喧騒の日常
半年後。
旧帝都は、かつての「クリスタルシティ」と呼ばれた静寂の面影を完全に失っていた。
街路は人で溢れ、荷馬車が行き交い、市場からは威勢のいい掛け声が飛び交っている。
壊れた建物の多くは、崩壊したクリスタルパレスの瓦礫を再利用して修復され、不揃いだが力強い、独特の景観を作り出していた。
そこには、もう完璧な調和はない。
酔っ払いの喧嘩があり、商人の値切り合いがあり、子供の泣き声がある。
騒がしく、埃っぽく、そして何より「生きている」街。
「……ああもう、うるさい! 予算委員会なら昨日終わったでしょう! なんでまた蒸し返すんですか!」
王宮の執務室――かつて天空の庭園があった場所の下層フロアで、若き皇帝リウスの悲鳴が響き渡った。
机の上には、天井まで届きそうな書類の山。
リウスは髪を振り乱し、目の下にクマを作りながら、次々と持ち込まれる陳情書と格闘していた。
「仕方ないでしょう。住民が増えれば揉め事も増える。……インフラ整備の追加予算、承認印をお願いします」
隣で書類を整理しているのは、ミナだ。
彼女は官僚のような地味な服に身を包み、冷徹な手つきで業務をこなしている。
その表情は相変わらず淡々としているが、以前のような虚無感はなく、どこか生き生きとした忙しなさが漂っていた。
「ミナさん、鬼だ……。僕、もう三日も寝てないんですよ?」
「皇帝陛下が泣き言を言わない。……これが『人間の世界』というものよ」
「うう……。兄さん、助けて……」
リウスが机に突っ伏すと、背後の扉が乱暴に開かれた。
「おいリウス! 下町の警備隊から増員の要請だ。また酔っ払いが暴れてやがる」
入ってきたのは、アルドだった。
彼は騎士団長の白いマントではなく、動きやすい革鎧の上に、あの「古強者の剣」を腰に差している。
髭は剃られ、顔色は以前よりもずっと健康的だ。
その肩書きは「皇帝補佐官兼、帝都警備隊長」。
もっとも、本人は「ただの用心棒」としか名乗っていないが。
「アルド! ちょうどいいところに来てくれた! この書類仕事を……」
「断る。俺は文字を見ると蕁麻疹が出る体質でな」
アルドは即答し、窓枠に腰掛けた。
眼下には、復興が進む帝都のパノラマが広がっている。
白く輝く完璧な楽園は消えた。
代わりにそこにあるのは、雑多で、不完全で、愛おしい人間の営みだ。
「……変わったな、この街も」
「ええ。騒がしくて、汚くて、最高に非効率だわ」
ミナがペンの手を休め、アルドの隣に立った。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
「でも、退屈はしないわね」
「違いない」
アルドは腰の剣を撫でた。
鞘から抜けるようになった剣は、日々の訓練と実戦でさらに傷が増えている。
だが、その切れ味は鈍るどころか、増すばかりだ。
錆びつく暇もないほど、忙しい毎日だからだ。
「……兄さんも、この景色が見たかったのかな」
リウスが書類から顔を上げ、窓の外を見つめた。
その瞳は、もう魔王の力に頼る弱い少年のものではない。
泥にまみれ、苦悩しながらも、自分の足で立つ指導者の目だった。
「さあな。……だが、少なくとも俺は気に入ってるぜ」
アルドは笑った。
風が吹き抜ける。
かつての腐臭を含んだ風ではなく、大地の匂いと、人々の生活の熱を含んだ風だ。
「行くぞ、ミナ。……広場で揉め事だ。止めに行かないと、王国から視察に来ているガレスの奴らがうるさいからな」
「ええ。……リウス、その書類、あと一時間で終わらせておいてくださいね」
「ええええっ!?」
リウスの悲鳴を背に、二人は執務室を出て行った。
王国と帝国の国交も回復し、今は復興支援のために騎士団の一部が駐留している。
かつての副官ガレスは、相変わらず小言が多いが、背中を預けられる戦友であることに変わりはない。
廊下を歩く足取りは軽い。
背負うものは何もない。
あるのは、泥だらけの希望と、明日への活力だけ。
錆びついた過去を乗り越え、彼らの新しい日常は、今日も騒々しく続いていくのだった。




