第十二話 鉄と影
地下の闇に、鋭利な殺意が走る。
帝国情報局の処刑人、『影刃』。
その二つ名は伊達ではなかった。
男の動きには、予備動作というものが一切存在しない。
筋肉の収縮、重心の移動、それらを極限まで隠蔽し、まるで影が伸びるかのように滑らかに間合いを詰めてくる。
アルドは防御に徹していた。
いや、攻め手がなかった。
右から、左から、時には死角となる背後から。
二本の曲刀が、変幻自在の軌道を描いてアルドの急所を狙う。
それを鞘剣――鉄塊と化した聖剣――で弾き返すのが精一杯だった。
「……くそッ、ちょこまかと……!」
アルドは毒づいた。
苛立ちが募る。
なぜこうも、次から次へと面倒事が降りかかってくるのか。
静かに酒を飲んでいたいだけなのに、なぜ薄暗い地下道で、顔も知らない男に命を狙われなければならないのか。
その「被害者意識」が、彼の剣筋をわずかに濁らせ、反応を遅らせる。
金属と金属が擦れ合う、神経を逆撫でするような高音が断続的に響く。
火花が散り、その瞬きの間にだけ、男の包帯に巻かれた無機質な相貌が浮かび上がる。
「……遅い」
男が初めて口を開いた。
感情のない、乾いた声だった。
「噂の英雄も、地に落ちたものだ。……その剣同様、動きが錆びついている」
挑発ではない。
事実を淡々と述べる、診断のような言葉。
それが余計にアルドの神経を逆撫でした。
「うるせぇよ、包帯男!」
アルドが怒鳴り返した瞬間、男の姿が掻き消えた。
いや、急加速したのだ。
アルドの動体視力を上回る速度で踏み込み、下段から斬り上げる。
アルドは反応が遅れた。
鉄塊を盾にするが、曲刀の切っ先が防御をすり抜け、太腿を浅く切り裂く。
熱い痛みが走り、足の力が抜けそうになる。
「ぐぅッ……!」
アルドは奥歯を噛み締め、痛みを怒りでねじ伏せる。
まただ。また傷が増えた。
後退しようとするが、影刃はそれを許さない。
傷口を執拗に狙うハイエナのように、休む間もなく追撃を加えてくる。
――速い。
――そして、軽い。
アルドは防戦一方の中で、冷静さよりも怒りを募らせていた。
影刃の剣技は完璧だ。無駄がなく、美しいとさえ言える。
だが、決定的に「重み」が足りない。
命を奪うことへの躊躇いや、逆に生きることへの執着。
そういった人間臭い「ノイズ」が完全に排除されている。
まるで、精密にプログラムされた自動人形と戦っているような感覚。
それに引き換え、自分はどうだ。
泥にまみれ、息を切らし、無様に床を這いずり回っている。
錆びた剣は重く、体を縛る鎖のようだ。
この理不尽な重荷が、アルドの怒りの燃料だった。
(……どいつもこいつも、好き勝手言いやがって)
アルドは心の中で吐き捨てた。
スマートに勝つ必要などない。
美しくある必要もない。
ただ、この目の前の不快な障害物を、叩き潰して黙らせたい。
その衝動だけが、彼を突き動かす。
「……終わりだ」
影刃が勝負に出た。
アルドの呼吸が乱れた一瞬を見逃さず、両手の曲刀を交差させ、「X字」の斬撃を放つ。
回避不能の必殺技。
アルドは、逃げなかった。
それどころか、自らその刃に向かって半歩、踏み込んだ。
思考による判断ではない。
「やられる前にやる」という、獣じみた反射と怒りだ。
肉が裂ける音がした。
左肩と右脇腹に、曲刀が深々と食い込む。
激痛が脳髄を焼く。
だが、アルドは倒れない。
食い込んだ刃を、筋肉を収縮させて「掴んだ」のだ。
骨を断たせまいとする、捨て身の拘束。
「な……?」
影刃の目が、初めて驚愕に見開かれた。
武器を引き抜こうとするが、動かない。
アルドの体そのものが、肉の鞘となって敵の武器を封じたのだ。
「捕まえたぞ……幽霊野郎」
アルドは血の泡を吹きながら、獰猛に笑った。
至近距離。
鼻先が触れ合うほどの距離。
この距離なら、速さも技術も関係ない。
「持ってけッ!!」
アルドは右手に握った鞘剣の「石突き」を、影刃のみぞおち目掛けて、杭打ち機のように突き出した。
回避も防御もできない、完全なるゼロ距離攻撃。
重く、湿った衝撃音が地下道に響き渡った。
