第十四話 宿場町での諍い
鉄と硫黄の臭いが染み付いたアルガルドの荒野を背にしてから、十日が過ぎた。
二人の旅路は、西へと進むにつれて劇的な変化を見せていた。
赤茶けた死の大地は、やがて疎らな灌木帯へと変わり、さらに数日歩くと、青々とした草原と豊かな森が広がる穀倉地帯へと変貌を遂げた。
空の色さえも違う。
常に鉛色の煤煙に覆われていた空は、ここでは目が痛くなるほど鮮やかな蒼穹だ。
風は乾いた砂ではなく、湿った土と草の匂い、そして家畜の糞の匂いを運んでくる。
「……臭いわね」
隣を歩くミナが、眉間に深い皺を寄せて呟いた。
彼女はフードを浅く被り直し、不快そうに鼻を指で押さえている。
毒ガスや腐臭には眉一つ動かさなかった彼女が、平和な田舎道の匂いに辟易している様子は、どこか滑稽でもあった。
「そうか? 俺には懐かしい匂いだ。……生きている人間の匂いさ」
アルドは苦笑しながら、大きく息を吸い込んだ。
肺に満ちるのは、堆肥と、焼けるパンと、そして無数の人間が生活することで生じる独特の熱気。
彼らの目の前には、街道沿いに発展した大きな宿場町「カレン」の城壁が見えていた。
王都ルミナスへと続く主要街道の要衝であり、王国領に入って最初の大きな町だ。
「行き交う人の数が多すぎるわ。……非効率的よ」
ミナが視線を巡らせる。
街道は、荷馬車や行商人、旅人たちで溢れかえっていた。
車輪が泥を跳ね上げる音、御者の怒鳴り声、家畜の鳴き声。
それらが混然一体となって、絶え間ない騒音を生み出している。
整然とした行軍や、静寂に満ちた潜入とは無縁の、無秩序なエネルギーの奔流。
「それが『平和』ってやつだ。……行くぞ。まともな飯と、柔らかいベッドが待ってる」
アルドは背中の剣を背負い直し、雑踏の中へと足を踏み入れた。
重い鉄塊の感触は変わらない。
だが、殺気のない空気の中では、その重みも幾分か軽く感じられた。
◇
城門での検問は、拍子抜けするほど緩かった。
衛兵はアルドの薄汚れた格好と背中の錆びた剣を胡乱な目で見たが、「魔物避けのお守りだ」という適当な嘘と、通行税の銀貨数枚であっさりと通してくれた。
アルガルドの殺伐とした検問とは大違いだ。
緊張感の欠如。
だが、それこそがこの国が安定している証拠でもあった。
門をくぐると、そこは喧騒の坩堝だった。
メインストリートの両側には露店がひしめき合い、色とりどりの果物や野菜、布地、陶器が所狭しと並べられている。
肉を焼く香ばしい煙が立ち込め、店主たちの客引きの声が競い合うように響く。
「安いよ安いよ! 取れたてのリンゴだ!」
「そこの兄ちゃん、奥さんへのお土産に綺麗なリボンはどうだい!」
「どけッ! 馬車が通るぞ!」
アルドはその騒音の波に身を任せながら、どこか安堵に近い感情を抱いていた。
五年前、王都を逃げ出した時は、この騒々しさが耳障りで仕方なかった。
だが、死と隣り合わせの荒野を越えてきた今、この無防備な喧騒が、生きていることの証明のように思える。
「……信じられない」
隣でミナがポツリと漏らした。
彼女は呆然とした様子で、通りの一角を見つめていた。
視線の先では、恰幅の良い魚屋の女将と、痩せた客の男が、値段のことで激しく口論していた。
「高いって言ってんだよ! この強突く張り!」
「あァン!? 買えないなら失せな、この甲斐性なし!」
「なんだとぉ!?」
顔を真っ赤にして怒鳴り合う二人。
周囲の人間はそれを止めるどころか、面白がって野次を飛ばしている。
殺し合いに発展するような殺気は微塵もない。
ただの、日常的な諍いだ。
「なぜ争うの? 規格と価格を統一すれば、交渉の余地などないはずよ。……無駄なエネルギーの浪費だわ」
ミナの瞳には、純粋な困惑が浮かんでいた。
彼女にとって、感情を剥き出しにして争うことは、非合理的で理解不能な行為なのだろう。
アルドは肩をすくめた。
