第十五話 小さなプライド
宿場町カレンを離れてから三日が過ぎた。
王都ルミナスへと続く街道は、首都に近づくにつれて整備され、踏み固められた石畳の道へと変わっていた。
だが、その道を行くのは決して快適な旅ではなかった。
道の両側には、秋の収穫を運ぶ巨大な荷馬車や、王都へ出稼ぎに向かう農夫たちの列、そして地方から陳情に向かう下級貴族の馬車が列をなし、慢性的な渋滞を引き起こしている。
馬のいななき、御者の怒号、車輪が石畳を削る音。
それらが絶え間なく鼓膜を打ち、街道には家畜の糞と砂埃が舞い上がっている。
「……息が詰まるな」
アルドはスカーフで口元を覆い、顔をしかめた。
アルガルドの荒野や黒霧の森のような、命を脅かす危険はない。
だが、この過密な「人間の群れ」の中にいると、戦場とはまた違った種類のストレスが精神を摩耗させていく。
誰もが苛立っていた。
先へ進みたいのに進めない焦燥感が、街道全体の空気を刺々しいものにしている。
「我慢なさい。これが王国の『大動脈』よ。……血液がドロドロに滞っているのは、国家が病んでいる証拠かもしれないけれど」
隣を歩くミナが、皮肉っぽく呟いた。
彼女はフードを目深に被り、視線を足元に落として黙々と歩いている。
その徹底した「気配の消し方」は、人混みの中でも彼女を透明な存在のように見せていた。
その時だった。
後方から、周囲の喧騒を切り裂くような、けたたましい蹄の音が近づいてきた。
普通の馬車ではない。
軍馬のような足音と、鞭の音。
「道を開けろ! 公爵家の馬車がお通りだ!」
「どけ! 轢き殺されたいか、平民ども!」
怒号と共に、一台の豪華な馬車が猛スピードで駆けてくる。
黒塗りの車体に金細工が施された、見るからに高級な馬車だ。
それを護衛するように、四騎の騎馬兵が周囲を固め、先行する荷馬車や歩行者を乱暴に道の端へと追いやっている。
人々は悲鳴を上げ、泥濘んだ路肩へと逃げ惑う。
逃げ遅れた荷車が騎馬に蹴られ、積荷の野菜が散乱するが、騎士たちは一瞥もくれずに駆け抜けていく。
「……チッ、何処のどいつだ」
アルドは舌打ちをし、ミナの肩を引いて道端の草むらへと避難した。
目の前を、巨大な車輪が風を切って通過していく。
馬車の扉には、『黄金の獅子』を象った紋章が描かれていた。
「……ライオネル家か」
アルドの目が細められた。
王国の名門貴族。
十年前の大戦では、安全な後方で兵站管理を担当し、私腹を肥やしたことで悪名高い家柄だ。
アルドが王都にいた頃も、彼らは英雄を利用しようとすり寄ってきたが、アルドが剣を抜けなくなった途端、掌を返して唾を吐きかけてきた連中の一人だ。
馬車が通り過ぎようとした、その瞬間。
前方の窪みに車輪が取られ、馬車が大きく跳ねた。
バランスを崩した車体は、路肩に避けていたアルドたちのすぐ目の前で泥水を激しく跳ね上げた。
冷たく、馬糞の混じった黒い泥水が、アルドの全身に降り注ぐ。
頭から足先まで、泥まみれ。
ミナもまた、フードとマントの半分が黒く汚れていた。
「……っ」
馬車は止まらなかった。
それどころか、御台に座る御者が、汚れた二人を見て嘲笑うように鼻を鳴らすのが見えた。
謝罪などあるはずがない。
泥をかけられた方が悪い。それが彼らの理屈だ。
「……!」
アルドの中で、何かが切れる音がした。
宿場町での騎士への対応。
これまでの旅での我慢。
それらが積み重なり、限界を超えた。
「……待ちやがれッ!!」
アルドは怒号を上げ、駆け出した。
泥だらけの姿のまま、馬車の後を追う。
身体能力は衰えていない。
ぬかるんだ道をものともせず、数秒で馬車に追いつき、並走する護衛の騎士の前に立ちはだかった。
「止まれ! 泥をかけといて素通りかよ!」
アルドの気迫に、馬が驚いて竿立ちになる。
護衛の騎士が慌てて手綱を引き、馬車の隊列が急停止した。
周囲の旅人たちが、何事かと足を止めてざわめき始める。
「貴様……! 公爵家の馬車を止めるとはどういうつもりだ!」
護衛の騎士が抜刀し、切っ先をアルドに向けた。
