

 アルドは安堵の息をついた。

 これで数日は生き延びられる。

 だが、その安堵は一瞬で警戒心へと塗り替えられた。

 視線を感じたのだ。

 風の音に紛れて、瓦礫を踏む微かな気配が近づいてくる。

「……客だ」

 アルドが低く警告すると同時に、ミナは素早く崩れた壁の陰に身を滑らせた。

 アルドは動かなかった。

 井戸のそばに立ち、背中の剣に手をかけずに、周囲の廃屋を睨みつける。

 崩れかけた酒場の入り口から、数人の男たちが姿を現した。

 四人。

 いや、背後の路地にもう二人。

 計六人。

 全員が薄汚れたボロ布を纏い、痩せこけている。

 その手には、手入れもされていない剣や農業用の鎌、石をくくりつけた棍棒が握られていた。

 魔物ではない。

 人間だ。

 だが、その瞳に宿る光は、先日戦ったハイエナよりも遥かに飢え、そして濁っていた。

 「野盗」と呼ぶのも憚られる、戦災と飢餓が生み出した「あぶれ者」たち。

「……水か?」

 リーダー格と思われる男が、しわがれた声で問いかけてきた。

 片目が潰れ、頬に大きな火傷の跡がある。

「ここらの井戸はあらかた枯れちまった。……兄ちゃん、運がいいな」

 男たちがじりじりと包囲網を狭めてくる。

 彼らの視線は、アルドの顔ではなく、手元の水桶と、腰の革袋、そして背中の装備にねっとりと張り付いていた。

「全部置いていけ。そうすりゃ、命だけは助けてやる」

 ありふれた脅し文句。

 だが、彼らの目は本気だった。

 生きるためなら何でもする。

 道徳や理性など、とうの昔に空腹と共に消化してしまった者の目だ。

 アルドは静かに首を振った。

「断る。これは俺たちの分だ」

「……そうかい。なら、死体から奪うまでだ」

 男が合図をすると、六人が一斉に襲いかかってきた。

 統率などない。

 ただの暴力の衝動だ。

 正面から棍棒を振り上げる男。

 側面から鎌で足を狙う男。

 アルドは踏み込んだ。

 剣を構える動作など端から捨てている。

 正面の男が棍棒を振り下ろすよりも早く、その懐に潜り込む。

 がら空きになった鳩尾に、硬い革手袋に包まれた掌底を叩き込んだ。

 空気が漏れる音がして、男がくの字に折れ曲がる。

 そのまま男の体を盾にし、側面から迫る鎌の一撃を受け止める。

 鈍い音がして、鎌が仲間の背中に食い込む。

 悲鳴が上がる。

「どけッ!」

 アルドは盾にした男を突き飛ばし、背中の鞘剣をベルトごと外して右手に握った。

 重量十キロの鉄塊。

 それを、背後から迫っていた別の男の脛に向かって、水平に薙ぎ払う。

 骨が砕ける嫌な感触が手に伝わり、男が絶叫して転倒した。

 速い。

 そして、迷いがない。

 かつての英雄アルドの剣技ではない。

 泥臭く、最短で相手を行動不能にする、ただの暴力。

 だが、その暴力こそが、今の彼に残された唯一の対話手段だった。

 瞬く間に三人が地面に転がった。

 残りの三人が、恐怖に顔を引きつらせて足を止める。

 彼らは理解したのだ。

 目の前の男が、自分たちと同じ「獲る側」の人間であり、しかも格が違うということを。

「……失せろ」

 アルドは冷たく告げた。

 殺気を含んだその声に、男たちは怯んだ。

 だが、リーダー格の男だけは、まだ諦めていなかった。

 彼の視線が、壁の陰に隠れていたミナに向けられたことに、アルドは気づいた。

「そっちだ!」

 リーダー格の男が叫び、隠し持っていた投石紐を振り回した。

 狙いはアルドではない。

 ミナだ。

 石礫が唸りを上げて飛ぶ。

 アルドの反応は遅れた。

 距離がある。

 間に合わない。

 ――また、守れないのか。

 脳裏に、炎上するこの町の記憶が重なる。

 逃げ惑う人々。

 崩れる壁。

 自分の無力さ。

 だが、次の瞬間。

 飛来した石は、ミナの顔の直前で、見えない壁に弾かれたように軌道を逸れ、背後の壁に当たって砕けた。

 ミナは微動だにしなかった。

 彼女の手には、いつの間にか一本の短剣が握られていた。

 投石の風圧に髪を揺らしながらも、その瞳は凍てつくように冷たい。

「……粗末な石ね」

