第二十一話 水晶の塔
都市の中央に聳え立つ『クリスタルパレス』は、近くで見上げると、その異様さがいっそう際立っていた。
それは城というよりは、大地に突き刺さった巨大な水晶の槍だった。
継ぎ目のない半透明の建材で構成されたその塔は、太陽の光を内部に取り込み、内側から発光しているかのように白く輝いている。
あまりにも高く、あまりにも鋭い。
人間が住むための場所ではなく、何らかの巨大な機能を持った「装置」そのものに見えた。
「……入口は、あそこか」
アルドは塔の基部にぽっかりと開いた、巨大なアーチ状のゲートを見据えた。
扉はない。
驚くべきことに、衛兵の姿もなかった。
王宮のような厳重な警備を予想していたアルドは、拍子抜けすると同時に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
広場を行き交う市民たちは、泥だらけのアルドたちを見ても、悲鳴を上げることも、衛兵を呼ぶこともしない。
ただ、穏やかに通り過ぎていくだけだ。
そこには、侵入者を警戒するという概念そのものが存在しなかった。
「……誰も止めないのか」
「ええ。止める必要がないのよ」
ミナが前を歩き出す。
「この塔自体が、巨大な『システム』の一部。……中に入れば、嫌でも歓迎されるわ」
白い光が溢れ出すその開口部は、訪れる者すべてを拒まず、優しく飲み込もうとする深海魚の口のようだった。
アルドは舌打ちをし、背中の剣の位置を直した。
無視されるというのは、罵倒されるよりも遥かに居心地が悪い。
怒りすらぶつける壁がない。暖簾に腕押しどころか、底なし沼に石を投げ込んでいるような感覚だ。
「行くぞ。……ここにいたら、頭がおかしくなる」
アルドは逃げるように足を速めた。
背中の剣が、ガン、ガン、と背骨を叩く。
その硬質で無骨な痛みだけが、彼がまだ「まとも」であることを保証してくれていた。
◇
ゲートをくぐり、塔の内部へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外の生暖かく湿った空気とは違う、極限まで濾過された無菌室のような冷気。
静かだった。
外の喧騒が、まるで切り取られたかのように消滅している。
広大なエントランスホールは、床も壁も天井も、すべてが乳白色のクリスタルで覆われていた。
警報も鳴らない。警備兵も現れない。
ただ、圧倒的な静寂だけがそこにあった。
「……罠か?」
アルドは剣の柄に手をかけ、周囲を警戒した。
だが、殺気のかけらすらない。
「いいえ。……『招かれている』のよ」
ミナが中央を見上げた。
ホールの中心には、遥か上空へと続く長大な螺旋階段があり、その真ん中を、太いガラス管のような柱が貫いていた。
その柱の中を、無数の「光」が昇っていく。
ホタルのような、あるいは星屑のような、美しい金色の粒子たち。
「あれが、『思考の回廊』。市民たちから抽出された『思考』や『感情』が、あそこを通って上層へ吸い上げられていく」
「あいつらの笑顔を吸い上げて、どこへ持って行くんだ」
「皇帝の玉座、そこにある『願望機』へ。……そのエネルギーが、この都市を維持する燃料になる」
アルドは吐き捨てるように笑った。
ふざけたエコシステムだ。
二人は螺旋階段に足をかけた。
カツン、という足音が、静寂なホールに大きく反響する。
阻む者は誰もいない。
ただひたすらに、長い階段を登り続けるだけの時間が始まった。
◇
登るにつれて、柱の中の「流れ」がより鮮明に見えてきた。
アルドは足を止め、ガラス管の中を凝視した。
上へと昇っていく金色の光。
だが、それだけではない。
よく見れば、光の粒子の隙間から、ドロリとした黒い液体のようなものが分離され、下へ下へと滴り落ちていたのだ。
まるで、原油から不純物を濾し取るように。
「……なんだ、あのアスファルトみたいなのは」
「『澱』よ」
ミナが冷ややかに言った。
「抽出された思考や感情の中から選別された、恐怖、嫉妬、憎悪、悲哀。……そういったネガティブなもの。心の廃棄物」
「……あれが、下へ落ちていく先は」
「地下通路を通って、都市の外へ。……私たちが通り抜けてきた、あの結界の正体がこれよ」
アルドは戦慄した。
この塔は、ただの象徴ではない。
巨大な「濾過装置」だ。
人々の心から綺麗なものだけを吸い上げ、汚いものを下水のように垂れ流す。
そのポンプの役割を果たしているのが、この美しすぎるクリスタルパレスなのだ。
「……吐き気がするな」
アルドは柱から目を逸らし、再び歩き出した。
この塔の白さは、清廉潔白の白ではない。
汚れをすべて他所に押し付けることで保たれている、潔癖症の狂気の色だ。
やがて、階段が途切れた。
塔の最上階。
そこには、一枚の巨大な両開きの扉があった。
純白の扉には、黄金の装飾で、精巧な「天秤」の絵が描かれている。
傾きのない、完全に水平な天秤。
絶対的な公平と、停滞の象徴。
「……この奥ね」
ミナが短剣を抜き、身構える。
アルドも呼吸を整え、背中の剣に手をかけた。
ここまで、敵はいなかった。
罠もなかった。
だが、この扉の向こうにいる存在こそが、この狂った世界の心臓部だ。
アルドが扉に手をかけようとした、その時。
重厚な音を立てて、扉がひとりでに開き始めた。
招かれている。
あるいは、「入るなら入れ」という、絶対強者の余裕か。
開かれた扉の隙間から、眩い光と共に、心地よい花の香りが漂ってきた。
「……行くぞ」
アルドは剣を手に持ち、鞘ごと肩に担いだ。
錆びた鉄塊。
この美しすぎる世界に持ち込むには、あまりに無骨で汚い凶器。
だが、それこそが今の彼らに必要な「入場券」だった。
二人は、光の中へと足を踏み入れた。
皇帝の間。
そこは、塔の頂上とは思えないほど広大な、天空の庭園だった。
壁も天井もなく、ただ青空だけが広がっている。
色とりどりの花が咲き乱れ、小川がせせらぎ、蝶が舞う。
その庭園の中央に、純白のテーブルと椅子が置かれていた。
ティーセットが並び、湯気が立っている。
そして、そこに一人の青年が座っていた。
透き通るような金髪。
陶磁器のように白い肌。
その顔立ちは、アルドの記憶にある親友、カイン・アークライトと瓜二つだった。
だが、決定的に違うものが一つある。
その瞳だ。
カインの瞳は、太陽のような熱い琥珀色だった。
だが、目の前の青年の瞳は、深海のような、底知れぬ蒼色をしていた。
「ようこそ」
青年――皇帝は、ティーカップを置き、アルドたちを見て微笑んだ。
その笑顔には、敵意も警戒もなかった。
ただ、久しぶりに訪れた友人を歓迎するかのような、無垢で残酷な親愛だけがあった。
「待ちくたびれたよ、アルド。……そして、おかえり。僕の可愛い『異物』、ミナ」
アルドは足を止めた。
剣を握る手に力がこもる。
ついに辿り着いた。
この楽園の創造主。
すべての元凶。
「……茶を飲みに来たわけじゃない」
アルドは低い声で告げた。
泥だらけの靴で、美しい芝生を踏み荒らしながら、彼は皇帝の御前へと歩み寄る。
「このふざけた夢から、叩き起こしに来てやったぜ」
皇帝は楽しそうに目を細めた。
青空の下、錆びた剣を持った元英雄と、微笑む絶対者が対峙する。
最初で最後の謁見が、今、始まった。




