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第十話 煤煙に煙る街

 その街は、遠くからでも、まるで大地に空いた巨大な噴気孔のように見えた。

 荒野の地平線に、どす黒い煙が立ち上っている。

 昼なお暗いその煙は、空を鉛色に染め、周囲一帯に硫黄と鉄錆、そして人間の欲望が煮詰まったような独特の悪臭を撒き散らしていた。

 鉱山都市アルガルド。

 かつては帝国随一の鉄鉱石産出量を誇り、「帝国の心臓」とまで謳われた工業都市。

 だが、十年前の大戦で帝国が崩壊すると、後ろ盾を失ったこの街は、暴力と金だけが支配する無法地帯へと転落した。

 今や、大陸中の犯罪者、脱走兵、闇商人たちが吹き溜まる、巨大な「鉄の墓場」だ。

「……ひどい匂いだな」

 アルドはスカーフで口元を覆い、顔をしかめた。

 街に近づくにつれ、空気は粉っぽくなり、喉の奥がイガイガと痛む。

 道端には、廃棄された鉱山列車の残骸や、スラグ(鉱滓)の山が黒い丘のように連なり、植物の姿は完全に消え失せていた。

「魔力汚染とは違う、純粋な汚濁ね。……人間の業が形になったみたいだわ」

 ミナも不快そうに目を細めた。

 彼女は目立たぬよう、泥で汚れた旅装束の上からさらにボロ布のマントを羽織り、顔を深く隠している。

 だが、その隙間から覗く瞳は、周囲の荒廃した景色を油断なく観察していた。

「ここからは気を引き締めろよ。魔獣よりタチの悪い猛獣がうようよしている」

 アルドは背中の剣の重みを確かめ、足を踏み出した。

 巨大な城壁が見えてくる。かつては白亜だった壁も、今はすすで真っ黒に汚れ、至る所に補修の跡と、乾いた血のシミのような汚れが付着していた。

 城門の前には、武装した男たちがたむろしていた。

 正規の衛兵ではない。

 揃いの鎧ではなく、ツギハギの革鎧やチェーンメイルを身につけ、腕には『鎖付きの鉄輪』を模した赤い腕章を巻いている。

 この街を実効支配している犯罪組織、『鉄鎖(てっさ)ギルド』の構成員たちだ。

「おい、そこの二人。止まれ」

 門をくぐろうとしたアルドたちの前に、槍を持った男が立ちはだかった。

 無精髭に濁った目。歯が数本欠けており、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべている。

「入街税だ。一人銀貨二枚。……それと、荷物検査だ。怪しいもんを持ってねえか調べさせてもらう」

 男の視線が、ミナの体のラインを舐めるように這う。

 あからさまな難癖だ。

 アルドは無言で懐から銀貨を四枚取り出し、男の胸元に投げつけた。

「……これで十分だろう。俺たちはただの貧乏な傭兵だ。売れるようなもんも、怪しいもんも持ってない」

 男は銀貨を素早く受け取ると、今度はアルドの背中に目を留めた。

 赤錆に覆われた、巨大な鉄塊。

「なんだァ、そりゃ? 鉄屑か? ……へっ、随分と珍妙なゴミを大事に背負ってるじゃねえか」

 男が嘲笑し、周囲の仲間たちも下品な笑い声を上げる。

 アルドは表情を変えなかった。

 怒りも湧かない。

 今の彼にとって、この剣を馬鹿にされることなど、挨拶代わりの天候の話と同じだ。

「ああ、ただの重りだ。……通っていいか?」

 アルドが凄みのない、枯れた声で言うと、男は興味を失ったように手を振った。

 張り合いのない相手だと思ったのだろう。

「行け行け。……ただし、街ン中で騒ぎを起こすなよ。鉄鎖の掟は厳しいぜ」

 門をくぐり、アルドたちは街の中へと足を踏み入れた。


 ◇


 街の中は、外の静寂とは対照的に、混沌とした熱気に包まれていた。

 狭い路地に露店がひしめき合い、怪しげな薬、出所不明の武器、盗品と思しき宝飾品が並べられている。

 鍛冶場のハンマー音、蒸気機関のピストン音、怒号、嬌声、そして何かが腐ったような異臭。

 それらが混然一体となって、アルドの感覚を麻痺させようとしてくる。

「……まずは宿を探すか、それとも鍛冶屋か」

 アルドが独り言のように呟くと、ミナが小声で囁いた。

「視線を感じるわ」

「ああ、分かってる」

 アルドも気づいていた。

 群衆に紛れて、何人かの視線が自分たちに張り付いている。

 ただの田舎者への値踏みか、それともカモを探すスリか。

 いずれにせよ、長居は無用だ。

「裏通りへ入るぞ。……『古狸の巣穴』という店があるはずだ」