 彼女が短剣を軽く振ると、切っ先から不可視の刃のような風圧が放たれた。

 リーダー格の男の足元の地面が、鋭く切り裂かれる。

「ひッ!?」

 男は腰を抜かし、情けなく尻餅をついた。

 魔法ではない。あるいは、魔法と呼ぶにはあまりに鋭利な、純粋な技術。

 ミナはゆっくりと歩み寄り、男を見下ろした。

「命拾いしたわね。……彼が甘い男でよかったわ」

 男たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように廃墟の奥へと逃げ去っていった。

 静寂が戻る。

 地面に転がるうめき声と、乾いた風の音だけが残された。

 アルドは大きく息を吐き、剣を背中に戻した。

 手が震えている。

 恐怖ではない。

 殺さなかったことへの安堵と、殺そうとした自分への嫌悪が入り混じった震えだ。

「……助かった」

 アルドは顔を背けたまま言った。

 ミナは短剣を懐にしまい、淡々と答えた。

「自分の身くらい自分で守れるわ。護衛が必要なのは、私の身体じゃなくて、この旅そのものよ」

 彼女は井戸の水を革袋に詰め始めた。

 地面に転がり、苦痛に呻く男たちには一瞥もくれない。

 その徹底した無関心さが、アルドには空恐ろしく、同時に頼もしくもあった。

「……ここは休める場所じゃないな」

 血の匂いと、うめき声。

 こんな場所で野営などできるはずがない。

 アルドは空を見上げた。日は沈みかけているが、まだ歩ける。

「行こう。町外れに、古い礼拝堂があったはずだ。そこなら壁も屋根も残っているかもしれない」

 二人は廃墟の広場を後にした。

 背後で、再び風が吹き抜ける音がする。

 それは、この町で死んだ者たちの嘆きか、それとも生き残った者たちの飢えた吐息か。

 アルドは振り返らなかった。

 ただ、背中の剣の重みだけが、彼に現実を突きつけていた。

 この荒野では、感傷に浸る時間さえも、贅沢な浪費なのだと。


 ◇


 町外れの丘の上に建つ礼拝堂は、奇跡的に半壊で済んでいた。

 ステンドグラスは砕け散り、祭壇は瓦礫に埋もれていたが、厚い石壁と屋根の一部は、風雨を凌ぐシェルターとしての機能を残していた。

 礼拝堂の隅、かつて聖像が立っていたであろう台座の陰で、二人は小さな焚き火を囲んだ。

 井戸の水で煮た干し肉と、硬いパンの夕食。

 質素だが、昨夜のハイエナの肉に比べれば御馳走だった。

 炎を見つめながら、アルドはポツリと漏らした。

「……あいつらは、十年前の生き残りだろうか」

 先ほどの男たち。

 彼らは野盗だったが、その装備や身なりは、かつての住民か、あるいは脱走兵の成れの果てに見えた。

「さあね。誰の生き残りでも同じよ。今はただの獣だわ」

 ミナは手元の地図を広げながら、そっけなく答えた。

「獣、か……。俺も変わらないな。あいつらを叩きのめして、水を奪った」

「奪ったんじゃない。守ったのよ。……それに、殺さなかった」

 ミナが顔を上げ、アルドを直視した。

「あなたはまだ、迷っている。武器を振るうことにも、命を奪うことにも。……その迷いが、いつかあなたの首を絞めることになるわ」

「……分かっている」

 アルドは膝の上で拳を握りしめた。

 分かっている。

 今日の戦闘でも、最後の一瞬に躊躇いが生まれた。

 ミナがいなければ、石礫を受けていたかもしれない。

 錆びついているのは剣だけではない。

 覚悟そのものが、中途半端に錆びついているのだ。

「でも、その甘さが……時々、人間らしくて悪くないとも思うわ」

 不意に、ミナの声色が柔らかくなった気がした。

 アルドが顔を上げると、彼女はもう地図に視線を戻していた。

 炎の揺らめきが、彼女の表情を隠している。


 夜が深まる。

 礼拝堂の外では、荒野の風が獣の咆哮のように唸り続けていた。

 だが、石壁の中だけは、静かな時間が流れていた。

 アルドは剣を抱いて目を閉じた。

 明日もまた、荒野が続く。

 だが、その道行きの先に、何が待っているのか。

 恐怖と希望が入り混じった予感を抱きながら、彼は浅い眠りへと落ちていった。

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