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第十六話 白亜の都

 王都ルミナス。

 大陸中央部に位置するこの巨大都市は、大戦後の復興と繁栄の象徴として、その名を世界に轟かせていた。

 三重の城壁に囲まれた都市区画は、外側から順に「下層」「中層」、そして王宮と貴族街を擁する「上層」へと階層分けされている。

 中心に聳え立つ白亜の王宮『白聖城(ホワイト・サンクタム)』は、太陽の光を反射して神々しいまでの輝きを放ち、その威容は数キロ先からでも確認できるほどだ。

 その巨大な城門の前に、今、二つの小さな影が立っていた。

「……相変わらず、無駄にでかいな」

 アルドは城壁を首が痛くなるほど見上げ、呆れたように呟いた。

 灰色の石積みで造られた城壁は高さ二十メートルを超え、その頂上には警備兵たちが蟻のように小さく動いているのが見える。

 かつて、魔王軍の侵攻すら跳ね返したとされる鉄壁の守り。

 だが、その門扉は今、平和を謳歌するように大きく開け放たれ、物資を運ぶ荷馬車や旅人の列が絶え間なく吸い込まれていく。

「検問は厳しそうね」

 隣でミナが冷静に分析する。

 門の前には数人の衛兵が立ち、入城者の身分証や荷物を検査している。

 田舎の宿場町とは違い、ここの衛兵は装備も新しく、目つきも鋭い。

 薄汚れた傭兵崩れと、正体不明の女。

 普通に通れば、間違いなく詰問されるだろう。

「まともに相手をする必要はない。……ついて来い」

 アルドはフードを目深に被り直し、行列の最後尾に並んだ。

 順番が回ってくる。

 若い衛兵が、槍を斜めに構えて立ちはだかった。

「止まれ。身分証の提示を。……なければ入城税として銀貨二枚だ」

 衛兵はアルドの錆びた剣と、泥で汚れた外套を一瞥し、露骨に警戒の色を見せた。

 王都の治安を守る者として、不審人物を排除するのは当然の職務だ。

「身分証はない。金なら払う」

 アルドは懐から銀貨を取り出し、衛兵の手のひらに乗せた。

 だが、二枚ではない。

 五枚だ。

「……これは?」

 衛兵が眉をひそめる。

 アルドは声を潜め、低い声で囁いた。

「連れが体調を崩しているんだ。長旅で疲れていてな。……細かい検査は勘弁してくれ」

 衛兵は一瞬迷ったようだが、後ろに続く長蛇の列と、アルドの背後で俯いているミナの姿を見て、面倒事を避ける方を選んだらしい。

 これ以上の追求は野暮だと判断したのか、素早く銀貨を懐にしまった。

 安い買い物だ、とアルドは内心で安堵した。

 ここでまともに検査を受ければ、フードの下にあるミナの目立つ銀髪はもちろん、背中の剣を検められる危険がある。

 いくら赤錆に覆われて鉄屑同然になっていようと、柄の意匠や独特な形状を詳しく見られれば、それが伝説の『聖剣』だと露見してしまう恐れがある。

 そうなれば、「死んだはずの元英雄が、手配中の女を連れて帰ってきた」などと大騒ぎになり、目的である騎士団長への面会どころではなくなってしまう。

 金で解決できるなら、それに越したことはない。

「……行け。騒ぎを起こすなよ」

「感謝する」

 衛兵の言葉にアルドは短く礼を言い、足早に門をくぐった。

 背中にかかる視線が消えるまで、その背筋には緊張が走っていた。


 ◇


 門を抜けた先に広がっていたのは、圧倒的な「光」の世界だった。

 石畳は塵一つなく清掃され、道の両脇には手入れの行き届いた街路樹が並ぶ。

