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第十九話 呪われた境界

 夜が明け、アルドとミナは再び歩き出した。

 『嘆きの関所』を越えてから続く荒野。

 だが、進むにつれて周囲の空気は重く、粘り気を帯びていった。

 視界を覆う紫色の(もや)は、もはや霧などという生易しいものではなく、一歩進むごとに濃密になり、物理的な圧迫感すら伴い始めていた。

「……おい、なんだこれは」

 アルドは口元をスカーフで覆い、顔をしかめた。

 臭い。

 腐敗臭とも、鉄錆の臭いとも違う。

 もっと生理的な、脳の奥底を直接指で撫で回されるような不快な臭気が、鼻腔の奥にこびりつく。

 ただ立っているだけで、理由のない不安と焦燥が胸を締め付けてくる。

「……相変わらず、酷い淀みね」

 隣を歩くミナの表情も険しい。

 彼女は前方の空間を睨み据えた。

 そこには、世界を分断するように、赤黒く渦巻く巨大な「壁」が聳え立っていた。

 物理的な壁ではない。

 高密度の魔力が嵐のように吹き荒れ、空間そのものがねじ曲がっている境界線だ。

「私が逃げ出した時より、さらに濃度が増している気がするわ。……あれが、帝都を守る防壁よ」

 ミナが足を止め、警告するように言った。

「アルド、覚悟して。……ここから先は、地獄よ」

「地獄? 死体の転がる戦場を散々見てきたんだ。今更驚きはしねぇよ」

 アルドが軽口で返すと、ミナは真剣な眼差しで首を横に振った。

「いいえ、物理的な地獄じゃないわ。……あれは『呪い』の集積体よ」

「呪い……?」

「この先に進もうとする者を拒絶し、精神を破壊するための防衛システム。……その濃度は、王都の魔術師たちが張る結界の比じゃない。正気でいられる保証はないわ」

 ミナは壁の正体について、それ以上詳しくは語らなかった。

 ただ、その瞳には、忌まわしいものを見るような嫌悪感が漂っている。

 アルドは目の前の赤黒い渦を見つめた。

 耳を澄ますと、風の音に混じって、何千、何万という人々の呻き声のような音が聞こえる気がする。

 本能が警鐘を鳴らしている。

 近づくな。

 逃げろ。

 あれは生き物が触れていいものではない。

「普通の人間の精神なら、触れた瞬間に崩壊するわ。脳が焼き切れ、発狂死するのがオチよ」

「……随分と物騒なセキュリティだな」

「最強の盾よ。誰も好んで、精神汚染の嵐の中に飛び込もうとはしないでしょう?」

 ミナはアルドを見上げた。

「私はこのシステムにとって『異物』であり『一部』でもあるから平気だけど、あなたは違う。……引き返すなら、ここが最後よ」

 引き返す。

 その言葉が甘美な誘惑として響く。

 後ろを見れば、来た道がある。

 関所に戻り、王都へ帰り、また泥沼のような日々に戻ることもできる。

 だが、アルドの足は動かなかった。

 背中の剣が、ズシリと重みを主張する。

 逃げるのか?

 また、背を向けるのか?