影刃の体が「く」の字に折れ曲がる。
背中側の衣服が突き破られるほどの衝撃が貫通したのだ。
肋骨が砕け、内臓が破裂する感触が手に伝わる。
「が、は……っ」
影刃の手から曲刀が離れる。
アルドは追撃の手を緩めない。
よろめく男の足を払い、地面に転がすと、その上に馬乗りになった。
もはや剣など使わない。
鉄の手甲を嵌めた拳で、仮面ごとその顔面を殴りつける。
一度。二度。三度。
精密機械のような美しさを誇った暗殺者の顔が、ただの肉塊へと変わっていく。
それは英雄の戦いではなかった。
自分の領域を侵す者を排除しようとする、苛立ちと怒りに満ちた暴力の行使。
男が動かなくなったのを確認し、アルドはようやく拳を止めた。
荒い息と共に、肩と脇腹から大量の血が溢れ出す。
視界が明滅する。
限界だ。
「……アルド!」
闇の奥から、ミナとガンツが駆け戻ってくるのが見えた。
彼を置いて逃げろと言ったのに、戻ってきたのか。
アルドは舌打ちした。
「……余計なことを」
その憎まれ口を最後に、アルドの意識は暗い底へと沈んでいった。
◇
意識が戻った時、そこは揺れる小舟の上だった。
鼻を突くのは、腐敗臭とカビの匂い。
地下水路の淀んだ空気だ。
「……気がついたか、英雄様」
ガンツの声がした。
彼は小舟の艪を漕ぎながら、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
小舟といっても、廃材を組み合わせた筏のような粗末なものだ。
アルドは体を起こそうとしたが、激痛に呻いて崩れ落ちた。
「動かないで。傷が開くわ」
ミナが冷たい手でアルドの肩を押さえた。
彼女はアルドの横に座り、濡れた布で彼の額の汗を拭っている。
その表情は、アルドの苦悶とは対照的に、静かな湖面のように凪いでいた。
痛みを共有するでもなく、かといって突き放すでもない。
ただ「そこに痛みがある」という事実を、そのまま受け入れているような目。
アルドには、その静けさが少し癇に障った。
「……ここは?」
「街の外、スラグ捨て場の排水路よ。ここまでは追ってこないわ」
ミナが淡々と答える。
アルドは自分の体を見た。
肩と脇腹、そして太腿には、幾重にも包帯が巻かれ、血が滲んでいる。
応急処置は完璧だ。おそらく、ガンツの薬とミナの手当てだろう。
「……影刃は?」
「死んだわ。あなたが顔の形が変わるまで殴り殺した」
ミナの言葉に、恐怖や嫌悪の色はない。
ただ、事実を確認する事務的な響きだ。
「そうか……」
アルドは深く息を吐き、天井の岩肌を見上げた。
生きている。
だが、全身が痛む。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。
そんな理不尽への怒りが、ふつふつと湧いてくる。
「……話してもらうぞ」
アルドは不機嫌に言った。
地下道での会話。
ミナが口にした『禁忌』という言葉、そして彼女が知る帝国の秘密について。
「ええ。隠すつもりはないわ」
ミナは振り返り、アルドを真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言うわ。……皇帝は、生きているの」
「……は?」
アルドは眉をひそめた。予想外の言葉に、怒りよりも呆れが先に出る。
「皇帝だと? 十年前、帝国は魔王軍との戦いで壊滅したはずだ。帝都は廃墟となり、皇族の血筋も絶えた。……だからこそ、世界は今の無秩序な状態にある」
それが、この世界の常識だ。
アルド自身、そう信じて疑わなかった。
「ええ。誰もがそう思っている。廃墟と化した帝都には、誰も近づかない。……強力な残留魔力と、『立ち入り禁止』の認識によって、人々は目を背けてきた」
ミナは淡々と言葉を紡ぐ。
「でも、それは欺瞞よ。……廃墟に見えるのは結界によるカモフラージュ。その内側で、帝国は生き延びていたの」
「生き延びていた、だと……?」
「そして、皇帝もね。カイン殿下は亡くなったけれど、その弟君が即位し、秘密裏に国を統治している」
アルドは絶句した。
カインの弟が生きていた?
