第三話 渡れぬ河
三匹の泥狼の死骸が、雨に打たれている。
アルドが鞘ごと叩きつけた一撃は、狼の頭蓋を砕き、その命を無慈悲に奪っていた。
だが、それはかつて吟遊詩人が歌ったような英雄の剣技とは程遠い、鉄塊による撲殺だった。
「……ついてねえ」
アルドは、革鎧にこびりついた泥と血を乱暴に手で払いながら、本日何度目になるかわからない悪態をついた。
夜明けと同時に降り始めた雨は、止む気配を見せるどころか、その勢いを増している。
氷の粒を含んだ横殴りの雨風が、容赦なく体温を奪っていく。
「なんで俺が旅に出ると、いつもこうなんだ。空まで俺を嘲笑ってやがるのか」
アルドは鉛色の空を睨みつけた。
かつての英雄時代は、戦場に出れば雲が割れたという逸話さえある。
だが今はどうだ。
行く先々で嵐に見舞われ、橋は落ち、宿は満室になる。
世界そのものが、落ちぶれた自分に石を投げつけているようにしか思えない。
「……声が大きいのよ」
背後から、冷ややかな声が聞こえた。
ミナだ。
彼女はフードを深く被り、雨風を避けながら、泥狼の死骸を興味なさそうに見下ろしている。
不思議なことに、彼女のブーツや旅装束には、泥跳ね一つ付いていない。
アルドのように泥に足を取られて転ぶこともなく、慎重に足場を選んで歩いているからだ。
「この雨音に紛れているとはいえ、泥狼は耳がいいの。あなたが大声で不平不満を撒き散らしながら歩けば、獲物がここにいると教えているようなものだわ」
「屁理屈を言うな」
アルドは唸るように返した。
だが、それ以上怒鳴り返す気力も、雨に奪われていく。
背中の剣が、ズシリと重みを増す。
濡れた鞘と刀身の隙間に雨水が入り込み、内部の錆を増殖させているような錯覚。
背骨が軋み、肩に痛みが走る。
「……行くぞ。ここにいても体が冷えるだけだ」
アルドは会話を打ち切り、再び歩き出した。
ミナは肩をすくめ、音もなくその後を追う。
街道は東へと続いている。
目指す旧帝都までは、馬車を使っても二ヶ月、徒歩ならば半年は優にかかる長旅だ。
その最初の一歩目からこの泥濘。
先が思いやられるどころの話ではなかった。
◇
数時間後。二人の行く手を、絶望的な光景が阻んだ。
「……はっ。やっぱりな」
アルドは乾いた笑いを漏らした。
目の前を流れるのは、国境を分かつ大河「ガリア川」。
普段は穏やかな流れのはずが、連日の雨で増水し、茶色く濁った激流と化している。
流木が凄まじい勢いで流され、岩にぶつかっては砕け散っている。
そして、そこにかかっていたはずの石造りの橋は、無惨にも中央から崩落し、激流に飲み込まれていた。
対岸へ渡る手段が、物理的に消滅している。
「橋がない。……俺が渡ろうとすると、いつもこれだ」
アルドは、まるで自分の予言が当たったことを誇るかのように、投げやりに言った。
この激流に飛び込めば、背中の重い剣が錨となって、一瞬で川底へ引きずり込まれるだろう。
「どうするの? 上流の橋まで迂回する? それとも、下流の原生林を抜ける?」
ミナが地図も見ずに淡々と選択肢を提示する。
アルドは舌打ちをした。
上流へ回れば五日のロス。
下流の森は、底なしの沼地が広がる魔境だ。
今の装備とこの天候で森へ入れば、遭難するのは目に見えている。
「……ここで待つ」
アルドは、川岸の少し高台になった開けた場所を指差した。
「森を抜けるのは自殺行為だ。上流の橋だって落ちていない保証はない。なら、水が引くまでここで野営する。それが一番マシな選択だ」
それは、彼にしては珍しく慎重な、しかし消極的な判断だった。
ミナは一瞬だけアルドの顔を見つめ、小さく頷いた。
「賢明ね。少なくとも、森の泥の中で野垂れ死ぬよりはマシだわ」
◇
日が暮れると、雨はいっそう激しくなった。
岩陰を利用して簡易的なテントを張り、二人はその下に逃げ込んだ。
狭い空間に、湿った空気と沈黙が充満する。
「……クソッ、点かねぇな」
アルドは火打ち石を打ち付けていたが、湿気を含んだ薪は煙を上げるばかりで、なかなか火が点かない。
何度目かの失敗の後、彼は苛立ちまかせに火打ち石を投げ捨てそうになった。
「貸して」
見かねたミナが手を伸ばす。
彼女はアルドから道具を奪い取ると、ナイフで薪の表面を薄く削り、乾いた芯の部分を露出させた。
そして、削り屑を丁寧に重ね、火花を散らす。
一発だった。
小さな炎が生まれ、やがて薪へと燃え移っていく。
「……ふん。器用なことだ」
アルドは面白くなさそうに鼻を鳴らし、焚き火に手をかざした。
揺らめく炎が、二人の顔を照らし出す。
ミナは炎を見つめたまま、何も言わない。
その横顔は彫刻のように美しかったが、同時に何を考えているのか読み取れない不気味さがあった。
アルドは、以前から喉につかえていた疑問を口にした。
「……おい。いい加減、話したらどうだ」
「何を?」
「目的だ。帝都になんて行ってどうする? あそこは十年前の戦争で廃墟になったはずだ。魔獣もはびこっていると聞く。人が住める場所じゃない」
アルドの言葉に、ミナは視線を炎から外さないまま答えた。
「廃墟かどうかは、行ってみなければ分からないわ。……それに、簡単に入れる場所でもない」
「どういうことだ?」
「結界よ」
ミナが短く告げた。
「旧帝都全域を覆う、強力な多重結界。魔法による不可視の壁が、都市を外界から完全に隔絶している」
「結界だと? 魔獣を閉じ込めるためか?」
「いいえ」
ミナはようやく顔を上げ、アルドを見た。
焚き火の明かりが、彼女の瞳の奥で揺れる。
「あれは檻じゃない。拒絶の壁よ。……中のものを逃さないためではなく、外の人間を一切中に入れないためのもの」
「拒絶……」
アルドは眉をひそめた。
誰が、何のためにそんなものを張っているのか。
廃墟を守ることに何の意味がある?