若く、血気盛んな騎士だ。
だが、アルドは引かなかった。
泥まみれの顔で、ぎらりと目を光らせる。
「泥だ。……泥をかけられた。謝罪と、クリーニング代くらい置いていけ」
「はぁ? 何を言っている。平民風情が、泥くらいでガタガタ抜かすな!」
騎士が呆れたように吐き捨てる。
その態度が、さらにアルドの怒りの火に油を注いだ。
かつて自分が命がけで守った国。
その民を守るべき騎士が、この体たらくか。
アルドの手が、背中の剣の柄にかかる。
「……降りてこい。礼儀ってやつを教えてやる」
殺気。
錆びた鉄塊を背負った薄汚れた男から放たれた、本物の死線の匂いに、騎士の馬が怯えて後ずさる。
騎士の顔色が変わり、本気で斬りかかろうとした時。
馬車の扉が開き、一人の男が降りてきた。
豪奢なビロードの服に身を包んだ、肥え太った中年男。
ライオネル公爵家の当主、バルトロだ。
アルドは見覚えがあった。かつての晩餐会で、脂ぎった手で握手を求めてきた男。
「何事だ、騒々しい。……ん? なんだこの汚い男は」
バルトロはハンカチで鼻を押さえ、露骨に嫌悪感を露わにした。
アルドの顔を見ても、何の反応も示さない。
泥と髭にまみれた今のアルドが、あのかつての英雄だとは夢にも思わないのだろう。
「閣下、このゴロツキが因縁をつけてきまして……」
「泥をかけられた、だと? ……ふん、当たり屋か」
バルトロは蔑むような目でアルドを見下ろした。
「おい、平民。私の馬車を止めた罪は重いぞ。即刻処刑してもいいくらいだ」
「……あァ? やれるもんならやってみろよ」
アルドが一歩踏み出す。
騎士たちが一斉に槍を構える。
一触即発。
アルドの脳裏には、もう後のことなどどうでもよくなっていた。
こいつらを殴り飛ばせれば、それでいい。
また逃亡生活になろうと、この胸のつかえが取れるなら――。
その時。
アルドの背後に、静かな影が寄り添った。
「――大変、申し訳ございません」
透き通るような声。
ミナだ。
彼女はアルドの前に進み出ると、泥で汚れた地面に膝をつき、深々と頭を下げた。
完璧な、臣下の礼。
「連れが乱心いたしました。田舎者ゆえ、公爵家の紋章を見ても理解できなかったのです。……どうか、ご慈悲を」
アルドは目を見開いた。
ミナが、謝っている。
あのプライドの高い、誰に対しても不遜な態度を崩さないミナが、こんな豚のような男に跪いている。
「おい、ミナ! 何をして……」
「黙りなさい」
ミナは顔を上げず、鋭い囁き声でアルドを制した。
そして、顔を上げてバルトロに微笑みかけた。
その笑顔は、ぞっとするほど美しく、そして作り物めいていた。
「お足元を汚すような真似をして、誠に申し訳ありません。……私たちのような薄汚い者が視界に入ること自体、閣下への冒涜でございました」
バルトロの目が、ミナの美貌に釘付けになった。
泥にまみれても損なわれない、宝石のような輝き。
彼は鼻の下を伸ばし、先ほどまでの不機嫌さを霧散させた。
「ほぅ……。随分と殊勝な心がけだ。それに、美しい」
バルトロはねっとりとした視線でミナを眺め回し、満足げに頷いた。
「まあよい。美女の頼みとあらば、今回だけは大目に見てやろう」
彼は懐から金貨を一枚取り出し、ミナの足元へ放り投げた。
「それで新しい服でも買うがいい。……おい、行くぞ!」
バルトロは馬車に戻り、騎士たちも武器を収めて配置に戻る。
御者が鞭を振るい、馬車は再び土煙を上げて走り去っていった。
後には、泥まみれの金貨と、屈辱的な静寂だけが残された。
周囲の旅人たちが、遠巻きに二人を見ている。
「助かってよかったな」「馬鹿な男だ」という囁き声が聞こえる。
アルドは拳を握りしめ、震えていた。
怒りではない。
情けなさだ。
ミナに頭を下げさせ、あんな男に金まで恵んでもらって、命拾いをした自分への。
「……立てよ」
アルドはミナの腕を掴み、乱暴に立たせた。
ミナの膝は泥で濡れ、服は汚れている。
だが、彼女の表情は平然としていた。
足元の金貨を拾い上げ、泥を拭って懐に入れる。
「儲かったわね。これで王都での宿代が浮いたわ」