「……ご免だね」

 アルドは口元を歪めて笑った。

 強がり半分、意地半分。

「ここまで来ておめおめと帰ったら、ガレスの奴に一生笑われる。それに……俺は性根が曲がってるんでね。行くなと言われると、行きたくなるんだよ」

「……そう」

 ミナは小さく息を吐き、前を向いた。

「なら、離れないで。……行くわよ」

 二人は、赤黒い嵐の中へと足を踏み入れた。


 ◇


 一歩踏み込んだ瞬間、アルドの頭に衝撃が走った。

 殴られたのではない。

 脳髄に直接、灼熱した鉄串を突き刺されたような激痛。

 視界が明滅し、平衡感覚が消し飛ぶ。

 アルドはたまらず膝をつき、地面に嘔吐した。

 だが、胃の中身を全て吐き出しても、苦痛は消えない。

 外から、中から、津波のような「感情の濁流」が流れ込んでくる。

『死にたくない死にたくない死にたくない』

『許さない、あいつだけは、殺してやる』

『私が何をしたっていうの? なんで私だけが』

『寂しい、誰か、誰か助けて』

『痛い痛い痛い熱い苦しい寒い暗い』

 声。

 無数の声。

 男の怒号、女の悲鳴、子供の泣き声、老人の怨嗟。

 それらが混ざり合い、意味を成さない巨大なノイズとなって脳を破壊しにかかる。

 幻聴ではない。

 これは、かつて誰かが抱いた、生の感情の残骸だ。

 だが、これほど膨大な量の「負の感情」が、一体どこから湧いてくるというのか?

 戦死者の霊か?

 それとも、この土地そのものが狂っているのか?

「ぐあぁぁぁ……ッ!」

 アルドは頭を抱え、泥の上を転げ回った。

 自分の感情と、流れ込んでくる他人の感情の境界が溶けていく。

 理由のない殺意が湧き上がり、次の瞬間には底なしの絶望に突き落とされ、直後には身を引き裂くような嫉妬に焼かれる。

 心が千切れる。

 自我が摩耗し、巨大な悪意の海に飲み込まれていく。

(死ぬ……壊れる……!)

 視界の端で、ミナが立っているのが見えた。

 彼女は平気な顔で嵐の中に佇んでいる。

 やはり、彼女はこの呪いの影響を受けないのだ。

 彼女が何かを叫んでいるが、ノイズにかき消されて聞こえない。

 楽になりたい。

 意識を手放してしまえば、この苦痛から解放される。

 もう、自分という存在が消えてなくなってもいい。

 アルドの意識が、暗い水底へと沈もうとした、その時。


 背後で何かが弾けた。

「……!?」

 背負った剣が、震えている。

 アルドは這いつくばったまま、その熱を感じた。

 いや、熱だけではない。

 背中越しに、強烈な光が漏れ出しているのを感じる。

(何だ……?)

 アルドは無意識に、背中の留め具に手をかけた。

 震える指でベルトを外し、その鉄塊を引きずり下ろす。

 ガツン、と錆びた剣が地面に落ちた。

 その瞬間。

「……な、んだ……これ……は」

 アルドは目を見開いた。

 泥にまみれた鉄塊。

 赤錆に覆われ、鞘と刀身が癒着した醜い棒。

 だが、その錆の亀裂の奥から、目も眩むような蒼白い光が噴き出していたのだ。

 それは松明の炎のような揺らぎのある赤色ではない。

 夜明けの空をそのまま切り取ったような、透き通った蒼白。

 光はアルドの足元を照らし、周囲にまとわりつく黒い霧をジリジリと焼き払っていた。

(光って……いるのか? こんな鉄屑が)

 かつて『暁の光』と呼ばれた聖剣。

 五年間、沈黙し、朽ち果てるに任せていた鉄塊。

 それが今、主人の危機に呼応するかのように、錆の隙間から輝きを放ち始めたのだ。

 温かい。

 光に触れた指先から、凍え切った心に熱が戻ってくる。

 それは痛みを伴う熱さではなく、迷子になった子供が家の灯りを見つけた時のような、安堵と勇気を与える熱だった。

(……立てって、言うのかよ)

