第四話 微かな希望
ハイエナの骸が転がる岩陰に、冷たい雨が容赦なく打ちつけている。
戦闘の興奮が冷めるにつれ、アドレナリンで麻痺していた感覚が戻り、代わりに強烈な寒気がアルドの体を襲い始めた。
吐く息が白い。
季節は秋の終わり。
この国境地帯の夜雨は、濡れた者の体温を骨まで奪い去る死神の鎌だ。
「……マズいな」
アルドは、自身の身体が小刻みに震え始めているのを自覚した。
左腕の傷の痛みよりも、全身を蝕む冷気の方が深刻だ。
このまま濡れた体で朝まで過ごせば、体力を消耗しきってしまうだろう。
最悪の場合、低体温症で死に至りかねない。
「おい、ミナ。立てるか」
アルドは、崩れ落ちた天幕の残骸を手繰り寄せた。
先ほどの戦いで、支柱は折れ、帆布は大きく引き裂かれている。
だが、まだ使える。
いや、使わなければならない。
「……ええ」
ミナも状況を即座に理解したようだ。
彼女の唇も青ざめているが、その瞳に動揺はない。
彼女は懐から、油紙に包まれた小さな革袋を取り出した。中には針と丈夫な麻糸、そして予備の布切れが入っている。
「支柱をお願い。布は私が縫うわ」
簡潔な指示。
二人は無言で動いた。
アルドは折れた支柱の代わりに、手頃な流木を地面に突き立て、岩の裂け目を利用して骨組みを作る。
その横で、ミナは雨に打たれながらも、驚くべき手際の良さで裂けた帆布を縫い合わせていく。
濡れた布は重く、針を通すのも一苦労なはずだが、彼女の指先に迷いはない。
破れ目がひどい箇所には予備の布を当て、太い糸でしっかりと補強していく。
美しい刺繍などではない。
ただ雨風を凌ぐためだけの、実用一点張りの粗い縫い目だ。
だが、その仕事の早さと確実さは、彼女がただの旅の女性ではないことを雄弁に物語っていた。
数分後。
つぎはぎだらけだが、雨を弾く頼もしい屋根が完成した。
「入れ。まずは火だ。濡れた服を乾かさないと死ぬぞ」
狭い空間に滑り込む。
地面は湿っているが、直接雨に打たれるよりは遥かにマシだ。
アルドは入り口付近に石を積み、即席のかまどを作った。
「……チッ、湿ってやがる」
集めた薪はどれも雨を吸って重くなっている。
このまま火打ち石を叩いても、火花が吸われるだけで煙も出ないだろう。
アルドは舌打ちをし、道具袋を探った。
当然ながら、気の利いた乾燥火口など入っていない。
酒代に消えたか、管理が悪くて泥になり果てているかだ。
――貸して。
昨夜のミナの行動が脳裏をよぎる。
彼女は濡れた薪を削り、乾いた芯を出して着火剤にしていた。
アルドは無言でナイフを取り出した。
手頃な枝を拾い上げ、濡れた樹皮を削ぎ落とす。
そして、中の乾いた白い木質部を、薄く、羽毛のように削り出していく。
『フェザースティック』。
新兵の頃に教え込まれた基本技術だ。
長らく忘れていた指先の感覚が、昨夜のミナの手本を見たことで蘇っていた。
削り出した乾いた木屑に向けて、火打ち石を叩く。
一度、二度。
小さな火花が木屑に絡みつき、微かな煙と共に赤熱する。
アルドは慎重に息を吹きかけ、炎を育てていく。
やがて、ゆらりとしたオレンジ色の光が生まれ、シェルター内を照らし出した。
「……生き返るな」
アルドは革鎧を脱ぎ、火のそばに吊るした。
濡れたシャツから湯気が立ち上る。
ミナも上着を脱ぎ、絞ってから火にかざしている。
彼女は燃え上がるフェザースティックと、アルドの手元のナイフを一瞥し、小さく鼻を鳴らした。
「……学習能力はあるようね」
「うるさい。とっとと乾かせ」
アルドはぶっきらぼうに返し、ナイフを鞘に戻した。
その横顔には、少しだけ安堵の色が浮かんでいた。
「俺は外で肉を捌いてくる。……火を絶やすなよ」
アルドは再びナイフを手に取り、雨の中へと這い出した。
目の前には、先ほど殺したハイエナの死骸がある。
普段なら見向きもしない魔獣の肉。
だが今は、これこそが生き延びるための唯一の燃料だ。