「……お前、悔しくないのか」
アルドは唸った。
「あんな奴に頭を下げて、金を投げつけられて……平気なのかよ!」
「悔しい?」
ミナは不思議そうに首を傾げた。
「なぜ? 目的は達成したわ。無傷でやり過ごし、金まで手に入れた。……感情的になって騒ぎを起こし、指名手配されることと比べて、どちらが『得』かしら?」
損得。
効率。
彼女の判断基準は常にそこにある。
アルドは言葉に詰まった。
正論だ。
だが、納得できない何かが胸の奥で燻っている。
「……プライドってものがないのか」
「あるわよ」
ミナは即答した。
そして、真っ直ぐにアルドの目を見据えた。
その瞳には、先ほどの作り笑いとは違う、冷たく燃えるような意志の光があった。
「私のプライドは、あんな男に頭を下げる程度で傷つくほど安くないわ。……私の目的は、世界を救うこと。そのために必要なら、泥水だってすするし、豚にだって媚びる」
彼女の声には、微塵の揺らぎもなかった。
アルドは息を呑んだ。
彼女は、自分が思っていたよりもずっと強く、そして覚悟が決まっていた。
それに引き換え、自分はどうだ。
「英雄」という過去の肩書きにしがみつき、つまらない自尊心を守るために吠え、結果として彼女に守られた。
どちらが本当の「誇り」を持っているのか。
答えは明白だった。
「……悪かった」
アルドは深く息を吐き、頭を下げた。
今度は、心の底からの謝罪だった。
「俺が未熟だった。……お前の言う通りだ」
「分かればいいのよ」
ミナは表情を緩めず、歩き出した。
「行きましょう。ここで立ち止まっていても、泥が乾くだけよ」
アルドは泥まみれの顔を袖で拭い、その後を追った。
背中の剣が、ゴトリと鳴る。
錆びた剣。泥まみれの鎧。
今の自分は、どこからどう見ても、ただの惨めな傭兵だ。
だが、不思議と胸のつかえは取れていた。
惨めなら、惨めなりに這いつくばって進めばいい。
格好をつけて死ぬより、泥を啜ってでも生き延びて、最後に笑ってやる。
ミナの背中が、そう語っているように見えた。
◇
さらに二日後。
長い丘陵を越えた二人の視界に、ついにその巨大な都市が姿を現した。
王都ルミナス。
広大な盆地の中央に鎮座する、白亜の城塞都市。
幾重にも重なる城壁と、その中心に聳える尖塔群は、夕陽を受けて黄金色に輝いている。
美しい。
誰もが息を呑むような、繁栄と権力の象徴。
だが、今のアルドには、その輝きが白々しいメッキのように見えた。
あの美しい壁の内側には、先ほどの貴族のような腐敗と、貧富の差という闇が渦巻いていることを知っているからだ。
「……着いたな」
アルドは丘の上で足を止めた。
五年ぶりの帰還。
かつては英雄として凱旋したこの場所に、今は指名手配犯予備軍の薄汚れた傭兵として戻ってきた。
「ええ。ここからが正念場よ」
ミナが隣に立つ。
彼女の視線は、城壁のさらに向こう、東の空に向けられていた。
この街はあくまで通過点。
だが、ここを通らなければ、その先へは進めない。
「……覚悟はできたか?」
アルドが問うと、ミナはふっと笑った。
それは、初めて見るような、挑発的で不敵な笑みだった。
「聞く相手が違うわよ、元英雄様。……覚悟を問われているのは、あなたの方だわ」
彼女の指が、アルドの胸板をトンと突く。
アルドは苦笑した。
そうだ。
ここには、自分の過去が眠っている。
かつての同僚、嘲笑った貴族たち、そして自分を「役立たず」と切り捨てた世界。
それらと正面から向き合い、通行証をもぎ取らなければならない。
「……違いない」
アルドは背中の剣を背負い直した。
錆びついた鉄塊の重み。
だが、今の彼には、それが自分を支える「背骨」のように感じられた。
「行くぞ。……道化の帰還だ」
アルドは一歩を踏み出した。
その足取りに、もう迷いはなかった。
泥にまみれたブーツが、王都へと続く石畳を力強く踏みしめる。
日が傾き、二人の影を長く伸ばしていく。
その影は、煌びやかな王都の光に飲み込まれることなく、くっきりと大地に刻まれていた。




