第二十二話 優しすぎる断絶
天空の庭園には、暖かな陽光と花の香りが満ちていた。
そこは、この都市を象徴するような、外界の泥臭さとは無縁の、あまりにも清浄な空間だった。
アルドが踏みしめる芝生の感触さえ、雲の上を歩くように柔らかい。
その中心で、皇帝リウス・アークライトは、アルドたちを見て、花が綻ぶように微笑んだ。
「ようこそ、アルド。そして、ミナ。……待っていたよ」
その笑顔には、一点の曇りも、敵意もなかった。
あるのは、長い旅を経て傷ついた友人を労るような、純粋無垢な慈愛だけ。
彼は立ち上がると、アルドの方へ歩み寄ろうとしたが、アルドが剣の切っ先を向けると、悲しげに足を止めた。
「どうして剣を向けるんだい? 僕は君と戦うつもりなんてないよ」
「……どの口が言う。お前が作ったこのふざけたシステムが、俺たちの『痛み』を……俺たちが生きた証を、ゴミみたいに消そうとしたんだぞ」
アルドが唸るように言うと、リウスは困ったように眉を下げた。
「消そうとしたんじゃない。『治療』しようとしたんだ。……だって見てごらん、君たちはそんなに傷ついている。心も体もボロボロだ。見ているだけで胸が張り裂けそうだ」
リウスの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
演技ではない。
彼は本気で、アルドの泥まみれの姿を見て、心を痛めているのだ。
「兄さんは英雄だった。誰よりも優しくて、強かった。……でも、世界は彼に残酷だった。泥の中で、痛みの中で、たった一人で死なせた」
リウスの声は震えていた。
「僕は誓ったんだ。あんな悲劇は二度と起こさせないって。だから僕が『揺り籠』を作った。誰も傷つかず、誰も苦しまず、永遠に穏やかでいられる世界を」
彼は両手を広げ、眼下の白亜の都市を示した。
「ここでは誰もが幸せだ。不幸な事故も、悲しい別れも、僕がすべて取り除いてあげている。……これこそが、兄さんが守りたかった本当の平和だと思わないかい?」
「……違う」
アルドは静かに、しかし断固として首を横に振った。
「カインが守りたかったのは、ただ笑ってるだけの『停滞』じゃねぇ」
「停滞……?」
「ああ。痛みがあるからこそ、『こうなりたくない』『もっと良くしたい』って足掻く。……その『渇望』があって初めて、世界は前に進んでいくんだ」
アルドは、眼下の美しすぎる都市を見下ろした。
そこには争いも不幸もない。
だが、変化も成長もない。
ただ同じ今日が繰り返されるだけの、美しい鳥籠。
「負の感情があるから、正の感情が輝く。泥があるから、空の青さが分かる。……あいつが守りたかったのは、そんな正と負の対比に満ちた、生きる価値のある世界だ」
「でも、それでは傷ついてしまう!」
リウスが叫んだ。それは駄々っ子のような、純粋すぎるがゆえの拒絶だった。
「痛いのは嫌だろう? 辛いのは怖いだろう? なぜ、わざわざ茨の道を歩くの? ……僕が君を助けてあげる。君のその重荷を、僕が消してあげるよ」
リウスが杖を振る。
柔らかな光がアルドを包み込んだ。
攻撃ではない。癒やしの光だ。
次の瞬間、アルドの背中の剣に異変が起きた。
ボロボロと赤錆が剥がれ落ち、癒着していた鞘がひとりでに滑り落ちる。
現れたのは、白銀に輝く聖剣の刀身。
傷一つなく、鏡のように美しい、完全な姿。
それと同時に、アルドの全身を覆っていた疲労感や古傷の痛みも、嘘のように消え去った。
「どうだい? それが本来の君だ。……もう重い鉄屑を背負わなくていい。苦しい過去も、後悔も、僕が全部綺麗にしてあげるから」
リウスは手を差し伸べた。
その手を取れば、楽になれる。
この男は本気で、アルドを「救済」しようとしているのだ。
その善意は、どんな悪意よりも重く、甘美な毒となってアルドを誘惑する。
アルドは、輝く聖剣を見つめた。
軽い。
羽のように軽い。
だが、その軽さは、アルドにとって決定的な「喪失」を意味していた。
「……ふざけるな」
アルドの口から、低い声が漏れた。
「え?」
「軽いんだよ……こんな物は」
アルドは美しい聖剣を握りしめ、ギリリと歯噛みした。
その手から、拒絶の意志が伝播する。
俺が欲しいのは、こんな玩具じゃない。
あの泥沼を這いずった重みだ。
骨に響く衝撃だ。
俺を縛り付け、それでも支えてくれた、あの不格好な鉄塊だ。
「戻れ。……俺の知っている『鉄屑』に」
アルドの意志が、リウスの魔法を弾いた。
ビキリ、と音を立てて、鏡のような刀身に亀裂が走る。
そこから溢れ出したのは、光ではなく、赤黒い錆だった。
錆は瞬く間に広がり、刀身を覆い尽くし、落ちていた鞘を吸い寄せて再び癒着した。
硬い音がして、聖剣は一瞬にして元の「動かない鉄塊」へと戻った。
「な……ッ!?」
リウスが目を見開く。
信じられないものを見る目だった。
自らの意思で、清浄を拒み、汚れを選び取った人間に初めて出会ったのだ。
「お前に何が分かる……。錆び付いたこの剣はな……俺のこの十年の生き様そのものなんだよッ!」
アルドは錆びた鉄塊を肩に担ぎ、リウスを睨みつけた。
「英雄と祭り上げられて、中身のない人形のように笑っていた五年間! 剣が抜けなくなり、泥水を啜って這いつくばった五年間! その全部が、俺なんだ!」
その目は、かつての英雄の澄んだ瞳ではない。
多くの後悔と挫折を知り、それでも前を向こうとする、人間の瞳だった。
「傷つくことも、汚れることも、全部ひっくるめて俺の人生だ! ……それを簡単に否定されてたまるかッ!」
リウスの表情が曇った。
彼は深く、悲しそうにため息をついた。
「……そうか。君は病気なんだね、アルド」
リウスの瞳から光が消え、底知れぬ決意が宿る。
それは、暴れる患者を押さえつけようとする医師の目だった。
「痛みを愛するなんて、正常じゃない。……君は壊れている。だから、僕が治してあげなきゃいけない。たとえ君が嫌がっても、無理やりにでも」
空間が歪む。
庭園の美しい花々が、一斉に巨大な白い茨へと変わった。
優しさが、強制力を持った檻へと変貌する。
「抵抗しないで。……痛くはないから。ただ、静かな眠りにつくだけだよ」
リウスの背後から、まばゆい光の翼が現れる。
それは神々しく、そして絶対的な「善意の暴力」だった。
「来るぞミナ! ……過保護な神様にお引取り願おうぜ!」
「ええ。……彼の目を覚まさせましょう」
アルドとミナは武器を構えた。
優しすぎる断絶。
分かり合えない善意同士の、悲しい戦いが幕を開けた。