 アルドは剣の柄を掴んだ。

 まだ熱を持っている。

 まるで生きているかのように脈打つ鼓動が、掌を通して伝わってくる。

 アルドは歯を食いしばり、その剣を――いや、鉄の棒を、杖のように地面に突き立てた。

 硬い音が響き、蒼い光が波紋のように広がる。

「……う、おおおおおッ!」

 アルドは咆哮し、剣を支えにして無理やり身体を起こした。

 全身から脂汗が噴き出し、血管が浮き上がる。

 だが、立てた。

 この錆びついた剣が、倒れそうになる身体を物理的に支え、その光が精神を支えてくれている。

「……道が、見える」

 アルドは呟いた。

 突き立てた剣の先から、線状に光が伸びている。

 その光の射す場所だけ、呪いの嵐が切り裂かれ、一本の道となっていた。

「……賭けは、私の勝ちね」

 ミナが、安堵と畏怖が入り混じった眼差しでアルドを見つめていた。

 彼女はアルドが立ち上がるのを待っていたのだ。

「この濃度の呪詛を浴びて、自我を保てる人間なんていない。……あなたと、その『光』以外には」

「……買い被るな。ただの、往生際の悪いおっさんと……懐中電灯だ」

 アルドは血の混じった唾を吐き捨て、杖代わりの剣を地面から引き抜き、また一歩先へ突き立てた。

 ガツン。

 そのたびに光が闇を穿つ。

 一歩進むたびに、魂を削られるような消耗。

 見えない手が、足首を掴み、服を引っ張る感覚がある。

 『行くな』

 『戻れ』

 『こっちへ来い』。

 嵐が意思を持って、アルドを排除しようとしている。

 だが、アルドは剣に体重を預け、泥の中を這うように、しかし確実に前へと進んでいく。

 一歩。

 そしてまた一歩。

 髪は振り乱れ、目は血走り、その姿は薄汚れた老人のようだ。

 だが、その手にある剣から放たれる光だけは、神々しいまでに純粋だった。

 ミナは何も言わず、アルドの背中を追った。

 光の道を行くアルドの後ろ姿は、彼女の記憶にある華やかな「英雄」の姿とは程遠い、泥臭く無様なものだった。

 けれど、その光は、偽りのない本物の希望に見えた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 数分か、数時間か、あるいは数日か。

 時間の感覚すら曖昧になる苦痛の行軍。

 アルドの体力は限界を超え、精神も磨り減り、ただ「光の差す方へ」剣を突き立てることだけを繰り返していた。

(まだだ……まだ、光は消えてねえ……!)

 足がもつれる。

 視界が暗転する。

 倒れそうになった、その時。


 不意に、風が変わった。

 腐臭と怨嗟の嵐が、フッと途切れた。

 まるでナイフで切り取ったかのように、唐突な静寂が訪れた。

 杖代わりの剣から放たれていた光も、役目を終えたかのようにフッと消えた。

 代わりに鼻腔をくすぐったのは、信じられないほど爽やかな、清浄な空気の香りだった。

「……え?」

 アルドは顔を上げた。

 最後の一歩を踏み出していたらしい。

 赤黒い霧が、背後で壁のように途切れている。

 目の前に広がっていたのは、圧倒的な「青と白」だった。

 雲ひとつない青空。

 降り注ぐ柔らかな陽光。

 そして、眼下に広がる白亜の都市。

「……は、はは」

 アルドは乾いた笑い声を漏らし、そのまま大の字に倒れ込んだ。

 手にはまだ、剣が握られている。

 光は消え、また元の赤錆びた鉄塊に戻っている。

 だが、今のアルドには、それがただの鉄屑ではないことが分かっていた。

 こいつが、俺を連れてきてくれたのだ。

「到着よ」

 ミナがアルドを覗き込む。

 その背後には、傷一つない美しい建物群と、虹色に輝くクリスタルパレスが聳え立っていた。

「ここが、地獄の蓋の裏側。……皇帝の作り上げた楽園よ」

 アルドは倒れたまま、空を見上げた。

 綺麗だ。

 吐き気がするほど、綺麗だ。

 あんなおぞましい呪いの壁に守られた場所に、こんな無垢な空が広がっているなんて。

 そのコントラストの残酷さに、アルドは戦慄した。

 あれほどの呪いを外側に垂れ流してまで守りたかったものが、この景色なのか。

 あの壁の正体は分からない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 この美しさは、まともではない。

 何かが根本的に狂っている。


 アルドは震える手で剣の柄を握りしめた。

 まだ、終わっていない。

 いや、本当の戦いは、ここから始まるのだ。

 美しい青空の下、満身創痍の男と、無表情な女が佇む。

 沈黙の楽園(ユートピア)が、静かに二人を迎え入れようとしていた。

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