第二話 奇妙な依頼人
店を出ると、外は冷たい雨が降っていた。
この町特有の、骨まで冷やすような陰鬱な雨だ。
夜の闇に沈む町は死んだように静かで、雨音だけが支配している。
アルドはフードを目深にかぶり、泥濘んだ道を歩き出す。
どこへ行くあてもない。
安宿に戻っても、どうせ眠れずに天井のシミを数えるだけだ。
ただ、自分という存在を責め苛む思考の渦から逃げるように、足を動かすしかなかった。
だが。
そんな彼の背中を、路地裏の影からじっと見つめる視線があった。
「……見つけた」
雨音に紛れるほど低い、落ち着いた女の声。
アルドは足を止めた。
背中に突き刺さるその視線には、殺気はない。
だが、ねっとりと肺腑を探られるような、不快な観察者の目だ。
「……誰だ」
振り返ると、雨に濡れるのも構わず、一人の女が立っていた。
年齢は二十代半ばほどか。
実用的な旅装束に身を包み、フードの隙間から覗く瞳は、夜の闇よりも深く静かだった。
美しい女だ。
整った顔立ちをしているが、その佇まいには酒場の娼婦や看板娘のような愛想は欠片もない。
まるで路傍の石を観察するような、無機質な眼差し。
「『抜かずのアルド』。……なるほど、噂通りの面構えね」
女の声は低く、雨音に混じって染み渡る。
「腐った魚のような目。猫背になった背中。そして、何より雄弁なのが……その剣」
女の視線が、アルドの背中の鉄塊に向けられた。
「錆びつき、癒着し、二度と抜けないように『世界』から拒絶された剣。……傑作だわ」
「……何だと?」
アルドの眉間に皺が寄る。
酔いが急速に冷めていく。
こいつは今、何と言った?
世界から拒絶された、だと?
「言葉に気をつけろ。俺はこの剣の手入れを怠ったことはない。これは……呪いだ。俺にはどうすることもできない」
「そう。呪い、ね」
女は鼻で笑った。
嘲笑ではない。
事実を確認するような、淡々とした反応だ。
彼女は一歩、泥を踏んで近づいてきた。
「自己憐憫、他責、諦観。……完璧ね。あなたがこの国で一番、扱いやすそうだわ」
「あァ?」
「単刀直入に言うわ、元英雄様。私を護衛して。目的地は東の最果て、旧帝都」
唐突な依頼。
しかも、ただの護衛ではない。
旧帝都といえば、十年前の大戦で滅び、今は魔物がはびこり強力な結界に覆われた「立ち入り禁止区域」に指定されている魔境だ。
アルドは吐き捨てるように言った。
「断る。他を当たれ。死にたいなら一人で行け」
「報酬は弾むわよ」
「金の問題じゃない。……見ての通りだ。俺はもう剣士じゃない。ただの鉄屑屋だ」
アルドは背を向け、歩き出そうとした。
関わりたくない。
自分の惨めさを、これ以上この女に見透かされたくない。
だが、女の次の言葉が、アルドの足を縫い止めた。
「あら。剣を『抜きたい』とは思わないの?」
心臓が跳ねた。
アルドは肩越しに女を睨む。
「……直せるのか?」
「さあね。私は鍛冶屋じゃないもの」
女は肩をすくめた。
だが、その瞳には確信めいた光が宿っている。
「でも、知っているわ。その錆の原因が『何』なのか。……そして、東の帝都にいる『皇帝』なら、その剣を元通りにできるかもしれない、ということも」
「皇帝……?」
今の時代に皇帝などいない。
かつての帝国は滅び、帝都も廃墟になったはずだ。
だが、アルドの背中の剣が、心臓のように大きく脈打った気がした。
重く、冷たい鉄塊が、何かに共鳴するように。
「賭けてみない? 一生、酒に溺れて過去を嘆くだけの人生を送るか。それとも、もう一度その剣を抜いて、英雄ごっこをやり直すか」
女が懐から取り出し、差し出した手には、金貨ではなく、古びた紋章の入ったペンダントが握られていた。
それを見た瞬間、アルドの脳裏に激痛が走った。
記憶の底にある、炎と血の匂い。
双頭の鷲を象った、黄金の紋章。
――カイン。
死んだはずの親友。
彼が最期まで握りしめていた、王家の紋章。
「……お前、何者だ?」
アルドの声が震える。
女はフードを少しだけ上げ、薄い唇を歪めた。
「私はミナ。……ただの『逃亡者』よ」
雷鳴が轟いた。
白い閃光が、ミナの顔と、アルドの驚愕の表情を照らし出す。
彼女の言葉の真意は分からない。
だが、その瞳には、嘘やまやかしではない、強烈な意志の光があった。
「さあ、選びなさいアルド。このまま腐るか、地獄を見るか」
選択肢などなかった。
剣を直せるかもしれないという微かな希望。
そして、親友の遺品を見せられた動揺。
アルドは知らず知らずのうちに、彼女の掌の上で踊らされていた。
「……いいだろう」
アルドは呻くように答えた。
泥沼から這い上がるための蜘蛛の糸。
たとえそれが罠だとしても、今の彼には縋るしかなかった。
「ただし、期待するなよ。俺は本当に、役立たずだぞ」
「ええ、知ってるわ。今のあなたはね」
ミナは満足げに頷くと、踵を返した。
「出発は明日の夜明け。町外れの馬車寄せで待ってるわ。……飲みすぎないことね。二日酔いの護衛なんて、魔物の餌にもならないから」
闇に消えていく背中を見送りながら、アルドは再び剣の重みを感じていた。
だが、その重みは先ほどまでの「澱んだ重さ」とは少し違っていた。
不吉で、予感を孕んだ、冷たい重さ。
アルドはまだ知らない。
ミナが差し出したその微かな希望こそが、彼を再び血塗られた地獄のような戦場へと引きずり戻すための、逃れられない招待状であることを。
そして、この女、ミナが、決して「救いの女神」などではないことを。




