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第十八話 東の関所

 王都ルミナスの東門をくぐり、街道をひたすらに東へと進むこと三日。

 風景は劇的な変貌を遂げていた。

 豊かだった穀倉地帯の緑は徐々に色褪せ、乾いた赤土の大地へと侵食されていく。

 道を行き交う商人の馬車や旅人の姿は完全に途絶え、代わりに目立つのは、風化した石碑や、半ば砂に埋もれた古い道標だけとなった。

 空の色さえも違う。

 王都の風は人々の生活の熱を運んでいたが、ここを吹き抜ける風は、冷たく、そして古い灰の臭いを孕んでいる。

「……見えてきたな」

 アルドが足を止め、目を細めた。

 荒涼とした大地の果て、視界を塞ぐようにして、黒々とした巨大な影が横たわっている。

 『絶望山脈』。

 大陸を南北に分断し、雲を突き抜けるほどの高さで聳え立つ、天然の要害だ。

 万年雪を戴く峰々は剃刀のように鋭く、その斜面は垂直に近い崖となって連なっている。

 人の足はおろか、鳥さえも越えることを拒むような、圧倒的な大自然の壁。

 その山脈が唯一、斧で叩き割られたように途切れている場所があった。

 二つの切り立った断崖絶壁の間。

 そこに、巨大な石造りの障壁が鎮座している。

 『嘆きの関所』。

 王国領と、旧帝国領――現在は『魔導汚染区域』として封鎖されている東方地域とを隔てる、唯一の出入り口だ。

 高さ三十メートルに及ぶ灰色の壁は、山脈の一部となって隙間を埋め尽くし、向こう側にある「何か」を封じ込めるための巨大な墓石のように見えた。

「十年前、俺たちは、帝都の奪還のため、あそこから出撃したんだ」

 アルドは乾いた声で言った。

 記憶が蘇る。

 あの時は、数万の連合軍が関所を埋め尽くし、勝利を信じて歓声を上げていた。

 カインがいて、仲間たちがいて、希望があった。

 だが、帰ってきたのは、傷つき、泥にまみれた僅かな敗残兵と、心の一部を失った自分だけだった。

「……行きましょう。感傷に浸っている時間はないわ」

 ミナが淡々と促す。

 彼女は聳え立つ絶望山脈の頂を見上げ、何かを確認するように目を細めたが、すぐに視線を戻した。

 彼女が以前、「脱出した」と言っていたのは、まさかあの氷壁を越えてきたのだろうか。

 だとしたら、それは人間の業ではない。

 アルドは小さく首を振り、余計な推測を振り払うように歩き出した。


 関所に近づくと、その威圧感に圧倒される。

 壁の上には無数のバリスタ(大型弩砲)が東に向けて設置され、常時数十人の兵士が監視の目を光らせている。

 門の前には、立ち入りを拒否されたのだろう、数人の冒険者風の男たちが衛兵に食い下がっている姿があった。

「頼むよ! 調査依頼を受けてるんだ!」

「駄目だと言っている。許可証のない者は通せん。帰りな!」

 衛兵が槍の柄で男たちを押し返している。

 両脇を険しい山脈に挟まれたこの場所は、単なる国境ではない。生者の領域と、死者の領域を物理的に分断するボトルネックなのだ。

 アルドたちが近づくと、衛兵たちの視線が一斉に向けられた。

 その鋭い眼光には、不審者への警戒だけでなく、この場所に近づく者に対する「狂人を見るような軽蔑」が含まれていた。

「おい、そこの二人。それ以上進むな」

 衛兵隊長らしき男が、手を挙げて制止した。

 歴戦の兵士のような風貌をした、厳格そうな男だ。

「この先は立入禁止区域だ。物好きな冒険者が遊びに来る場所ではない」

「遊びに来たわけじゃない。通してくれ」

 アルドが短く答えると、隊長は鼻を鳴らした。

「皆そう言う。一攫千金を夢見て、旧帝都の遺物を漁ろうとする墓荒らしか、自分の力を試したい命知らずか。……だがな、ここを通った奴で、まともな姿で帰ってきた奴はいないんだ」