解体作業は、冷徹かつ迅速に行われた。
雨で指の感覚がなくなる前に終わらせなければならない。
腹を裂き、内臓を傷つけないように皮を剥ぐ。
強烈な獣臭と鉄錆のような血の匂いが鼻孔を突き、胃液がせり上がってくるのを奥歯を噛み締めて堪える。
『腐肉喰らい』の名が示す通り、こいつらの肉は臭い。
寄生虫のリスクもある。
だが、贅沢を言っている場合ではない。
アルドは食べられそうな腿の肉を大きく切り出し、残りの死骸を川の中へ蹴り捨てた。
血の匂いが、新たな捕食者を呼び寄せないようにするためだ。
◇
シェルターに戻ると、ミナが火を守っていた。
炎が安定し、狭い空間のおかげで、幾分か空気が温まっている。
吊るしておいた服からは盛大に湯気が上がり、湿った犬のような匂いが充満しているが、今の二人には香水よりも心地よい匂いだった。
アルドは串に刺した肉を火にかざした。
脂が火に落ち、芳ばしい音を立てて燃え上がる。
その音と、肉の焼ける匂いだけが、絶望的な夜における唯一の救いだった。
「……焼けたぞ」
十分に火を通し、表面が焦げるほど焼いてから、アルドは串の一本をミナに差し出した。
ミナは無言で受け取り、熱さを気にする様子もなく、端から噛みちぎった。
顔色一つ変えずに咀嚼し、飲み込む。
「……味はどうだ」
皮肉を込めて聞いてみる。
きっと、顔をしかめるに違いない。
だが、ミナの答えは簡潔だった。
「硬いわね。……でも、温かいわ」
それだけ言って、彼女は黙々と肉を食べ続けた。
アルドは不意を突かれたような気分になり、自分の分の肉にかぶりついた。
硬い。
筋張っていて、ゴムを噛んでいるようだ。
そして何より、口の中に広がる獣臭さと、微かな腐臭。
香草も塩もない今の状況では、ただただ野蛮な味が舌を蹂躙するだけだ。
かつて王宮の晩餐会で、最高級の仔羊のローストを食べていた自分が、今は泥にまみれてハイエナを食らっている。
惨めだ。
だが、胃の腑に落ちた肉片は、確かな熱となって体の芯を温め、震えを止めていく。
「……温かい、か」
アルドは独りごちた。
そうだ。美味いか不味いかなど、生きる上では些細な問題だ。
これを食わなければ、明日は動けない。
動けなければ、泥に沈む。
生存への渇望。
それが、錆びついた彼の心臓を、わずかだが動かしていた。
食事を終える頃には、夜明けが近づいていた。
雨音は弱まり、しとしとと降る霧雨へと変わっている。
服もだいぶ乾いてきた。
アルドは剣を抱くようにして、岩壁にもたれかかった。
ミナも反対側の壁に背を預け、膝を抱えている。
焚き火を挟んだ適度な距離。
そこにあるのは、甘い雰囲気など微塵もない、共犯者めいた重苦しい沈黙だけだ。
「……少し、仮眠をとる。火の番は交代だ」
アルドが言うと、ミナは静かに頷いた。
焚き火の爆ぜる音と、外を流れる川の激流の音。
それらを子守唄代わりに、アルドは浅い、しかし貴重な眠りへと落ちていった。
◇
目が覚めた時、世界は灰色だった。
朝が来ていた。
テントの外へ出ると、雨は止んでいた。
空を覆っていた鉛色の雲には切れ間が見え、そこから薄らとした陽光が差し込んでいる。
空気は冷たく澄んでおり、昨夜の泥臭い湿気は嘘のように引いていた。
「……雨が上がったか」
アルドは軋む体を起こし、大きく伸びをした。
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
昨夜の戦闘と、硬い地面での睡眠の代償だ。
左腕の噛み跡がずきりと痛むが、骨折はしていないようだ。
アルドは川岸へと向かった。
昨夜、濁流となって荒れ狂っていたガリア川。
その水位は、依然として高いままだ。
茶色く濁った水が、轟音と共に岩を噛んでいる。
上流から流されてきた巨木が、凄まじい速度で通過していくのが見えた。
「……まだ無理ね」
いつの間にか隣に立っていたミナが呟く。
彼女の手には、革袋に入った水がある。