だが、その不気味な響きに、背中の聖剣が微かに共鳴した気がした。
「そんな場所に、俺たちが入れる保証はあるのか」
「正規の方法では無理ね。……でも、鍵はあるわ」
ミナは意味深に言葉を濁し、毛布を引き寄せた。
「もう寝ましょう。雨が上がれば、水かさは減るはずよ」
会話はそこで途切れた。
アルドは焚き火を見つめながら、釈然としない思いを噛み殺した。
この女は肝心なことを言わない。
だが、今の自分には彼女の道案内に頼る以外の選択肢がなかった。
アルドは焚き火に枯れ枝を放り込んだ。
火の粉が舞い上がる。
雨音はまだ続いている。
その時だった。
天幕の外、雨音に紛れて、何かが濡れた砂利を踏みしめる音がした。
風の音ではない。
もっと重く、湿った生き物の気配。
「……!」
アルドの背筋が凍りついた。
条件反射で背中の剣に手を伸ばす。
ミナも既に起き上がっており、短剣を構えていた。
暗闇の中から、二つの赤い光が浮かび上がった。
一対ではない。二対、三対。
焚き火の明かりが届く範囲に、ぬらりと光る濡れた毛並みが現れる。
「……ハイエナか」
アルドが舌打ちした。
『腐肉喰らい』。
死肉を漁る卑しい魔獣だが、空腹時には生きた人間も襲う。
群れで執拗に獲物を追い詰める習性がある。
昼間の泥狼よりも一回り大きく、その口からは粘着質の涎が垂れていた。
「火の気を察知して寄ってきたか……。クソッ、今日は厄日かよ」
アルドは立ち上がろうとしたが、背中の剣がテントの支柱に引っかかった。
布が裂ける音がして、支柱を失った天幕が重苦しく崩れ落ちる。
濡れた帆布がアルドに被さり、視界が遮られる。
獣の唸り声と共に、ハイエナが一斉に飛びかかってきた。
「邪魔だッ!」
アルドは帆布を破り捨てながら、鞘剣を横薙ぎにした。
だが、体勢が悪い。
さらに、足元の岩が雨で濡れて滑りやすくなっていた。
剣先が硬い岩盤に弾かれる鋭い音が響き、火花が散る。
衝撃で手が痺れ、剣を取り落としそうになる。
その一瞬の隙に、ハイエナの牙がアルドの左腕に食らいついた。
「ぐアッ……!」
硬い革鎧が軋む音が響いた。
強烈な圧迫感が骨を締め上げる。
痛みよりも先に、自分への苛立ちが爆発した。
なぜだ。
なぜ、こんな雑魚相手に後れを取る。
テントが崩れたのも、足が滑ったのも、全てが不運のせいか?
――違う。
脳裏に、先ほどのミナの火起こしがよぎる。
彼女は準備し、手順を踏んだ。
俺は?
ただ漫然と座り込み、愚痴を吐いていただけだ。
周囲の警戒も怠り、足場の確認もせず、狭いテントの中で長剣を振り回した。
これは不運ではない。
無能だ。
「離れろォォォッ!」
アルドは咆哮と共に、噛みつかれている左腕ごとハイエナを振り回した。
そして、右手の鞘剣の「柄頭」を、ハイエナの鼻先に叩き込む。
硬い骨が砕ける、生々しい感触が拳に伝わった。
悲鳴を上げてハイエナが吹き飛ぶ。
アルドは追撃の手を緩めない。
立ち上がり、残りの二匹に向かって、重量に任せた大上段からの振り下ろしを見舞う。
剣はハイエナの背を打ち、重い衝撃が、アルドの足裏を震わせた。
ハイエナの脊椎がへし折れ、泥の中に沈む。
最後の一匹は、仲間の無残な姿を見て、闇の中へ逃げ去っていった。
荒い息だけが残る。
アルドは肩で息をしながら、崩れたテントと、消えかけた焚き火を見下ろした。
左腕の革鎧には、白く深い牙の跡が残っている。
「……怪我は?」
ミナが短剣を収めながら近づいてきた。
彼女は無傷だ。
アルドは噛まれた腕をさすりながら、忌々しげに吐き捨てた。
「……牙は通ってない。打撲だけだ」
「そう。運が良かったわね」
ミナはそれ以上何も言わなかった。
だが、その「運が良かった」という言葉が、逆に皮肉めいて聞こえ、アルドの胸を抉った。
実力で防いだのではない。たまたま鎧が厚かっただけだ。
一歩間違えば、腕を食いちぎられていただろう。
アルドは黙って剣を背中に収めた。
泥と雨に濡れたその鉄塊は、今までで一番冷たく、そして重く感じられた。
腕の痛みは、雨の冷たさの中でも熱く脈打ち、己の未熟さを主張し続けていた。
夜明けはまだ遠い。