「人間は規格品じゃないからな。その日の気分で値段も変われば、虫の居所が悪けりゃ喧嘩もする。……面倒くさい生き物なんだよ」
「……理解できないわ。こんな非効率な社会が、なぜ崩壊せずに回っているの?」
「適当に緩んでいるからさ。ガチガチに締め付けすぎると、どこかで歪みが出る。……お前のいた『楽園』とは違うんだよ」
アルドの言葉に、ミナはハッとしたように口を閉ざした。
彼女の顔色は悪く、このあまりにも人間臭い「ノイズ」に、酔ってしまっているようにも見えた。
アルドはそれ以上深くは突っ込まず、彼女の背中を軽く押した。
「……まずは宿だ。少し静かな場所を探そう」
◇
宿場町の外れにある、少し古びた宿屋「黒猫亭」。
建物は年季が入っているが、掃除は行き届いており、何より大通りの喧騒から離れて静かだった。
一階の酒場で遅めの昼食をとることにした二人は、部屋の隅のテーブルに陣取った。
出されたのは、堅焼きパンと豆のスープ、そして羊肉のロースト。
荒野で食べたハイエナの燻製に比べれば、涙が出るご馳走だ。
「……生き返るな」
アルドはエールを一口飲み、満足げに息を吐いた。
冷たい液体が、乾いた喉を潤していく。
ミナも、スープを口に運びながら、少しだけ表情を緩めていた。
「味付けが濃いわね。……でも、悪くないわ」
「ここの名物だ。食える時に食っておけ」
アルドが肉を切り分けていると、隣の席から大きな笑い声が聞こえてきた。
地元の職人風の男たちが、昼間から酒を飲んで盛り上がっている。
「でよぉ、俺のカミさんがさ、昨日の晩飯にまた焦げたパンを出しやがって!」
「ガハハ! お前の稼ぎが悪いからだろ!」
「うるせぇ! 次は絶対文句言ってやる!」
他愛のない愚痴と、下品な笑い話。
だが、その声には陰湿さはなく、どこかカラッとした明るさがあった。
アルドは横目で彼らを見ながら、ふと自分の剣に目を落とした。
テーブルの脇に立てかけられた、錆びついた鉄塊。
平和な日常の中で、この剣だけが異質な存在感を放っている。
「……平和だな」
アルドは誰に言うともなく呟いた。
五年前、彼はこの「平和」に窒息しそうになって逃げ出した。
剣を振るうことしか知らない自分にとって、平和は退屈という名の毒であり、自分の無価値さを突きつける鏡だった。
だが、死と隣り合わせの旅を経て戻ってきた今、この光景は少し違って見えた。
彼らがこうして馬鹿スカ笑っていられるのは、誰かが泥を被って脅威を排除したからだ。
かつての自分が、そして十年前の仲間たちが命を賭けた結果が、この喧騒なのだ。
(……俺は、何を守りたかったんだろうな)
カインと共に夢見た世界。
それは、こんな風に誰もが自分勝手に生き、喧嘩し、笑い合う世界だったはずだ。
だとすれば、自分が「役立たず」になったことは、ある意味で勝利の証なのかもしれない。
そんな皮肉な考えが頭をよぎる。
「……何を笑っているの?」
ミナに指摘され、アルドは自分が笑みを浮かべていたことに気づいた。
「いや……昔のことを思い出していただけだ。俺も焼きが回ったな」
アルドは肩をすくめ、残りのエールを飲み干した。
その時。
酒場の扉が乱暴に開かれ、店内の空気が一変した。
入ってきたのは、揃いの青いマントを羽織った三人の男たち。
胸には、王国の紋章――「剣と盾」の意匠が刻まれている。
王国騎士団の兵士だ。
それも、街の衛兵のような下級兵士ではない。王都から派遣された正規騎士のようだ。 店内の賑わいがピタリと止む。
職人たちが慌てて姿勢を正し、視線を逸らす。
「おい、店主!」
先頭に立つ若い騎士が、尊大な態度で叫んだ。
整った顔立ちだが、その目には平民を見下す傲慢な光が宿っている。
「この辺りで、怪しい二人組を見なかったか? 薄汚れた男と、銀髪の女だ」
アルドの手が止まった。
ミナが無言でフードを深く被り直す。
探し物か。
だが、今の言葉は明らかに自分たちを指している。
情報局の手配書がここまで回っているのか?