 隊長の言葉には、確かな重みがあった。

 彼らはここ数年、戻らぬ者たちを数え続けてきたのだろう。

「死にたくなければ、王都へ戻ってママの乳でも吸っているんだな」

 部下の衛兵たちが下卑た笑い声を上げる。

 アルドは無言のまま懐に手を入れ、一枚の羊皮紙を取り出した。

 ガレスから投げ渡された、あの通行許可証だ。

 泥と靴跡で汚れているが、そこに押された『王国騎士団長』の印章は、鮮烈な赤色を保っている。

「……これを見ろ」

 アルドが許可証を差し出すと、隊長は面倒くさそうにそれを受け取った。

 だが、羊皮紙を開き、その印章を見た瞬間、隊長の顔色が蒼白に変わった。

 笑っていた部下たちも、隊長の異変に気づき、静まり返る。

「き、騎士団長の……直筆署名だと……?」

 隊長の手が震えた。

 偽造を疑う余地はない。そこには騎士団独自の魔力印が込められており、微かな光を放っているからだ。

 隊長は恐る恐るアルドの顔を見上げ、そして背中の錆びた剣に視線を走らせた。

 何かを察したように、喉を鳴らす。

「……まさか、あなたは」

「名は名乗らん。通してくれればそれでいい」

 アルドが低い声で遮ると、隊長は直立不動の姿勢を取り、部下たちに怒号を飛ばした。

「開門ッ! 特別許可証をお持ちだ! 直ちにお通ししろ!」

 衛兵たちが慌てて動き出す。

 巨大な滑車が軋む音を立てて回り、数年開かれたことのない重厚な鉄格子が、地響きと共にゆっくりと上昇していく。

 開かれた闇の向こうから、冷たく淀んだ空気が流れ込んでくる。

 それは、死の世界からの呼吸のようだった。

「……忠告しておきます」

 すれ違いざま、隊長が小声で言った。

 その顔には、敬意よりも哀れみの色が濃かった。

「東の空には、呪いがかかっています。物理的な脅威だけではありません。……心が弱い者は、二度と帰って来られません。どうか、お気をつけて」

「ああ。肝に銘じておく」

 アルドは短く答え、ミナと共に門の向こう側へと足を踏み入れた。

 鉄格子が背後で重々しい音を立てて閉ざされる。

 世界が断絶された瞬間だった。


 ◇


 関所の向こう側に広がっていたのは、文字通りの「死の世界」だった。

 大地は抉れ、巨大なクレーターがあちこちに口を開けている。

 かつての街道は寸断され、黒く焼け焦げた木々が墓標のように立ち並ぶ。

 草一本生えていない。

 鳥の声も、虫の音もしない。

 あるのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂と、視界を薄く覆う紫色の(もや)だけだ。

「……ひどいな」

 アルドは顔をしかめた。

 十年前の決戦の傷跡が、そのまま保存されたかのように残っている。

 地面には、錆びついた剣や兜、そして風化した白い骨が散乱していた。

 それらは、かつてここで戦い、散っていった兵士たちの成れの果てだ。

 アルドは歩きながら、足元の骨を避けた。

 もしかしたら、知っている顔だったかもしれない。

 共に酒を飲み、笑い合った仲間だったかもしれない。

 うっかり蹴ってしまった兜が転がる音が、静寂の中で不吉に響く。

 視界の端に、何かが動いた気がした。

 振り向いても、そこには風化した岩があるだけだ。

 だが、確かに気配があった。

 誰かが、見ている。

 恨めしそうに、あるいは羨ましそうに。

「……何もいないわよ」

 不意に、ミナが言った。

 彼女は前を向いたまま、アルドの内心を見透かしたように告げた。

「それは亡霊じゃない。……あなたの記憶が見せている幻影よ」

「幻影……?」

「この場所を覆う結界は、認識阻害と環境固定の二重構造になっているわ。……そして、侵入者の精神に干渉し、『恐怖』や『忌避感』を増幅させる」

 ミナは空を指差した。

 薄紫色の靄が、空一面を覆っている。

 その靄は、両側にそびえる山脈の斜面にもへばりつき、逃げ場のない閉塞感を生み出している。

「物理的な毒じゃない。精神に作用する暗示の霧。……『ここは危険だ』『近づくな』『帰りたい』。そういった本能的な警告を、脳に直接送り込んでいるの」

 言われてみれば、関所を越えてからずっと、背筋に冷たいものが走っている。

 胃の腑が重く、理由のない焦燥感がまとわりついている。

 これは、俺の臆病風ではなく、結界による影響作用だったのか。

「お前は平気なのか?」