そして、滅んだはずの帝国が、結界の中で存続している?
「あいつらは、その秘密を守るために動いているのか?」
「それもあるわ。でも、もっと深い理由がある」
ミナはアルドの怒りや混乱を受け流すように、静かな声で続けた。
「今の帝都は、ただ生き延びているだけじゃない。……変貌してしまったの。皇帝が手にした『ある力』によって、そこは誰もが望み、けれど決して叶えてはいけなかった、歪な楽園になってしまった」
「歪な……楽園?」
アルドは鼻で笑った。
「なんだそりゃ。お伽噺か? 俺たちが泥水を啜っている間に、向こうじゃ夢のような暮らしをしてるってか」
「ええ。言葉で説明しても、あなたは信じないでしょう。……あまりにも完璧で、あまりにも異常な光景だから」
ミナはアルドの皮肉には反応せず、ただ遠くを見つめた。
その瞳には、深い恐怖と、それ以上に強い決意の光が宿っていた。
アルドは舌打ちした。
気に入らない。
自分だけが何も知らず、道化のように踊らされている感覚。
そして、全てを知っていながら、どこか達観しているミナの態度も。
「……で、お前はその楽園から逃げてきたってわけか」
「私はその楽園の『異物』だから」
ミナは短く答えた。
「世界を元に戻すには、その根源を断つしかない。でも、私一人の力では皇帝の御前に辿り着くことすらできない」
ミナの視線が、アルドの背中の剣に向けられた。
彼女がアルドを選んだ理由。
護衛のためではない。
彼を「武器」として、道を切り開くためだ。
「……俺を利用するつもりか」
アルドが低く問う。
ミナは悪びれずに頷いた。
「ええ。利用するわ。……でも、選ぶのはあなたよ」
彼女は東の空を指差した。
「このまま引き返して、酒と後悔に溺れる余生を送るか。それとも、傷だらけになっても、その目で真実を確かめに行くか」
アルドは黙り込んだ。
どっちも御免だ、と言いたかった。
だが、最強の暗殺者まで送り込まれて、今さら「降りる」なんて選択肢はない。
「……ちっ、やるしかねえってことかよ」
アルドは頭を掻きむしった。
不満だらけだ。
納得もしていない。
だが、このまま追われ続けるのはもっと腹が立つ。
「おいガンツ、奴らの残りはどうなってる?」
アルドが話題を変えると、老鍛冶師は厳しい顔で答えた。
「指揮官の巨漢は『鉄塊のバロン』と呼ばれる古参だ。部下はあと四人。……全員、影刃ほどじゃねえが、手練れだぞ」
バロン。
大戦時、重装歩兵部隊を率いていた男か。
正面からの衝突なら、今のアルドには分が悪い。
「……逃げ切れると思うか?」
「無理だな。連中は軍用犬より鼻が利く。この排水路を出た瞬間に足跡を追われる」
ガンツの言葉は、残酷な事実を告げていた。
負傷したアルドを連れての逃避行は、遅かれ早かれ追いつかれる。
その事実に、アルドの中で何かが切れた。
もううんざりだ。
コソコソ逃げ回るのも、傷が増えるのも、全部。
「なら、やることは一つだ」
アルドは痛みを堪えて体を起こし、背負っていた剣を引き寄せた。
鞘には、影刃の曲刀を受け止めた新しい傷が刻まれている。
「ここで、叩く」
「正気か? その体で」
「逃げながら戦う方が分が悪い。……それに」
アルドは歪んだ笑みを浮かべた。
それは英雄の顔ではなく、追い詰められた獣の顔だった。
「あいつらが生きてると思うと、腹が立って眠れねえんだよ。……俺の安眠を邪魔する奴は、全員ぶっ殺す」
高潔な決意などない。
あるのは、自分の平穏を脅かす者への苛立ちと、八つ当たりのような殺意だけ。
だが、隣に座るミナは、そんなアルドの未熟な激情を否定せず、ただ静かに受け入れていた。
「分かったわ。……手伝う」
彼女のその落ち着き払った声が、アルドには少しだけ頼もしく、そして少しだけ疎ましく聞こえた。