いや、彼らは「王国」の騎士だ。
帝国の諜報機関とは管轄が違う。
「え、ええと……」
カウンターの店主が困惑して言葉を濁す。
騎士の視線が店内を巡回し、隅のテーブルに座るアルドたちに向けられた。
アルドは動かなかった。
逃げれば怪しまれる。
堂々としていればいい。
騎士が、カツカツと足音を立てて近づいてきた。
「おい、そこの」
騎士がアルドのテーブルを見下ろす。
アルドはゆっくりと顔を上げ、無愛想な視線を返した。
「……なんだ?」
「その剣。……ひどい錆だな。古鉄の行商か?」
騎士はアルドの剣を見て、鼻で笑った。
アルドの風貌があまりに薄汚れていたため、手配中の「危険人物」とは結びつかなかったようだ。
「傭兵だ。……金がなくて手入れができてないだけだ」
アルドが低い声で答えると、騎士は呆れたように肩をすくめた。
「傭兵だと? そんな鉄屑で何が斬れる。……最近はゴロツキでもマシな剣を持っているぞ」
騎士の背後にいた二人が、嘲笑うような声を上げた。
アルドの胸の奥で、小さな火種が燻る。
だが、彼はそれを表情には出さず、ただ黙って肉を口に運んだ。
ここで騒ぎを起こせば、関所の通過が難しくなる。
頭を下げてやり過ごす。
それが、大人の対応だ。
「……おい、無視するな」
だが、騎士はアルドの沈黙を不敬と取ったらしい。
苛立ちを露わにし、テーブルを蹴り上げた。
スープがこぼれ、アルドの服にかかる。
「王国騎士が話しかけているんだぞ。その薄汚いフードを取って挨拶くらいしたらどうだ」
騎士の手が、ミナのフードに伸びる。
限界だった。
アルドの右手が、反射的に剣の柄に動く。
こんな若造に、これ以上舐められてたまるか。
英雄のプライドではない。
ただの男としての意地が、理性を焼き切ろうとした。
その瞬間。
「申し訳ありません、騎士様」
涼やかな声が響いた。
ミナが立ち上がり、騎士の前に深く頭を下げていた。
「連れは無骨者で、礼儀を知りません。田舎育ちの無学な男なのです。どうかご容赦ください」
完璧な礼儀作法。
その所作は、ただの旅人とは思えないほど洗練されていた。
騎士は不意を突かれ、毒気を抜かれたような顔をした。
「む……」
「お詫びに、私たちのお代とは別に、皆様のお酒代も持たせていただきます。……どうか、この銀貨で美味しいエールでも召し上がって、機嫌を直してくださいませ」
ミナはテーブルに、自分たちの食事代を遥かに上回る数枚の銀貨を積み上げた。
それを見て、騎士の目が卑しく光った。
怒りよりも、目の前の利益と、頭を下げさせたという優越感が勝ったのだ。
「……ふん。まあいい、分かればいいんだ」
騎士は銀貨を素早く懐に入れると、興味を失ったように手を振った。
「行け。……二度と俺の前にその汚い面を見せるなよ」
アルドは奥歯を噛み締めながら立ち上がった。
屈辱が腹の底で渦巻く。
だが、ミナに引かれるまま、無言で店を出た。
◇
路地裏に出ると、アルドは荒い息を吐き、壁を殴りつけた。
鈍い音が響き、拳の皮が剥ける。
「……クソッ!」
怒りが収まらない。
騎士への怒りではない。
あんな挑発に乗って剣を手に取ろうとした自分への、そしてミナに頭を下げさせ、金を払わせて助けられた自分への情けなさに対する怒りだ。
「短気ね」
ミナが淡々と言った。
彼女は乱れたフードを直し、アルドを冷ややかな目で見ている。
「あそこで剣を取ってどうするつもりだったの? 騎士を殺して、王国の指名手配犯になる? ……私たちの目的は王都への潜入よ。無駄なプライドで計画を潰さないで」
「……分かってる」
アルドは唸るように答えた。
正論だ。
反論の余地もない。
だが、感情は理屈では割り切れない。
「だが、あんなガキに……!」
「我慢なさい。……それが、今のあなたの立場よ」
ミナの言葉は残酷な事実だった。
かつての英雄アルドはもういない。
ここにいるのは、錆びた剣を持った、薄汚れた傭兵だ。
誰からも敬われず、侮蔑され、泥水を啜って生きる存在。
それを受け入れたはずなのに、まだ心のどこかに「俺は違う」という驕りがあったのだ。
「……悪かったな」
アルドは深呼吸をし、沸騰した頭を冷やした。
「助かった。……お前がいなきゃ、今頃大騒ぎになってた」
「ええ。貸しにしておくわ」
ミナは小さく肩をすくめた。
その表情には、呆れと共に、少しだけアルドを気遣うような色が混じっていた。
「宿を変えましょう。あそこには戻れないわ」
「ああ。……今度はもっと安い、ゴロツキしかいないような宿にな」
アルドは自嘲気味に笑った。
高級な場所も、まともな場所も、今の自分たちには似合わない。
日陰者には日陰者の通り道がある。
二人は再び喧騒の中へと歩き出した。
通りの賑わいは相変わらず続いている。
だが、アルドにはその風景が、先ほどとは少し違って見えた。
笑い声も、怒鳴り声も、全てが遠い。
自分はこの「平和」な世界に紛れ込んだ異物であり、決して馴染むことのできない影なのだという事実を、改めて突きつけられた気がした。
背中の剣が、ずしりと重く沈む。
その重さは、これから向かう王都で待ち受けるであろう、さらなる屈辱の予兆のように感じられた。




