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第十七話 恥辱の帰還

 翌朝。

 王都ルミナスの上層区画、貴族街。

 下層の喧騒と汚濁が嘘のように、そこは静寂と秩序に支配されていた。

 磨き上げられた白大理石の石畳。

 道の両脇に並ぶ、彫刻で飾られた壮麗な屋敷たち。

 巡回する衛兵たちの鎧は一点の曇りもなく輝き、すれ違う貴族たちは優雅に扇子を揺らしている。

 そのあまりに完璧な空間を、二つの異質な影が歩いていた。

 泥と埃にまみれた革鎧。

 背中に背負った赤茶けた鉄屑。

 アルドとミナの姿は、豪華な宝石箱に紛れ込んだ砂利のように、周囲から浮き上がっていた。

「……視線が痛いわね」

 ミナが小声で囁いた。

 ミナが小声で囁いた。

 貴族たちが、眉をひそめ、ハンカチで口元を覆いながら、二人を大きく避けて通っていく。

 それは単なる無視ではない。

 汚らわしいもの、病原菌を持ったネズミでも見るような、明らかな侮蔑と忌避の視線だ。

 だが、アルドは顔色一つ変えずに歩を進めた。


「気にするな。……俺たちは道端の汚物みたいなもんだ。奴らにとって、視界に入れるのも汚らわしいのさ」

 五年前、彼はこの街で歓待を受け、彼らに囲まれて笑っていた。

 だが、飾られた英雄の仮面を脱いだ瞬間、彼らの態度は一変した。

 アルドにとって、この冷ややかな視線こそが、王都の「本性」だった。


 やがて、通りの突き当たりに巨大な正門が現れた。

 王宮『白聖城(ホワイト・サンクタム)』。

 王国の政治と軍事の中枢であり、かつてアルドが忠誠を捧げた主君の居城。

 門の前には、精鋭部隊である近衛騎士団が整列し、厳重な警備を敷いている。

「止まれ! 貴様ら、ここを何処だと思っている!」

 門番の騎士が槍を交差させ、二人を阻んだ。

 アルドは立ち止まり、深く被っていたフードをゆっくりと脱いだ。

 無精髭に覆われた顔。

 だが、その瞳だけは、かつてこの城を出て行った時とは違う、鋭い光を宿していた。

「……騎士団長ガレスに面会したい」

 アルドの声は低く、しかしよく通った。

「は? 団長閣下だと? 貴様のような薄汚い傭兵が、気安く呼べる御方ではないわ!」

 門番が嘲笑う。

 当然の反応だ。

 だが、アルドは動じずに続けた。

「伝えろ。『アルドが帰ってきた』とな」

 その名を聞いた瞬間、門番たちの動きが止まった。

 アルド。

 救国の英雄。

 そして、剣が抜けなくなり、恥辱にまみれて消えた「堕ちた偶像」。

 その名は、騎士団の中では一種のタブーとして、そして嘲笑の対象として語り継がれていた。

「……貴様が、あのアルドだと?」

 門番が疑わしげにアルドの顔を覗き込み、そして背中の錆びついた剣を見て、息を呑んだ。

 特徴的な形状。

 赤錆に覆われてはいるが、あれは確かに伝説の聖剣の成れの果てだ。

「……待っていろ。確認を取る」

 門番の一人が慌てて城内へと走っていった。

 残された騎士たちは、遠巻きにアルドを取り囲み、ヒソヒソと囁き合っている。

「本当に帰ってきたのか」

「落ちぶれたものだ」

「何の用だ」

 好奇心と軽蔑が入り混じった視線が、アルドの背中に突き刺さる。