 行き交う人々は皆、仕立ての良い服を着て、表情には余裕と自信が満ちている。

 市場には大陸中から集められた特産品が並び、香辛料や香油の甘い香りが漂っている。 貧しさや飢えとは無縁の、完成された都市機能。

 それが、王都ルミナスの「下層」メインストリートの姿だった。

「……綺麗ね」

 ミナが感情の読めない声で言った。

 彼女の視線は、ショーウィンドウに飾られた高価なドレスや宝石に向けられている。

「ああ。吐き気がするほどな」

 アルドは吐き捨てた。

 この美しさは、嘘ではない。

 だが、真実のすべてでもない。

 この清潔な石畳の下には、巨大な下水道が走り、そこには都市の汚物が流されている。

 それと同じように、この繁栄の影には、搾取される地方や、切り捨てられた者たちの犠牲があることを、アルドは知っていた。

 五年前、彼はこの光の中で「平和の象徴」として飾られていた。

 毎日が祝宴。

 毎日が賞賛。

 だが、その光が強ければ強いほど、彼の内側の空虚な闇は濃くなっていった。

「見ろよ。あれが『英雄広場』だ」

 アルドが指差した先。

 大通りの中心にある広場に、巨大な噴水と、その中央に立つブロンズ像があった。

 剣を高く掲げ、天を仰ぐ若き戦士の像。

 その顔立ちは精悍で、希望に満ち溢れ、神話の登場人物のように美化されている。

 台座には、金文字でこう刻まれていた。

 『救国の英雄アルド。魔王を討ち、恒久の平和をもたらした聖剣の主』

 像の周りには観光客が集まり、記念撮影をしたり、コインを投げ入れたりしている。

 彼らにとって、アルドは過去の偉人であり、幸福を呼ぶお守りのような存在なのだろう。

「……似ていないわね」

 ミナが像と、隣にいる薄汚れた男を見比べて言った。

「ああ。あいつはもう死んだんだよ」

 アルドは自嘲気味に笑った。

 あの像が作られた時、モデルになった本人は、二日酔いの頭を抱えながら除幕式に出席し、愛想笑いを浮かべていた。

 その時にはもう、剣は鞘から抜けなくなっていたというのに。

 あれは、民衆が見たいと願った「虚像」だ。

 本当のアルドなど、誰も見ていなかった。

「行くぞ。こんな場所に長居したくない」

 アルドは逃げるように広場を後にした。

 メインストリートを外れ、路地裏へと入っていく。

 光があれば、影がある。

 王都にも、華やかな表通りから一本入れば、全く別の顔が存在する。

 裏通りに入ると、空気は一変した。

 石畳はひび割れ、汚水が溜まった水たまりがあちこちにある。

 建物の壁は煤け、洗濯物が万国旗のように干されている。

 そこには、日雇いの労働者や、地方から流れてきた難民、そして物乞いをする子供たちの姿があった。

「……おじちゃん、なんかちょうだい」

 骨と皮ばかりに痩せた少年が、アルドの服の裾を掴んだ。

 その目は大きく、虚ろで、しかし生きるための渇望に満ちていた。

 表通りの着飾った人々とは違う、剥き出しの「生」の気配。

 アルドは立ち止まった。

 懐を探り、一枚の銀貨を取り出す。

 それを少年の汚れた手のひらに握らせた。

「……パンでも買え。酒は飲むなよ」

 少年は銀貨を見ると、信じられないという顔をし、ぺこりと頭を下げて走り去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、アルドは小さく息を吐いた。