徹夜で見張りをしていたわけではないだろうが、その顔には疲労の色が見えない。
相変わらず、人形のように整った、しかし生気を感じさせない美貌だ。
「ああ。上流の雨が落ちてくるのはこれからだ。昼過ぎまでは増え続けるだろうな」
アルドは川岸の岩に刻まれた、古い水位の跡を確認しながら言った。
経験則だ。
この規模の川は、雨が止んでから半日ほど遅れて最高水位に達する。
焦って飛び込めば、間違いなく流木ごともっていかれる。
「どうするの? 待つ?」
「待つしかない。……だが、明後日の朝には渡れるはずだ」
アルドは空を見上げた。
雲の流れは速い。風向きも変わっている。
これなら、もうまとまった雨は降らないだろう。
かつて戦場で天候を読んだ勘が、そう告げていた。
「今日はここで体を休めて、装備を手入れする。ハイエナの肉も燻製にしておくか。……不味いが、ないよりはマシだ」
それは、消極的な停滞ではなく、明日へ進むための積極的な休息だった。
二人はその日一日を、河原で過ごした。
太陽が顔を出すと、気温は少しずつ上がっていった。
アルドはハイエナの残りの肉を薄く切り、煙で燻して保存食を作った。
さらに、流木の中から乾いた樹皮や苔を集め、ナイフで丁寧にほぐして火口を作り、湿気らぬよう油紙で何重にも包んだ。
対岸へ渡る際、再び水に濡れることは避けられない。
その後、速やかに火を起こせなければ、今度こそ命取りになる。
昨夜の失敗は繰り返さない。
泥臭い作業だが、その手つきにはかつての慎重さが戻りつつあった。
ミナはシェルターを解体し、帆布についた泥を川で洗い流し、丁寧に畳んだ。
会話は少なかった。
だが、互いにやるべきことを黙々とこなすその時間は、不思議と苦痛ではなかった。
◇
そして、翌々日の朝。
川の表情は一変していた。
水の色はまだ茶色く濁っているものの、水位は劇的に下がっていた。
激流の勢いは削がれ、中洲の岩肌が大きく露出している。これなら、足を取られずに対岸へのルートが確保できそうだ。
「……読み通りだな」
アルドは満足げに頷き、荷物をまとめた。
体調は悪くない。
一昨日と昨日の休息のおかげで、筋肉の痛みも引いている。
何より、判断が正しかったという事実が、彼の中に小さな自信を灯していた。
「行くぞ。また天気が崩れる前に渡りきる」
アルドは背中の剣を背負い直した。
錆びついた鉄塊の重みが、肩に食い込む。
だが、その重さは「足枷」ではなく、激流の中で体を支えるための「錨」のように感じられた。
◇
渡河は、想像以上に過酷だった。
水温は雪解け水のように冷たく、足を入れた瞬間、皮膚が痺れて感覚を失っていく。
川底はぬかるんでおり、大小の石が転がっていて足場が悪い。
「……離れるなよ」
アルドは、手近な流木を杖代わりにして、慎重に足を踏み出した。
その後ろを、ミナが続く。
彼女の小柄な体では、この流れに逆らうのは容易ではないはずだ。
アルドは時折振り返り、彼女が流されていないか確認する。
ミナはアルドの革ベルトを掴み、流れに逆らわず、しかし確実に足を進めていた。
川の中程、流れが最も速くなる地点まで来た時だった。
アルドが踏んだ石が、水流の圧力でぐらりと動いた。
「っ……!」
体勢が崩れる。
背中の剣の重みが、バランスを奪う凶器へと変わる。
体が傾き、冷たい水面が顔に迫る。
――まただ。
――また、俺は失敗する。
脳裏に、いつもの諦めが過る。
このまま流されれば、溺れ死ぬか、下流まで運ばれて元の木阿弥だ。
それもいいかもしれない。楽になれるなら。
その時。
強い力で、腕を引かれた。
ミナだ。
彼女はアルドのベルトを両手で掴み、自身の体重をかけて彼を支えていた。
その細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、強固な支えだった。
「……何をしているの、英雄様」
激流の音に負けない、凛とした声が響く。