「……帰るなら今よ」

 ミナがボソリと言った。

 だが、アルドは首を横に振った。

「ここまで来て帰れるかよ。……毒を食らわば皿までだ」


 ◇


 通されたのは、騎士団棟の最上階にある執務室だった。

 磨き上げられた黒檀の床、壁一面に飾られた歴代団長の肖像画、そして窓から見下ろす王都のパノラマ。

 その部屋の奥にある執務机に、一人の男が座っていた。

 ガレス・ヴァン・ロイヤル。

 現・王国騎士団長。

 亜麻色の髪を短く刈り込み、鋼のような肉体を、金細工の施された純白のプレートメイルに包んでいる。

 かつてアルドの副官だった男は、五年という歳月を経て、王国の守護者に相応しい威厳と貫禄を身につけていた。

「……入るがいい」

 重々しい声が響く。

 案内されたアルドとミナが部屋に入ると、ガレスは書類から顔を上げ、冷徹な碧眼で二人を射抜いた。

 その視線は、かつての上官を見る目ではない。

 路傍の石ころを見るような、無関心と軽蔑の色だった。

「……久しぶりだな、ガレス」

 アルドが声をかけると、ガレスは鼻を鳴らし、ペンを置いた。

「気安く名を呼ぶな、傭兵風情が」

 氷のような拒絶。

 ガレスは椅子に深くもたれかかり、アルドを値踏みするように上から下まで眺めた。

「噂は聞いていた。『錆びた英雄』が、どこかの田舎で酒に溺れているとな。……まさか、本当にこんな浮浪者のような姿で、私の前に現れるとはな」

「生憎と、酒代が尽きてな。出稼ぎに来たのさ」

 アルドがおどけて見せると、ガレスの眉間にはっきりとした不快な皺が刻まれた。

「軽口を叩くな。……貴様のそのふざけた態度は、五年前と何も変わっていないな」

 ガレスが立ち上がり、ゆっくりとアルドに近づいてきた。

 彼が歩くたびに、鎧がカシャン、カシャンと規則正しい音を立てる。

 手入れの行き届いた輝く鎧と、泥にまみれた革鎧。

 かつては背中を預け合った二人の間には、今や埋めようのない断絶があった。

「我々が、崩壊した国を立て直すために血反吐を吐いて働いている間、貴様は何をしていた?」

 ガレスが至近距離でアルドを睨みつける。

「逃げ出し、酒に溺れ、剣を腐らせ……。貴様は、我々騎士団の恥だ。生ける汚点だ」

 罵倒。

 だが、それは事実だった。

 アルドは反論しなかった。

 五年前、重圧に耐えかねて逃げ出したのは自分だ。

 ガレスたちに全てを押し付け、一人で楽な道を選んだ。

「……否定はしない。俺は逃げた」

「ならば、なぜ戻ってきた!」

 ガレスが激昂し、机を拳で叩いた。

 低い衝撃音が室内に響く。

「今さら何の用だ? 金か? 名誉の回復か? それとも、その錆びた鉄屑をまた飾り直してほしいとでも言うのか!」

 ガレスの指が、アルドの背中の剣を指差した。

 かつての聖剣。

 今や赤錆の塊。

「その剣を見るたびに、私は反吐が出る。……貴様の弱さ、脆さ、無責任さが凝縮された、醜悪な象徴だ」

 言葉の刃が、アルドの胸を抉る。

 アルドの拳が、無意識に握りしめられた。

 言い返したい。

 俺だって苦しんだんだと。

 剣が抜けなくなった絶望を、お前に分かるかと叫びたい。

 熱いものが腹の底からこみ上げてくる。

 だが。

(……抑えろ)