「甘いのね」

 ミナが指摘する。

「あの子一人を助けても、何も変わらないわ。構造的な貧困を解決しない限り、明日はまた別の子供が手を出すだけよ」

「分かってるさ」

 アルドは苦々しく言った。

「だが、俺は政治家でも神様でもない。……目の前の腹を空かせたガキに、パン代をやるくらいの自由はあるだろ」

 かつて、英雄と呼ばれていた頃。

 彼は多くの寄付を求められ、貴族たちが主催する慈善舞踏会に参加した。

 そこで集まった巨額の金が、本当に貧しい人々に届いていたのか、彼は知らない。

 だが、今、自分の手で渡した一枚の銀貨は、間違いなくあの少年の今日の糧になる。

 その確かな手触りだけが、今のアルドには救いだった。

「……そうね。否定はしないわ」

 ミナはそれ以上何も言わず、ただアルドの横顔を静かに見つめていた。


 ◇


 二人が宿を取ったのは、下層区画のさらに外れにある安宿「片目の海賊亭」だった。

 看板は傾き、窓ガラスは曇っているが、目立たない場所にあるのが好都合だった。

 狭い部屋に荷物を下ろすと、アルドはベッドに倒れ込むように座った。

 軋むスプリングの音が、疲労した体に心地よい。

「さて……」

 アルドは天井を見上げながら、これからの予定を反芻する。

「目的地は王宮。そこで騎士団長に会って、特別通行許可証を発行してもらう。……口で言うのは簡単だがな」

 王宮があるのは上層区画。

 そこに入るには、さらに厳重な検問がある。

 だが、元英雄としての知識があれば、検問をすり抜ける裏道や、警備の手薄な時間は把握している。

 問題は、中に入ってからだ。

「相手は誰なの?」

 ミナが椅子に座り、地図を広げながら尋ねた。

「現・王国騎士団長、ガレス。……俺の昔の副官だ」

 ガレス。

 真面目で、融通が利かず、しかし剣の腕と忠誠心だけは人一倍強かった男。

 アルドが英雄として祭り上げられていた時、彼は常にアルドの影に隠れていた。

 そしてアルドが堕落し、剣を抜けなくなった時、誰よりも失望し、軽蔑の眼差しを向けたのも彼だった。

「俺が出奔した後、奴が順調に出世したって噂は聞いている。……今じゃ王国の守護神様だそうだ」

「会ってくれるかしら?」

「正規の手順じゃ門前払いだろうな。だが、奴の性格なら、俺が直接乗り込めば無視はできないはずだ。……かつての上官であり、裏切り者でもある俺をな」

 アルドは、錆びついた剣の柄を無意識に撫でた。

 ガレスに会う。

 それは、自分が捨てた過去と対面することだ。

 どんな罵倒を浴びせられるか、想像に難くない。

 だが、避けられない通過儀礼だ。

「明日の朝、動く。……今日は休もう」

 アルドは話を打ち切り、窓を開けた。

 夜の帳が下りつつある王都。

 遠くに見える上層の街並みは、魔法の灯りで煌々と輝いている。

 その光は、下層の闇をより濃く浮き彫りにしていた。

 アルドは窓枠に肘をつき、夜風に当たった。

 風に乗って、遠くから音楽や笑い声が聞こえてくる。

 五年前、自分もあの中にいた。

 仮面を被り、空っぽのグラスを掲げ、意味のない会話に興じていた。

(……戻ってきたな)

 胸の奥で、古傷が疼く。

 トラウマと懐かしさが入り混じった、奇妙な感覚。

 だが、不思議と嫌悪感だけではなかった。

 あの頃の自分にはなかったものが、今の自分にはある。

 隣にいる、この奇妙な女。

 そして、錆びついてはいるが、自分の意志で背負った剣。

「……ねえ、アルド」

 背後からミナの声がした。

 振り返ると、彼女もまた、窓の外の輝きを見ていた。

「あなたの言う『平和』は、確かに不完全で、騒がしくて、汚れているわ。……でも」

 彼女は言葉を切り、アルドの方を見た。

 薄暗い部屋の中で、彼女の瞳だけが星のように光っていた。

「あの『英雄広場』の像より、今のあなたの方が、ずっと生きているように見えるわ」

 アルドは目を見張った。

 そして、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「……よせ。褒めても何も出ないぞ」

「事実を言っただけよ」

 ミナは小さく微笑み、自分のベッドへと戻っていった。

 アルドは再び夜景に目を向けた。

 生きている。

 そうだ。自分は生きている。

 泥を啜り、嘲笑され、それでもこうして立っている。

 明日、ガレスに何と言われようと、それだけは揺るがない事実だ。

 王都ルミナスの夜は更けていく。

 煌びやかな光の城と、その足元に広がる混沌とした闇。

 その境界線で、錆びた聖剣を背負う男は、静かに覚悟を決めていた。

 明日は、過去という名の亡霊を振り払う日になるだろう。

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