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第二十話 完璧な楽園

 そこは、あまりにも白く、そして静かだった。

 廃墟だと思われていた帝都、その実、見事な復興を成し遂げていたその都市は、アルドの知るどんな都市とも似ていなかった。

 道には塵一つ落ちておらず、磨き上げられた白石が鏡のように空を映している。

 建物はどれも優美な曲線を描き、窓辺には色鮮やかな花々が咲き乱れている。

 行き交う人々は、誰もが清潔な服を身にまとい、穏やかな笑みを浮かべていた。

 怒鳴り声も、泣き声も、物乞いの姿もない。

 そこにあるのは、完璧に調律された楽器のような、調和のとれた「幸福」だけだった。

「……気持ちが悪いな」

 アルドは、街路樹の木陰に身を潜めながら、低い声で吐き捨てた。

 彼らがこの都市に足を踏み入れてから数刻。

 警備兵に咎められることも、住民に怪しまれることもなかった。

 泥まみれの服に、錆びた剣を背負った異様な二人組。

 王都の貴族街であれば、汚物を見るような目で避けられ、衛兵に通報されていただろう。

 だが、ここの住人たちは違う。

 アルドたちを見ても、彼らはただニコリと微笑み、まるで「そういう格好をした隣人」であるかのように、自然に道を譲ってくれるのだ。

「なぜだ? 俺たちはどう見ても不審者だぞ。……なんで誰も警戒しない?」

 アルドの問いに、隣を歩くミナが淡々と答えた。

「『警戒』というのは、悪いことが起きるかもしれないという予測……つまり『ネガティブな思考』から生まれる行動よ。……彼らには、それができないの」

「できない?」

「ええ。彼らの辞書に『疑う』とか『危険』という概念はないわ。だから、私たちを見ても『変わった旅人だ』と好意的に解釈するしかない。……皇帝の『願望機』によって、そう矯正されているから」