「自分で選んだ道でしょう。勝手に転んで、勝手に諦めないで」
その言葉に、アルドの目が覚めた。
そうだ。 森を避け、ここで待つと決めたのは自分だ。
肉を燻し、準備を整え、この川を渡ると決めたのも自分だ。
自分の選択でこうしてここにいるのだから、その結果に責任を持たなければならない。
「……悪かった」
アルドは歯を食いしばり、足に力を込めた。
杖を突き立て、体勢を立て直す。
冷たさで感覚のない足先で、川底の泥を掴むように踏ん張る。
「行くぞ」
再び歩き出す。
一歩、また一歩。
冷たい水流が腰を打ち、体温を奪っていく。
だが、アルドは止まらなかった。
背中の剣は重い。
過去の罪悪感のように、彼を押し潰そうとする。
けれど、今はその重さがあるからこそ、激流に流されずに済んでいるのかもしれない。
皮肉なものだと思いながら、彼は対岸の岩場を目指した。
三十分後。
二人は、ずぶ濡れになりながら対岸の河原にたどり着いた。
アルドは四つん這いになり、荒い息を吐いた。
全身が震えている。
寒さのせいだけではない。
冷水に体温を奪われたことによる生理的な反応だ。
「……すぐに、火だ」
アルドは震える唇で呟いた。
達成感に浸っている場合ではない。この晩秋の気候で、ずぶ濡れのまま歩き出せば、一時間もしないうちに低体温症で動けなくなる。
ミナも無言で頷き、河原に打ち上げられた流木を集め始めた。
昨日の晴天で、表面は乾いているものが多い。
アルドは濡れた手で道具袋を探り、何重にも油紙で包んでおいた火口と火打ち石を取り出した。
指がかじかんでうまく動かない。
だが、焦るなと自分に言い聞かせる。
何度か火打ち石を鳴らすと、火花が飛び、火口が赤く呼吸を始める。
そこに枯れ草と小枝をくべ、慎重に息を吹き込む。
小さな炎が生まれた瞬間、アルドは心底安堵の息を吐いた。
二人は火を囲み、濡れた革鎧と衣服を脱いで乾かした。
白い蒸気がもうもうと立ち昇る。
肌を刺すような寒気が、炎の熱によって少しずつ追いやられていく。
「……生き延びたな」
アルドは革鎧の水気を拭き取りながら呟いた。
「ええ。あなたが諦めなかったおかげよ」
ミナもまた、火にかざした上着越しにアルドを見つめた。
一時間ほど体を暖め、衣服が生乾きになる頃には、太陽が高く昇っていた。
これなら歩ける。
動いていれば、残りの湿気も体温で乾くだろう。
「行こうか」
装備を整え直したアルドは、顔を上げ、進行方向を見据えた。
川を越えた先には、なだらかな丘陵地帯が広がっている。
その先には鬱蒼とした森があり、さらにその向こうには、霞んで見えない山脈が連なっているはずだ。
旧帝都への道のりは、まだ果てしなく遠い。
全行程の、ほんの一握りを進んだに過ぎない。
「ええ。やっと一歩目ね」
ミナが隣に立つ。
彼女の視線もまた、遥か東の空に向けられていた。
「ここから先は、人里離れた荒野が続くわ。魔物も強くなるし、野宿も続く。……覚悟はいい?」
試すような問いかけ。
アルドは背中の剣の位置を直した。
鞘に入ったままの、役立たずの鉄屑。
だが、今の彼にはこれしか武器がない。
「……覚悟なんて立派なもんはない」
アルドは、まだ痺れが残る左腕をさすりながら答えた。
「ただ、泥の中で死ぬのは御免だ。それだけだ」
それは、元英雄としての高潔な決意ではなかった。
ただの、一人の人間としての、泥臭い執着。
だが、これまでの「どうせ死ぬなら楽に死にたい」という逃避とは、決定的に違う色が混じっていた。
「そう。……なら、行きましょう」
ミナは満足そうに小さく頷き、歩き出した。
アルドもその後に続く。
雲の切れ間から差し込んだ日差しが、二人の背中を照らし、地面に長い影を落としていた。
影の中にある剣の輪郭は、未だに歪で太いままだ。
錆が落ちる気配はない。
だが、アルドの歩みは、これまでよりも幾分か力強く、確かなものになっていた。




