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第一話 抜かずのアルド

 その剣は、死んでいた。


 かつては「暁の光」と呼ばれ、魔王の心臓すら貫いたとされる伝説の聖剣。

 刀身は白銀に輝き、柄には聖なる加護を宿した蒼玉が埋め込まれ、ひとたび振るえば夜を切り裂くほどの輝きを放ったという、英雄の証。

 だが今、男の背中に背負われているそれは、見るも無残な赤茶けた鉄屑の塊にしか見えなかった。

 鞘と刀身は赤錆によって完全に癒着し、その境目すら判別できないほど一体化している。

 柄の装飾は剥げ落ち、かつて宝石が嵌っていた場所には空虚な穴が開き、泥が詰まっていた。

 それはもう、世界を守るための武器ではなかった。

 ただの、呪いのように重く、背骨を圧迫するだけの、鉄の棒だった。

「……おい、親父。酒だ。強いのをくれ。一番安いやつでいい」

 大陸の最果て、国境の町・バルク。

 吹き溜まりのような地下酒場のカウンターで、男――アルドは、低くしゃがれた声で注文した。

 三十半ばほどの年齢だが、その風貌は実年齢よりも遥かに老けて見える。

 手入れされていない無精髭に覆われた頬は病的にこけ、眼窩の奥にある瞳には、澱んだ泥のような色が浮かんでいる。

 かつて大陸中の吟遊詩人がその名を歌った「英雄アルド」の成れの果てだとは、この酒場にいる誰も気づかないだろう。

「またかよ、アルド。……金はあるんだろうな?」

 店主が呆れたように眉をひそめながら、琥珀色の液体が入った汚れたグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。

 アルドは無言で、ポケットから数枚の銀貨を取り出し、テーブルの上で弾いた。

 日雇いの魔物討伐――いや、正確には魔物避けの囮や荷物持ちといった雑用で稼いだ、なけなしの報酬だ。

 グラスを煽る。

 喉を焼くような劣悪な酒精が胃の腑に落ちる。

 味などどうでもいい。

 ただ、脳の芯まで痺れさせてくれるなら、泥水でも構わなかった。

 だが、どれだけ飲んでも、胸の奥にこびりついた寒さは消えない。

 背中の剣が、重い。

 四六時中、背骨をきしませるその重量感は、アルドの耳元でこう囁き続けているようだった。


 ――お前は無力だ。

 ――お前は、肝心な時に何も守れない、ただの臆病者だ。


「……クソが」

 アルドは悪態をつき、空になったグラスを乱暴に置いた。

 思考を止めたくて酒を飲んでいるのに、酔えば酔うほど、思考は鋭利になって自分を責め立てる。

 なぜ、剣は抜けないのか。

 魔王を倒した際に受けた呪いか。

 それとも、平和ボケして手入れを怠った報いか。

 わからない。

 わかっているのは、この剣が鞘から抜けなくなって既に五年が経つという事実だけだ。

 どんな名工に見せても、強力な魔導師に解呪を頼んでも、剣はびくともしなかった。

まるで、鞘と刃が融合してしまったかのように。

 英雄アルドは、もういない。

 ここにいるのは、錆びついた鉄屑を背負い、過去の栄光にすがりつきながら腐っていくだけの、ただの落伍者だ。

「おいおい、見ろよあの鉄屑。今日も来てやがるぜ」

 背後から、下卑た嘲笑が聞こえた。

 振り返らなくてもわかる。

 隣国の紛争地帯から流れてきた、質の悪い傭兵崩れの一団だ。

 この町は辺境にあるため、食い詰めた荒くれ者が流れ着く終着点になっている。

「錆びて鞘からも抜けねえ剣なんて、何に使うんだ? 漬物石か? それとも背骨を鍛えるための修行かよ?」

「ギャハハ! 違いねえ! おいおっさん、そんなゴミ背負ってて重くねえのかよ。俺がドブ川に捨ててきてやろうか?」

 男の一人が、アルドの肩に馴れ馴れしく手をかけた。

 酒臭い息が首筋にかかる。

 アルドは深くため息をついた。

 これだ。

 いつもこうだ。

 自分が「静かに飲みたい」「誰とも関わりたくない」と願えば願うほど、なぜか騒がしい連中が寄ってくる。

 まるで、自分の苛立ちや拒絶の感情が、腐肉に群がるハエのように彼らを引き寄せているかのように。

「……触るな」

 アルドは肩を揺すり、男の手を払いのけた。

 明確な拒絶。

 だが、その態度が火に油を注ぐことは、経験上わかっていたはずだった。

 それなのに、アルドは自分を抑えられない。

「あァ? なんだその目は。死んだ魚みてぇな目しやがって……。調子乗ってんじゃねえぞ、薄汚ねえ木偶の坊が!」

 男が逆上し、腰のナイフを引き抜いた。

 周囲の客が悲鳴を上げて散開する。

 椅子が倒れ、ボトルが割れる音が響く。

 殺気。

 その瞬間、アルドの意識が切り替わった。

 泥酔しているはずの脳髄が、氷水に浸されたように冷徹になる。

 戦場で培った、忌まわしい条件反射だ。

(右。踏み込みが浅い。肩の動きで軌道が読める。素人だな)