 アルドは記憶を頼りに、迷路のような路地裏へと進んでいった。

 メインストリートの喧騒が遠ざかり、代わりに湿った陰気な空気が漂い始める。

 壁には卑猥な落書きと、鉄鎖ギルドの支配を示す赤いマークが至る所に描かれていた。

 十分ほど歩いた路地の行き止まりに、その店はあった。

 看板はない。

 ただ、錆びた鉄扉に、狸の絵がナイフで雑に彫られているだけだ。

 アルドは扉を三回、独特のリズムで叩いた。

 しばらくして、重い音と共に扉が少しだけ開き、隙間から疑り深い目が覗いた。

「……何用だ」

「十年前の借りを返しに来た。『赤鬼』がツケを払うそうだ」

 アルドが符丁を口にすると、中の目は驚いたように見開かれた。

 扉が大きく開く。

「……入りな。まさか、生きてるとは思わなかったぜ」

 中から現れたのは、右腕が義手で、顔の半分が火傷で爛れた小柄な老人だった。

 名はガンツ。

 かつて帝国軍の工兵部隊に所属し、アルドの部隊とも連携したことのある、腕利きの鍛冶師だ。

 戦争で右腕を失ってからは、この街に潜り込み、裏社会で武器の修理や密造をして生計を立てていると聞いていた。

 薄暗い店内には、オイルランプの明かりだけが揺れていた。

 壁には様々な工具と、修理中の武器が所狭しと並んでいる。

「久しぶりだな、ガンツ」

 アルドがフードを脱ぐと、老人は義手の指先でカウンターを叩いた。

「英雄アルドか。……いや、そのツラはただの『死に損ない』だな。随分と老け込んだもんじゃねえか」

「お互い様だな」

「……そっちの嬢ちゃんは?」

 ガンツの視線がミナに向けられる。

 ミナもフードを外し、冷徹な瞳で老人を見返した。

「連れだ。……事情があってな、少しの間、匿ってほしい」

「厄介事か。……まあ、いい。金さえ払えば、誰だろうと客だ」

 ガンツは酒瓶を取り出し、汚れたグラスに注いだ。

 アルドはそれを一気に煽り、安堵の息をついた。

 久しぶりの酒。

 だが、以前のように思考を濁らせるためではなく、張り詰めた神経を少しだけ緩めるための薬としての酒だ。

「で、用件は隠れ家だけじゃねえだろ? その背中のデカブツ、どうにかしたいんじゃねえのか?」

 ガンツが顎でしゃくる。

 アルドは苦笑し、背中の剣を下ろしてカウンターに置いた。

 ゴトリ、と重い音が響く。

「……見立ててくれ」

 ガンツは片眼鏡を取り出し、錆びついた聖剣をのぞき込んだ。

 義手の指先から小さな針のような工具を出し、錆の表面を慎重に突く。

 長い沈黙。

 やがて、ガンツは顔を上げ、呆れたように首を振った。

「こりゃあ、ひでえ。……物理的な錆じゃねえな」

「分かってる。呪いか、魔法か……」

「いや、もっと性質たちが悪い。『拒絶』だ」

 ガンツは剣を指で弾いた。

 カン、と乾いた音がするが、その音はどこか沈んでいた。

「金属そのものが、変質してやがる。鞘と刀身が分子レベルで混ざり合って、一つの鉱物に成り代わろうとしてる。……こいつはもう、剣として機能することを拒んでるんだよ」

 アルドは唇を噛んだ。

 ミナの言っていたことと符合する。

 剣は、自ら封印を選んだ。

「直せるか?」

「俺の腕じゃ無理だ。……というより、物理的に引き剥がそうとすれば、刀身が砕ける。このまま使うしかねえな」

 やはりか。

 アルドは小さく息を吐き、剣を背負い直した。

 期待はしていなかった。

 だが、専門家から「不可能」を宣告されると、やはり胸に重い鉛が溜まる。

「だが、鞘の補強と、表面の錆落とし、それにグリップの巻き直しくらいならやってやるよ。……今のまじゃ、ただの汚ねえ鉄屑だからな」

 ガンツの言葉に、アルドはわずかに表情を緩めた。

「頼む。……代金はこれで」

 残りの銀貨を全て置く。

 ガンツはニヤリと笑い、金を受け取った。


 その時だった。

 店の外、路地の入り口あたりで、何かが爆ぜるような音がした。

 さらに、複数の足音が近づいてくる。

「……客か?」

 アルドの目が鋭くなる。

 ガンツが舌打ちをし、ランプの火を絞った。

「チッ、嗅ぎつけやがったか。……鉄鎖の連中だ。最近、外部からの人間には神経質になってやがる」

 直後、鉄扉が乱暴に叩かれ、店内の空気がビリビリと震えた。

「開けろ、ガンツ! 鼠が入り込んだとの情報がある! ギルドの査察だ!」

 野太い怒声。

