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第八話 鈍色の咆哮

 夜が明け、森に朝が訪れても、世界は灰色のままだった。

 立ち込める霧はいっそう深くなり、視界はわずか数メートル先さえも白濁した闇に閉ざされている。

 二人は無言で歩いていた。

 足元の泥濘(ぬかるみ)は深さを増し、一歩進むごとに足首に絡みつくような抵抗を見せる。まるで森そのものが、彼らの脱出を拒んでいるかのようだ。

「……近いな」

 アルドは足を止めず、低く呟いた。

 肌を刺すような重圧感。

 空気の振動。

 かつて戦場で何度も味わった、「死」が物理的な質量を持ってそこに在る感覚だ。

 この先に、何かがいる。

 この歪んだ生態系の頂点に君臨する、圧倒的な捕食者が。

「ええ。風が止まったわ」

 ミナもまた、短剣をいつでも抜けるよう腰に手を添え、油断なく周囲を警戒している。 吸血蔓の群生地を抜けた先、地図上では森の出口に当たるはずの盆地。

 そこは、不気味なほどに静まり返っていた。


 その時だった。

 前方の霧が、巨大な質量によって押し退けられるように揺らいだ。

 地面の底から響くような地鳴りと共に、霧の中からその「山」が現れた。

 それは、巨大な亀のようにも、棘だらけのヒキガエルのようにも見えた。

 体高は三メートルを超え、全身が苔むした岩石のような甲羅と、鋭利な水晶の棘で覆われている。

 だが、最も異様なのはその「口」だった。

 本来あるべき頭部の位置には目鼻がなく、ただ巨大な円形の「穴」が開き、そこから幾重にも重なった牙と、強酸性の唾液を滴らせる紫色の舌が覗いている。

 『岩喰らい(ロック・イーター)』の変異種。

 本来は鉱山地帯に生息し、鉱石を食らう温厚な魔獣のはずだ。

 だが、魔力汚染によって変貌したこの個体は、動くもの全てを貪り食う殺戮の化身となり果てていた。

「……冗談だろ」

 アルドは乾いた笑いを漏らした。

 十年前なら、部隊を指揮して攻城弩バリスタを撃ち込み、魔法使いの集中砲火で仕留めた相手だ。

 だが今、彼の手にあるのは錆びた鉄屑一本。

 隣にいるのは短剣を持った小柄な女一人。

 勝算など、どこにも見当たらなかった。

「来るわッ!」

 ミナの警告と同時に、怪物がその巨体を揺らした。

 見た目からは想像できない瞬発力で、泥飛沫を上げながら突進してくる。

 まるで崩落した岩山が迫ってくるような迫力。

「散開しろッ!」

 アルドは右へ、ミナは左へと跳んだ。

 直後、二人がいた場所を怪物の巨体が通過し、背後の巨木を爪楊枝のようにへし折った。

 凄まじい破壊音と振動が、アルドの三半規管を狂わせる。

「硬そうね……!」

 ミナが着地と同時に駆け出し、怪物の側面へと回り込む。

 彼女は跳躍し、空中で短剣を振るった。

 不可視の斬撃――「真空の刃」が、怪物の脚部を襲う。

 だが。

 甲高い金属音が響き、火花が散っただけだった。

 怪物の皮膚を覆う鉱石質の鱗は、鋼鉄よりも硬い。

 ミナの鋭利な斬撃は、表面に傷一つつけることさえできずに弾かれたのだ。

「斬撃は通じないわ! 硬すぎる!」

 ミナが叫び、バックステップで距離を取る。

 怪物は彼女に狙いを定めたようだ。

 巨大な口を開き、紫色の毒霧を吐き出す構えを見せる。

「させるかよッ!」

 アルドは吼え、怪物の背後から飛びかかった。

 背中の剣を抜き放ち、その重量を乗せて甲羅の一部を叩く。

 岩を砕くような重い打撃音が響く。

 だが、剣は弾かれ、アルドの手首に強烈な痺れが走った。

 まるで城壁をハンマーで叩いたような感触。

 甲羅の一部が砕け、石片が飛んだが、怪物の巨体には些細なダメージでしかない。

 怪物が喉の奥から絞り出すような低い唸り声を上げ、鬱陶しそうに身をよじり、太い尻尾を振り回した。

 丸太のような尾が、アルドの脇腹を襲う。

 回避は間に合わない。

 アルドはとっさに剣を盾にして防御姿勢を取った。

 全身を砕くような衝撃。

 アルドの体は枯れ葉のように吹き飛ばされ、泥水の中に叩きつけられた。

 肺の中の空気が強制的に排出され、視界が白く明滅する。

 剣を盾にしていなければ、内臓破裂で即死していただろう。

 だが、それでも肋骨の一本か二本はいっているかもしれない。

