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山脈を越えた先

 外の世界は、想像以上に過酷だった。

 ミナは地図を持っていなかった。

 唯一の出口である「嘆きの関所」があることを、そもそも知らなかった。

 彼女が選んだルートは、誰もが不可能と断じる「絶望山脈」越えだった。


 標高数千メートル。

 そこは、生物の生存を拒絶する氷の世界だった。

 帝都で着ていたドレスは、冷気を通すだけの頼りない布きれとなり、素肌は紫色に変色して感覚を失っていく。

 本来なら、一日ももたずに凍死していただろう。

 だが、ミナは生きていた。

 胸元のペンダントが、熱を持っていたのだ。

 カインの紋章が刻まれた銀の飾りが、まるで小さな暖炉のように発熱し、心臓を中心に温かな血液を全身へと送り続けている。

 それは魔法の加護か、あるいはカインの残留思念か。

 ミナはその小さな熱源を両手で包み込み、拝むようにして歩を進めた。

「……眠ったら、死ぬ」

 本能が警鐘を鳴らしていた。

 足元の見えない夜は岩陰でうずくまり、意識が遠のきそうになるたびに、ペンダントの熱が「起きろ」と肌を焼く。

 喉が渇けば、足元の雪を口に含んだ。

 冷たさが喉を刺すが、それが渇きを癒やす唯一の水だ。

 幸運だったのは、天候が常に荒れているわけではなかったことだ。

 日中は、雲の切れ間から強烈な陽光が差し込み、雪面を照らして視界を確保してくれた。

 時折襲ってくる暴風雪の時は、岩の隙間に身を隠してペンダントを抱きしめ、嵐が過ぎ去れば、太陽を道標にしてひたすら歩く。

「生きたい」

 帝都では感じたことのなかった、動物的な渇望。

 その執念だけで、彼女は数日間の地獄を耐え抜き、ついに山脈を越えて王国側の麓へと滑り落ちた。


 ◇


 意識が戻った時、彼女は温かい毛布に包まれていた。

 鼻をくすぐるのは、薪が燃える匂いと、何かが煮える香り。

「……気がついたかい?」

 覗き込んできたのは、顔に深い皺を刻んだ初老の女性だった。

 ここは山麓の小さな農家らしい。

 ミナが行き倒れているのを、薪拾いに来たこの女性が見つけて運んでくれたのだ。

「あ、温かい……」

 ミナは震える手で、差し出された木の椀を受け取った。

 中には、根菜と干し肉を煮込んだスープが入っている。

 一口すする。

 土臭い。塩辛い。

 帝都の洗練された流動食とは比べ物にならないほど粗末な味だ。

 けれど。

「……美味しい」

 涙が溢れた。

 喉を通る熱が、冷え切った体に染み渡り、生きている実感を呼び覚ます。

 これが、人間の食事だ。

 誰かが自分のために作ってくれた、温かい味。

「……ありがとう、ございます」

 ミナが礼を言うと、女性は優しく微笑んだ。

 ミナは自分の身の上を話した。帝都から逃げてきたこと。あの狂ったシステムを壊すために、協力者を探していること。

 女性は「願望機」の話など信じなかったが、ミナの瞳にある切実な光を見て、それ以上何も聞かなかった。

 翌朝、女性は亡くなった娘のものだという旅装束と、なけなしの路銀をミナに持たせてくれた。

「この服、サイズがピッタリね」

「あの子も、あんたと同じくらいの背丈だったよ」

 女性は寂しそうに笑った。

「行きなさい。……あんたの旅が、良いものでありますように」

 その言葉は、どんな魔法よりも温かく、ミナの背中を押した。


 ◇


 だが、外の世界にあるのは善意だけではなかった。

 街道に出たミナを待っていたのは、欲望と暴力が支配する現実だった。

 ある日、ミナは野盗に襲われている商人の馬車に遭遇した。

 数人の男たちが商人を囲み、荷物を奪おうとしている。

(……邪魔ね)

 ミナは迷わなかった。

 彼女は風の魔法を行使した。

 不可視の刃『ウィンドカッター』が、野盗のリーダーの首を一瞬で跳ね飛ばす。

 鮮血が吹き出し、首が転がる。

 残りの野盗たちは悲鳴を上げて逃げ出した。

 ミナは表情一つ変えず、商人に近づいた。

「大丈夫ですか?」

 手を差し伸べる。

 だが、商人は腰を抜かし、青ざめた顔で後ずさった。

「ひ、ひぃぃッ! 化け物! 近寄るな!」

 商人はミナの冷徹な殺人に恐怖したのだ。

 人を殺して、なぜ平気な顔でいられるのか。

 その異常性が、野盗よりも恐ろしく見えたのだろう。

 商人は荷物を放り出し、金貨の入った袋を投げつけて逃げ出した。

「命だけは助けてくれぇ!」

 残されたミナは、泥にまみれた金貨袋を拾い上げた。

(……変なの)

 帝都では「死」はただの現象であり、システムのバグ修正に過ぎなかった。

 だから彼女には、悪人を排除することに何の感情も湧かない。

 だが、この世界では違うらしい。

 命には重さがあり、それを奪う者には「業」が背負わされる。

「……いらないなら、貰っておくわ」

 ミナは金貨を懐に入れ、再び歩き出した。

 彼女の中の常識はまだ、帝都の色に染まったままだ。

 だが、この違和感こそが、彼女が人間になるための通過儀礼なのだと、彼女はまだ気づいてはいなかった。

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