「私は『異物』だから。この結界の影響を受けない体質なだけ」

 ミナはそっけなく答えた。

 だが、その横顔には微かな疲労の色が見えた。

 影響を受けないとはいえ、この重苦しい空気の中にいるだけで消耗するのだろう。


 日が傾き始め、周囲の闇が濃くなってきた。

 このまま夜を迎えるのは危険だ。

 魔獣が出るかもしれないし、何より精神が保たない。

 二人は風を凌げる岩陰を見つけ、そこで野営することにした。

 枯れ木を集めて火を焚く。

 揺らめく炎だけが、この死の世界で唯一の「生」の輝きだった。

 アルドは干し肉を齧りながら、炎の向こうに座るミナに問いかけた。

「……なあ、ミナ」

 静寂が重い。

 何か話していないと、闇に飲み込まれそうだ。

「お前の言う『楽園』ってのは、一体どんな場所なんだ?」

 今まで何度も聞こうとして、はぐらかされてきた問い。

 王都を出る時、ミナは「クリスタルパレスに元凶がある」と言った。

 だが、具体的にそこがどうなっているのか、彼女は決して語ろうとしない。

「十年前、帝都は壊滅したはずだ。だがお前は、廃墟じゃないと言った。……あそこには、まだ人が住んでいるのか? カインの弟は何をしているんだ?」

 アルドは畳み掛けた。

 不安を打ち消すために、答えを求めた。

 だが、ミナは膝を抱え、炎を見つめたまま沈黙していた。

 その瞳に、揺れる炎が映っている。

「……話してくれ。これから俺たちが飛び込もうとしている場所のことだ。知る権利はあるだろう」

「権利はあるわ」

 ようやく、ミナが口を開いた。

 だが、その視線はアルドには向けられず、東の闇の奥へと注がれていた。

「でも、今は話さない」

「……なんでだ。勿体ぶってる場合かよ」

「勿体ぶっているわけじゃないわ」

 ミナは首を横に振った。

 その表情は、拒絶というよりも、諦めや悲しみに近い色を帯びていた。

「言葉にした途端、それは陳腐な『お話』になってしまう。……それに、どれだけ言葉を尽くしても、あなたは信じないでしょう」

「信じない?」

「ええ。あまりにも……異常だから」

 ミナは自分の両腕を抱くように身を縮めた。

 王都の喧騒で見せた嫌悪感とは違う、もっと根源的な恐怖を思い出しているような仕草。

「あそこにある光景は、あなたの常識も、想像も超えているわ。……天国のような地獄。優しさに満ちた牢獄」

 謎かけのような言葉。

 だが、その声の震えは本物だった。

「それが『悪』なのかどうかは私にも分からない。だから、話さない。……実際にあなたの目で見て、肌で感じてほしいの。その時、あなたが何を感じ、どう思うか。それが全てだから」

 ミナは強くアルドを見据えた。

「予備知識はいらないわ。……ただ、覚悟だけしておいて。これから私たちが踏み込むのは、魔獣の巣窟よりも恐ろしい、沈黙の世界だということを」

 アルドは言葉を失った。

 ミナがここまで頑なに口を閉ざす理由。

 それは、単なる秘密主義ではない。

 その「真実」が、言葉で伝えるにはあまりにも重く、歪なものだからなのだろう。

「……分かったよ」

 アルドはため息をつき、背中の剣に手を置いた。

 冷たい鉄の感触。

「自分の目で確かめる。……それが俺の役目なんだろうしな」

「ええ。お願いするわ」

 ミナは小さく頷き、外套にくるまって横になった。

 会話は終わった。

 再び、重苦しい静寂が二人を包み込む。


 アルドは眠れなかった。

 東の空を見上げる。

 分厚い雲と、紫の靄に覆われた空。

 その向こう側に、一体何が待っているのか。

 ミナが「異常」と呼び、恐怖する楽園。

 王都で見せた彼女の反応を思い出す。

 喧騒を嫌い、争いを非効率だと嘆いた彼女が、さらに恐れる「静寂」。

(……カイン、お前の弟は、一体何を作っちまったんだ)

 アルドは心の中で、亡き友に問いかけた。

 返事はなく、ただ風の鳴く音だけが、荒野に虚しく響いていた。

 夜が明ければ、結界の核心部へと踏み込むことになる。

 アルドは剣を引き寄せ、その柄を強く握りしめた。

 その錆びついた鉄塊だけが、今の彼を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。

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