 アルドは椅子に座ったまま、最小限の動きで上体を逸らした。

 鼻先数センチを、ナイフの刃が通過する。

 風圧が前髪を揺らす。

「なっ……!?」

 空振った勢いで、男が体勢を崩す。

 その隙だらけの脇腹へ、アルドは背中の「鉄屑」を叩き込んだ。

 抜刀ではない。

 鞘に収まったままの(つか)による、強烈な打撃だ。

 人体から発せられるとは思えない、鈍く重い音が響き、男の肋骨が軋んだ。

「ぐ、げぇっ……!?」

 男は肺の中の空気をすべて吐き出し、泡を吹いて床に転がる。

 痙攣し、白目を剥いている。

 一撃。

 剣技は衰えていない。いや、抜けない剣――十キロ近い重量物を扱い続けたことで、その膂力と体捌きは全盛期よりも洗練され、無駄が削ぎ落とされていた。

「テメェっ! やりやがったな!」

 仲間たちが一斉に武器を抜く。

 長剣、メイス、戦斧。

 殺意に満ちた怒声が酒場を揺らす。

 アルドは無言で立ち上がり、鞘に入ったままの剣を右手に握った。

 普通の剣士なら両手で構えるほどの重量。

 だが、アルドはそれを片手で、まるで指揮棒のように軽々と回した。

 風を切る音が低く唸りを上げる。

「……失せろ。俺は機嫌が悪い」

「殺せ! 袋叩きにしろ!」

 傭兵たちが殺到する。

 アルドは踏み込んだ。

 速い。

 錆びた剣が、灰色の閃光となって走る。

 硬質な金属音と、骨が砕ける不吉な音が交錯し、剣を弾き飛ばし、手首を砕き、膝の皿を割る。

 鋭利な刃物による「斬る」音ではない。

 鉄塊による「砕く」音が、連続して酒場に響き渡った。

 鞘撃ちは、斬撃よりもたちが悪い。

 骨ごと肉を挫くため、治癒魔法でも完治しにくいのだ。

 圧倒的な実力差。

 傭兵たちは一人、また一人と悲鳴を上げて床に沈んでいく。


 そして最後の一人。

 リーダー格の大男が、恐怖に顔を引きつらせながら立ちすくんでいた。

 アルドは間合いを詰める。

 錆びた剣を振り上げる。

 無防備な脳天。

 このまま振り下ろせば、兜ごと頭蓋骨を粉砕し、確実に絶命させられる。


 ――殺せ。

 ――後腐れなく、息の根を止めろ。


 戦場の記憶が蘇る。

 敵を生かせば、後で誰かが殺される。

 情けは味方を殺す毒になる。

 それがこの世界の鉄則だ。

 殺すべきだ。

 殺さなければならない。


 だが。


(……くっ!)

 インパクトの瞬間、アルドの手が止まった。

 無意識のブレーキ。

 思考よりも早く、身体の奥底が「死」を与えることを拒絶した。

 剣先がわずかに逸れ、男の肩を強打するにとどまる。

「ぎゃああああ!」

 男は肩を押さえて悲鳴を上げ、這いつくばって逃げ出した。

「ひ、ひぃぃ! 覚えてろよ! この野郎!」

 捨て台詞を残し、連中は転がるように店を出ていく。


 静寂が戻った酒場。

 アルドは、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。

 右手が震えている。

 恐怖ではない。

 自己嫌悪の震えだ。

(まただ……。また、殺せなかった)

 アルドは、赤錆に覆われた自分の剣を見つめた。

 鞘から抜けない剣。

 それはまるで、敵の命を奪うことを拒絶しているかのようだ。

 そして自分もまた、トドメを刺す瞬間に躊躇し、敵を見逃してしまう。

「……甘いな、俺は」

 アルドは自嘲した。

 英雄ならば、悪を断つことに躊躇いなど持たないはずだ。

 中途半端な暴力で相手を傷つけ、しかし殺しきれずに恨みを買う。

 これでは、ただのチンピラだ。

 錆びついているのは剣だけではない。

 自分の心そのものが、弱さと甘さで錆びつき、腐っているのだ。

「……おい、あんた」

 カウンターの奥から、店主が怯えたような目で声をかけてきた。

 暴漢を追い払ったことへの感謝の言葉ではない。

「代金はいい。……帰ってくれ。あんたがいると、また揉め事が起きる。ここはあんたのいる場所じゃない」

 アルドは苦笑した。

 当然だ。

 厄介事を引き寄せ、それを暴力で解決し、後味の悪い空気を残す。

 それが今の自分だ。

 英雄の成れの果てに相応しい末路だ。

「……ああ。悪かったな」

 アルドは背中に剣を戻し、逃げるように店を出た。

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