 アルドは奥歯を噛み締め、拳の力を抜いた。

 ここで怒鳴れば、あの宿場町の二の舞だ。

 ガレスの言うことは正しい。

 自分は弱い。

 だから剣が錆びた。

 それを認めることからしか、前には進めない。

「……説教を聞きに来たんじゃない」

 アルドは静かに言った。

 怒りを飲み込み、ただ目的だけを見据える。

「通行許可証が欲しい。『嘆きの関所』を越えるための、特別許可証だ」

 ガレスの目が細められた。

 嘆きの関所。

 それは、旧帝国領――廃墟地帯へと続く、唯一のゲート。

「……あんな廃墟しかない荒野に、何をしに行く?」

「用がある。……世界の命運に関わる用事がな」

「ハッ、傑作だ!」

 ガレスが嘲笑った。

 腹を抱えて、心底おかしそうに笑う。

「世界の命運だと? 貴様のような酔っ払いが? ……まだ英雄気取りが抜けないのか、アルド!」

 ガレスは笑いを収めると、軽蔑しきった目でアルドを見下ろした。

「貴様に許可証を出す義理などない。……だが」

 彼は机の引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。

 そして、ペンを走らせ、騎士団長の印章を押した。

「くれてやる」

 ガレスは許可証を、アルドの足元に放り投げた。

 ヒラヒラと舞い落ちる紙片。

 それは、最大の侮辱だった。

 拾え、犬のように。

 そう言っている。

「……ガレス」

「勘違いするなよ。貴様を認めたわけではない」

 ガレスは冷たく言い放った。

「貴様が王都をうろついているだけで目障りなんだ。……東の荒野で野垂れ死ぬというなら、喜んで送り出してやる。そこがお前の墓場に相応しい」

 死にに行け。

 そう言われたのだ。

 アルドは足元の許可証を見つめた。

 屈辱で全身が震える。

 拾いたくない。

 拾えば、自分の最後のプライドまで捨てることになる。

 隣に立つミナは動かなかった。

 彼女は手出しせず、ただじっとアルドを見ている。

 これは、お前の戦いだと言わんばかりに。

 宿場町では彼女が頭を下げた。

 だが、ここでは自分がやらなければならない。

 これは、俺の過去との決着なのだから。

 アルドは、ゆっくりと膝を折った。

 ガレスの視線が、憐れみを含んだものに変わる。

 アルドは床に落ちた許可証に手を伸ばし、それを拾い上げた。

 泥のついた指で、白い羊皮紙を汚す。

 惨めな姿だ。

 だが、アルドの心の中には、不思議と敗北感はなかった。

「……感謝する、団長閣下」

 アルドは立ち上がり、許可証を懐に入れた。

 そして、ガレスを真っ直ぐに見返した。

 その瞳には、卑屈さも、怒りもなかった。

 ただ、嵐の中を歩く旅人のような、静かで強固な意志だけがあった。

「あんたの言う通り、俺は逃げた。……だから、今度は逃げないために行くんだ」

「……何?」

 ガレスが怪訝な顔をする。

 アルドの纏う空気が変わったことに気づいたのだ。

 薄汚れた、惨めな男のはずなのに。

 なぜか、その姿が以前よりも大きく見える。

 背中の錆びた鉄塊が、まるで巨大な墓標のように重厚な存在感を放っている。

「行くぞ、ミナ」

 アルドは踵を返した。

 もう、ガレスに用はない。

 罵倒も、軽蔑も、すべて受け取った。

 それを燃料にして、前に進むだけだ。

「……待ちたまえ」

 呼び止めたのは、ガレスだった。

 彼の声には、先ほどまでの余裕が消え、微かな焦燥が混じっていた。

「貴様……本当に行く気か? 廃墟には強力な魔獣もいる。今のその『錆びた剣』で、何ができる?」

 それは警告であり、そして確認でもあった。

 本当にお前は、その鉄屑で戦うつもりなのか、と。

 アルドは振り返らず、背中で答えた。

「斬れなくても、叩き潰すことはできる。……錆びて抜けなくても、こいつは俺の武器だ」

 扉が開く。

 アルドとミナは、執務室を出て行った。

 ガレスは、その後ろ姿が見えなくなるまで、動くことができなかった。

 ただの負け犬のはずだ。

 過去の遺物のはずだ。

 なのに、なぜあんな目をしていた?

 なぜ、あの背中を見て、恐怖にも似た寒気を感じた?

「……ふん。強がりを」

 ガレスは椅子に座り直し、吐き捨てるように呟いた。

 だが、握りしめたペンの軸には、深い亀裂が入っていた。


 ◇


 王宮を出ると、外は眩しいほどの陽光に包まれていた。

 アルドは懐の許可証を確かめ、大きく息を吐いた。

 肩の荷が下りたような、しかし逆に重くなったような、複雑な感覚。

「……意外だったわ」

 隣を歩くミナが言った。

「てっきり、殴りかかるかと思っていたけれど」

「殴りたかったさ。……でも、殴ったら負けだと思った」

 アルドは苦笑した。

 ガレスの言葉は痛かった。

 だが、それを受け止め、頭を下げてでも目的を果たすこと。

 それが、今の自分にできる唯一の「戦い」だった。

 英雄のプライドを捨て、一人の人間としての泥臭い意地を通したのだ。

「よくやったわ」

 ミナの言葉は短かったが、そこには確かな敬意が含まれていた。

 彼女は前方を指差した。

 王都の東門。

 その先には、広大な荒野と、目指すべき『嘆きの関所』が待っている。

「行きましょう。……本当の戦いはこれからよ」

「ああ。分かってる」

 アルドは背中の剣を背負い直した。

 錆びた剣は、相変わらず重い。

 だが、その重さはもう、彼を押し潰す呪いではなく、彼を現実に繋ぎ止める錨のように感じられた。


 二人は王都の喧騒を背に、東へと歩き出した。

 華やかな白亜の都は、彼らの背後で幻のように輝いていたが、彼らが振り返ることは二度となかった。

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