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第九話 錆びついた誇り

 森を覆っていた湿った闇が、嘘のように晴れた。

 『黒霧こくむの森』を抜けた二人の前に広がっていたのは、なだらかな丘陵地帯と、その先に続く広大な草原だった。

 頭上には、突き抜けるような青空がある。

 雲の切れ間から降り注ぐ陽光が、泥と樹液にまみれた二人の体を暖かく包み込んでいた。

「……眩しいな」

 アルドは目を細め、手をかざした。

 森の中での数日間、灰色の霧と薄暗い闇に慣れきっていた網膜が、強烈な光に焼かれるような感覚を覚える。

 だが、それは不快な痛みではなかった。

 生きている、という強烈な実感をもたらす、生命の熱量だった。

 振り返れば、背後には緑と黒の絵の具をぶちまけたような不気味な森が、巨大な壁となって聳え立っている。

 あの深淵の中で、死と隣り合わせの時間を過ごしていたことが、今となっては遠い夢の出来事のようにさえ思えた。

「ひとまず、水場を探しましょう。……この格好のまま人里へ出るわけにはいかないわ」

 ミナが自分の服を見下ろして言った。

 彼女の旅装束は、植物の樹液や泥、そして先ほどの怪物の体液で、元の色が判別できないほど汚れていた。

 もちろん、アルドも同様だ。

 全身から漂う強烈な異臭は、風下にいれば獣でさえ逃げ出すレベルだろう。

「ああ。近くに小川があるはずだ」

 アルドは地図を取り出すことなく、記憶を頼りに丘を下り始めた。

 足取りは重いが、森の中を歩いていた時のような、地面に足を取られる不快感はない。 乾いた土の感触。

 草を踏む乾いた音。

 それらが、彼を現世へと引き戻してくれた。

 丘の麓を流れる清流を見つけた二人は、そこでようやく一息ついた。

 冷たい水で顔を洗い、泥を落とす。

 川面に映る自分の顔を、アルドはじっと見つめた。

 無精髭、こけた頬、目の下のクマ。

 相変わらずの、くたびれた中年男の顔だ。

 だが、その瞳の奥にある色は、酒場のカウンターで腐っていた時の「泥のような濁り」とは、決定的に違っていた。

 そこには、小さくとも確かな「意志」の光が宿っていた。

「……マシな顔になったわね」

 背後から声をかけられ、アルドは顔を上げた。

 ミナが濡れた髪を拭きながら立っていた。

 彼女もまた、泥を落とし、本来の玲瓏な美貌を取り戻している。

「そうか? 相変わらずの死に損ないだ」

「いいえ。少なくとも、腐った魚のような目ではないわ。……今は、傷ついた野良犬くらいの目つきにはなっている」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 アルドは苦笑し、革鎧の点検を始めた。

 吸血蔓に締め上げられた箇所は革が伸び、岩喰らいの一撃を受けた脇腹部分は留め具が歪んでいる。

 満身創痍だ。

 だが、最も過酷な扱いを受けたはずの、彼の背中にある「相棒」はどうだ。

 アルドは剣を膝の上に置いた。

 鞘の表面を覆っていた赤錆は、度重なる打撃によって所々剥落し、その下から黒ずんだ地金が露出している。

 そして何より目立つのは、鞘の中ほどに刻まれた、深い二本の傷跡だ。

 岩喰らいの牙が食い込んだ痕跡。

 あの怪物の顎をこじ開けた時にできた、名誉ある負傷だ。

「……さすがは聖剣、か」

 アルドは傷跡を指でなぞり、感嘆の息を漏らした。

 岩喰らいの牙を受け止め、テコの原理で顎をこじ開けたのだ。

 普通の鉄剣なら、間違いなくへの字に曲がるか、折れている場面だった。

 だが、この剣は違った。

 鞘こそ傷つき、表面は錆びているが、そのシルエットには一分の歪みも生じていない。 定規で引いたように真っ直ぐな、美しい直線のままだった。

「その傷、どうするつもり? 砥石で磨く?」

 ミナが覗き込んでくる。

 アルドは首を横に振った。

「いや、このままでいい。……これが今の俺の姿だ」

 かつての栄光にしがみつき、錆びていないフリをするのはもうやめた。

 錆びているなら錆びているなりに。

 抜けないなら抜けないなりに。

 決して折れず、曲がらないこの芯の強さを信じて、泥を啜ってでも生き延びる。

 この牙の跡は、その覚悟の証だ。

「そう。……悪くない判断ね」

 ミナは満足そうに頷き、視線を東の空へ向けた。

「ここから先は、かつての帝国領よ。今はいくつもの小勢力が割拠する無法地帯になっているわ」

 地図を広げる。

 現在地から旧帝都までは、まだ全行程の三分の一にも満たない。

 だが、最大の難所の一つである森を抜けたことで、ルートの選択肢は増えた。

「一番近いのは、鉱山都市『アルガルド』か。……あそこなら、装備の修理もできるかもしれない」

 アルドが指差すと、ミナは眉をひそめた。

「アルガルド……。あそこは今、盗賊ギルドが支配しているという噂よ。正規の鍛冶屋がまともに営業しているとは思えないわ」

「上等だ。まともな店なら、こんな錆びた剣を持ち込んだ時点で門前払いだからな。……裏の鍛冶屋の方が、口も堅くて腕もいい場合がある」

 アルドの言葉に、ミナは少し驚いたような顔をした。

 今までの彼なら、「危険な場所は避けよう」「もっと安全な道はないか」と消極的な提案をしていただろう。

 だが今の彼は、リスクを承知の上で、前に進むための具体的な手段を模索している。

「変わったわね、あなた」

「……元の鞘に戻りつつあるだけさ。中身は錆びついたままだがな」

 アルドは剣を背負い、立ち上がった。

 背中の重みは変わらない。

 五年分の空白、失った信頼、過去の罪悪感。

 それらが消えたわけではない。

 だが、その重みに押し潰されるのではなく、それを背負って歩くための足腰の強さが、少しずつ戻ってきているのを感じていた。

 風が吹いた。

 草原を渡る風が、二人の髪を揺らし、背中を押すように東へと流れていく。

「行くぞ、ミナ。……日が暮れる前に、休める場所を探さないとな」

 アルドが歩き出すと、ミナも無言でその横に並んだ。

 出会った頃の、互いに距離を測り合うような冷たい空気は、もうそこにはなかった。

 あるのは、死線を共に潜り抜けた「協力者」としての、奇妙な連帯感だ。

 かつて英雄と呼ばれた男は、今はもういない。

 ここにいるのは、錆びた剣を背負った、ただの傭兵アルドだ。

 だが、その背中は、酒場のカウンターで丸まっていた頃よりも、幾分か大きく、そして頼もしく見えた。


 彼らの旅はまだ始まったばかりだ。

 旧帝都に眠る謎、ミナを追う者の影、そしてアルドの剣が錆びついた本当の理由。

 数多の困難が待ち受ける荒野へと、二つの影は力強く踏み出していった。

 太陽が中天に昇り、長く伸びていた影が短くなっていく。

 それはまるで、彼らが引きずっていた過去の影が、少しずつ形を変え、新たな一歩へと集約されていくかのようだった。

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