 アルドはミナと視線を合わせた。

 ミナは既に短剣に手をかけ、臨戦態勢に入っている。

 裏口はない。この狭い店内で暴れれば、ガンツにも迷惑がかかる。

「……俺が出る」

 アルドは小声で言い、剣のベルトを締め直した。

 ガンツが止めようとしたが、アルドは首を横に振った。

「迷惑料だと思ってくれ。……すぐに片付ける」

 アルドは扉に向かって歩き出した。

 その背中には、酒場の乱闘で見せた無気力さはなく、戦場に赴く兵士の冷徹な空気が漂っていた。

 鉄扉のかんぬきを外す。

 錆びついた蝶番が耳障りな悲鳴を上げ、扉が開く。

 外には、十人ほどの武装した男たちが待ち構えていた。

 先頭に立つのは、城門で見かけた男とは違う。

 全身を黒いプレートメイルで固め、巨大な戦斧を担いだ巨漢だ。

 その兜の奥にある目は、爬虫類のように冷たく光っていた。

「……ガンツの知り合いか? 貧相な鼠だ」

 巨漢がアルドを見下ろして嘲笑う。

「連れの女を出せ。……上からの命令でな。銀髪の女を探してる」

 アルドの心臓が早鐘を打った。

 「上」からの命令。

 ただの街の検問ではない。彼らは最初から、ミナを特定して探している。

 情報が漏れている?

 どこから?

 いや、考えるのは後だ。

「……人違いだろ。俺は一人だ」

 アルドは低く答えた。

 巨漢はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「嘘をつくのが下手だな。……まあいい。死体から探すまでだ」

 巨漢が戦斧を振り上げた。

 問答無用。

 交渉の余地はない。

 アルドは踏み込んだ。

 相手が斧を振り下ろす初動に合わせて、懐へと潜り込む。

 だが、巨漢の反応は速かった。

 振り下ろそうとした斧を途中で止め、柄でアルドを突き飛ばそうとする。

 歴戦の動きだ。

 ただのゴロツキではない。

 アルドは背中の剣を盾にして、柄の一撃を受け止めた。

 鉄と鉄が噛み合う不快な衝撃音が、骨の髄まで響く。

 だが、足は止めない。

 衝撃を利用して体を回転させ、遠心力を乗せた「鞘撃ち」を、巨漢の膝関節に叩き込む。

 分厚い肉と金属を叩いた鈍い感触があったが、巨漢は微動だにしなかった。

 厚い鉄の膝当てが、衝撃を殺したのだ。

「……ハエが止まったか?」

 巨漢が笑う。

 そして、裏拳のような一撃がアルドを襲った。

 回避が間に合わない。

 アルドは路地の壁まで吹き飛ばされ、背中を強打した。

「ぐっ……!」

 肺が潰れるような衝撃。

 強い。

 野盗や、森の怪物とは質が違う。

 純粋な対人戦闘の技術を持ち、かつ身体能力も桁外れだ。

「アルド!」

 店の中からミナが飛び出そうとする。

 だが、路地の屋根の上から、数人の影が降り立った。

 クロスボウを構えた軽装の兵士たち。

 完全に包囲されている。

「チェックメイトだ、鼠ども」

 巨漢が斧を引きずりながら近づいてくる。

 絶体絶命。

 アルドは霞む視界で、巨漢の鎧の胸元にある紋章を見た。

 鉄鎖ギルドのマークではない。

 黒い背景に、銀色の『双頭の蛇』が絡み合う意匠。

 ――帝国情報局。

 かつての大戦の裏で暗躍していたとされる、帝国の影の部隊。

 その中でも、暗殺と諜報を専門とする「掃除屋」の部隊章だ。

 野盗の親玉どころの話ではない。

 十年前の亡霊が、今ここに蘇り、牙を剥いている。

「……ミナ、逃げろ」

 アルドは血を吐き捨て、剣を杖にして立ち上がった。

 勝てるか?

 この体で。

 この錆びた剣で。

 分からない。

 だが、退くわけにはいかない。

 ここを引けば、後ろにいるミナも、ガンツも殺される。

「久しぶりだな、帝国の犬っころ」

 アルドはニヤリと笑った。

 その顔は、泥と血にまみれ、酷く歪んでいたが、その瞳だけは獣のように爛々と輝いていた。

 スイッチが入った。

 英雄としてのスイッチではない。

 死地を楽しむ、狂戦士としてのスイッチが。

「その首、錆びた剣でへし折ってやる」

 迷いはない。

 煤煙に煙るアルガルドの路地裏。

 錆びついて止まっていたアルドの時間が、十年越しの亡霊たちとの殺し合いによって、再び激しく動き出した。

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