 ミナの言葉に、アルドは背筋が寒くなるのを感じた。

 性善説などという生易しいものではない。

 危機管理能力そのものが去勢されているのだ。


 ふと、アルドは通りの向こうを見た。

 小さな子供が、手毬を追いかけて車道に飛び出した。

 そこへ、一台の馬車が結構な速度で近づいてくる。

「おいッ!」

 アルドは叫び、飛び出しそうになった。

 だが、ミナがその腕を掴んで止めた。

「見て」

 彼女の視線の先で、奇跡のような光景が起きた。

 馬車の車輪が、何もない平坦な道でわずかに跳ね、その反動で馬車が自然に軌道を変えたのだ。

 子供の鼻先数センチを、車体が掠めていく。

 子供は驚きもせず、転がった手毬を拾って笑い、御者もまた、スピードを緩めることなく、子供に手を振って通り過ぎていった。

 冷や汗をかいているのは、アルドだけだった。

「……なんだ、今のは」

「この都市の住人は、ネガティブな思考を持たない。事故が起きるかも、轢かれるかも、というイメージを一切抱かない。……だから、事故は起きない。悲劇は回避される」

 ミナは静かに言った。

「馬鹿な……。そんな偶然が」

「偶然じゃない。皇帝の『願望機』が作り出したシステムよ。……ここでは、不幸な出来事は物理的に『発生しない』ようになっている」

 アルドは呆然と立ち尽くした。

 怪我もしない。

 病気にもならない。

 争いも起きない。

 それは、誰もが夢見る理想郷のはずだ。

 だが、なぜだろう。

 目の前で笑っている子供の顔が、アルドには精巧に作られた人形のようにしか見えなかった。


 その時、通りの向こうから、美しい旋律が聞こえてきた。

 ハープとフルートの音色。

 白い花びらが舞う中、一団の行列が近づいてくる。

 全員が純白の衣装を身にまとい、手には花束を持っている。

 先頭を行くのは、豪奢な装飾が施された台車だ。

「……祭りか?」

 アルドが眉をひそめる。

 行列の人々は、誰もが微笑みを浮かべていた。

 互いに肩を抱き合い、談笑し、実に幸せそうだ。

 だが、台車の上に載せられているものを見た瞬間、アルドの思考が凍りついた。

 棺桶だった。

 蓋はなく、中には一人の老婆が横たわっている。

 その顔は蝋のように白く、動かない。

 死体だ。

「……葬式、なのか? これが?」

 アルドの声が震えた。

 死人を送る列だというのに、泣いている者が一人もいない。

 それどころか、遺族と思われる男女でさえ、穏やかな笑顔で棺に花を添えている。

 アルドは堪えきれず、沿道で見送っていた男に声をかけた。

「おい、あんた。……あれは誰だ?」

 男はアルドを見て、屈託のない笑顔で答えた。

「ああ、隣の家のマリアさんだよ。今朝、寿命を全うされたんだ」

「……悲しくないのか?」

 アルドが問うと、男はきょとんとして首を傾げた。

「悲しい? どうしてだい? 彼女は素晴らしい人生を送って、安らかに旅立ったんだ。祝福すべきことじゃないか」

 男の瞳には、一点の曇りもなかった。

 強がりでも、痩せ我慢でもない。

 本当に、「悲しみ」という感情の意味が理解できていないのだ。

 アルドは言葉を失った。

 二度と会えない喪失感。

 死への恐怖。

 残された者の孤独。

 それら全てが、きれいに切除されている。

 棺の中の老婆も、見送る人々も、まるで壊れた時計を廃棄するように、死をただの「現象」として処理している。

「……これが、皇帝の作った平和か」

 アルドは、通り過ぎていく笑顔の行列を見つめながら、拳を握りしめた。

 爪が食い込む痛みが、唯一の現実だった。

 王都の喧騒を思い出す。

 泥をかけられて怒り狂った自分。

 宿で喧嘩していた夫婦。

 物乞いの少年の、飢えた目。

 あれらは全て、不快で、醜くて、非効率なものだったかもしれない。

 だが、そこには「痛み」があった。「悲しみ」や「苦しみ」があった。

 「幸せ」のすぐ隣に、吐き捨てたくなるような「不幸」も存在していた。

 そうした正と負の対比(コントラスト)があるからこそ、世界はあんなにも多様性に満ち、生きる価値があるものになっていたのではないか?

 「こうなりたくない」「もっと良くしたい」という渇望があるからこそ、世界は停滞せずに発展していくのではないか?

「……こんなの、人間じゃない」

 アルドの口から、無意識に言葉が漏れた。

「ただの、笑う家畜だ」

 その言葉を聞いて、ミナが静かに頷いた。

「そうよ。……ネガティブな思考を奪われ、危険を予知する能力を失い。負の感情を奪われ、悲しむ心すら失った。……それが、この楽園の住人たち」

 ミナは葬列から視線を外し、都市を覆う空を見上げた。

 そこには、恐ろしいほど澄み渡った青空が広がっている。

 だが、その青空の向こう側には、アルドたちが命からがら抜け出してきた、あの赤黒い呪いの嵐が吹き荒れているはずだ。

「ねえ、アルド。……あの結界の『正体』が、今なら分かるでしょう?」

「……正体だと?」

「ええ。一度壊滅に瀕した都市、そこにあるはずだった『負の思考』や『負の感情』は、消滅したわけじゃない。住人たちから抽出され、都市の外へ強制排出されたの」

 アルドは息を呑んだ。

 あの、吐き気を催す腐臭。

 脳を直接犯すような、怨嗟の声。

 あれは、魔力による防壁などではなかった。

「あれは……ゴミ捨て場だったのか」

「そう。この美しい都市の排泄物。……住人たちが笑っていられるのは、自分たちの心の汚物を、全て外の世界へ垂れ流しているからよ」

 アルドは戦慄した。

 この楽園は、文字通り「呪い」の上に成り立っている。

 外の世界を地獄に変えることで、内側の天国を維持しているのだ。

「……どうして、そんなことを知っている」

 アルドはミナに向き直った。

 彼女の知識は、一介の市民が知り得るレベルを超えている。

 システムの構造、結界の正体、そして皇帝の狙い。

「お前は、何者だ?」

 ミナは逃げなかった。

 その銀色の瞳で、アルドを真っ直ぐに見つめ返した。

 だが、その表情には、先ほどまでの冷徹さはなく、迷子の子供のような脆さが浮かんでいた。

「……私は、この都市の『異物(エラー)』よ」

異物(エラー)……?」

「そう。この完璧な楽園で、たった一人だけ『痛み』を忘れることができなかった人間」

 彼女は服の襟元から、古びた銀色のペンダントを引き出した。

 そこには、双頭の鷲を象った黄金の紋章が刻まれている。

 ミナと初めて会った時に見せられたものだ。

「それは……」

「英雄カイン・アークライトの紋章よ」

 ミナはそのペンダントを、祈るように強く握りしめた。

「あの大戦の終わり……私は十五歳で、燃え盛る戦場にいたわ。そこで見たのは、伝説にあるような光に包まれた英雄の姿じゃなかった。泥と血にまみれ、片腕を失い、それでも誰かを守ろうとして息絶える、一人の人間の最期だった」

 彼女の声が震える。

「彼は死の間際、これを私に託したの。『忘れないでくれ』と言って」

 直後、皇帝による世界改変が始まった。

 人々の心から「痛み」が取り除かれ、幸福な記憶だけが増幅されていく慈悲深き洗脳。

 だが、ミナだけは違った。

「このペンダントが、熱を帯びて私を守ったの。カイン様の無念が、残留思念が、私の心を『塗り替え』から弾いた」

「……弾いた?」

「ええ。誰もが戦争の悲惨さを忘れ、家族を失った悲しみさえ忘れて笑っている中で……私だけが、焼けた故郷の臭いも、死にゆく人々の悲鳴も、全部鮮明に覚えてしまっている」

 彼女は、強制された幸福に満ちた世界で、たった一人、まともな感性を維持し続けてしまったのだ。

 それは、終わらない孤独な地獄だったろう。

「システムは私を『異物(バグ)』と認定したわ。……そして『処分(デリート)』が決まった。だから、逃げ出したの。この街が、英雄や数多くの兵士の犠牲と痛みを忘却して成り立っている、偽りの楽園だということを、私だけは知っているから」

 アルドは短く息を吐いた。

 彼女がなぜ、あんなにも「人間臭い」ノイズに固執していたのか。

 なぜ、泥水を啜ってでも生きたいと願ったのか。

 彼女は、カインから託された「痛み」という名の人間性を、たった一人で守り続けてきたのだ。

(……ふざけるな)

 アルドの腹の底から、熱い怒りが湧き上がってきた。

 俺たちの痛みは、誰にも消させはしない。

 たとえ錆びたままでも、泥にまみれても、これが俺たちの生きた証だ。

 それを勝手に「なかったこと」にされてたまるか。

「行くぞ、ミナ」

 アルドは葬列に背を向け、都市の中央に聳える巨大な塔――クリスタルパレスを見据えた。

「そのふざけた『願望機』とやらをぶっ壊して、この街に『悲鳴』を取り戻してやる」

 それは、英雄としての正義感ではなかった。

 自分の存在意義をかけた、エゴの塊のような決意。

 だが、その瞳に宿る光は、あの「英雄広場」の銅像よりも遥かに鋭く、そして人間らしかった。

「ええ。……案内するわ」

 ミナが前を歩き出す。

 その胸元で、銀色のペンダントが微かに揺れた。

 笑顔の牢獄を壊すため、錆びた剣を持った「異物」たちが、今、皇帝の玉座へと歩を進める。

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