「アルド!」

 ミナの声が遠く聞こえる。

 怪物はアルドへの興味を失い、再びミナへと向き直っていた。

 ミナは素早い動きで攻撃を回避しているが、決定打がない。

 短剣の斬撃は全て弾かれ、魔法による攻撃も、あの分厚い甲羅と魔法抵抗力を持つ鱗の前では効果が薄い。

 このままでは、いずれスタミナが尽き、すり潰される。


 ――またか。

 ――また、俺は何もできずに泥を舐めるのか。


 アルドは震える手で地面を掴み、体を起こした。

 口の中に鉄錆の味が広がる。

 泥まみれの視界の先で、ミナが追い詰められている。

 怪物は巨大な前足を持ち上げ、彼女を踏み潰そうとしていた。

 斬れない。

 刺さらない。

 俺の剣は、錆びついたゴミだ。

 だが。

 アルドの指先が、足元に落ちていた剣の柄に触れた。

 ずしりとした重み。

 先ほどの打撃――尻尾の一撃を受け止めた時、剣は折れなかった。曲がりもしなかった。

 かつて聖剣と呼ばれた素材は、腐っても聖剣。

 その強度は、並の鋼鉄を遥かに凌駕している。


 ――斬るな。

 ――砕け。


 脳裏に、吸血蔓との戦いで得た教訓が閃く。

 相手が硬いなら、その硬さを利用すればいい。

 外側から削るのではなく、衝撃を「内部」に通すのだ。

「ミナッ! 目を狙え!」

 アルドは叫び、痛む脇腹を無視して走り出した。

 ミナはこちらを見ず、しかし即座に反応した。

 彼女は懐から閃光玉を取り出し、怪物の目の前で炸裂させた。

 音もなく、強烈な閃光が霧を白く染める。

 目を持たない怪物だが、光量感知器官はあるのだろう。怪物は怯み、踏み潰す動作を一瞬止めて、頭部を高く持ち上げた。

 その瞬間、怪物の腹の下、甲羅と筋肉の継ぎ目が無防備に晒された。

 アルドは泥濘を蹴った。

 全速力。

 泥が跳ね、心臓が早鐘を打つ。

 怪物の懐へと滑り込む。

「喰らえッ!!」

 アルドは、剣の柄を両手で握りしめ、体を独楽のように捻った。

 狙うのは、鱗と甲羅の隙間。

 そこにある関節部分だ。

 斬撃ではない。

 剣の「腹」の部分、その最も厚みのある場所に、ハンマーのように叩き込むフルスイング。

 重厚な破壊音が、森の空気を震わせた。

 十キロの鉄塊が、遠心力と全身のバネを乗せて一点に叩きつけられる。

 その運動エネルギーは、鋭利な刃物など比較にならない「衝撃波」となって、怪物の内部へと浸透した。

 岩石質の鱗が粉々に砕け散る。

 その下にある骨と筋肉が、衝撃に耐えきれずに挫滅する感触が手に伝わった。

 怪物が苦悶の咆哮を上げ、体勢を崩した。

 支えを失った巨体が傾き、地面に膝をつく。

「まだだッ! 次は頭だッ!」

 アルドは止まらない。

 攻撃の反動で痺れる手をねじ伏せ、剣を振り上げる。

 怪物は頭を振り乱し、アルドを噛み砕こうと迫る。

 巨大な口。

 牙の檻。

 アルドは逃げなかった。

 真正面から、その口に向かって踏み込む。

 噛まれるのが先か、叩くのが先か。

 恐怖はない。あるのは、研ぎ澄まされた殺意と、沸騰するような闘争本能だけだ。

「閉じてんじゃ……ねぇよッ!!」

 怪物が口を閉じようとしたその瞬間、アルドは剣の先端――鞘の石突きを、その開かれた顎の間へと突き入れた。

 耳障りな金属音を立てて、怪物の牙が錆びた鞘に食い込む。

 並の剣なら、飴細工のように噛み砕かれていただろう。

 だが、この剣は折れない。

 かつて魔王の心臓を貫いた伝説の金属は、赤錆に覆われてもなお、その不滅の輝きを内部に秘めていた。

 怪物の顎が、閉じられない。

 つっかえ棒となった聖剣が、強靭な顎の力を真正面から受け止めている。

「う、おおおおおッ!」

 アルドは剣の柄に全体重をかけ、さらに押し込んだ。

 テコの原理。

 支点は怪物の下顎。力点はアルドの全身。

 無理やりこじ開けられる顎関節が、不吉な音を立てて悲鳴を上げる。


 そして。

 生木を裂くような音が響き、怪物の顎の骨が外れた。

 口腔内という急所を晒し、無防備になった怪物の喉奥。

 そこに、ミナが舞い降りた。

 彼女はアルドの肩を踏み台にし、高く跳躍していたのだ。

「終わりよ」

 冷徹な宣告。

 彼女の短剣が、怪物の喉の奥、柔らかい粘膜の深部へと突き立てられた。

 同時に、放たれる圧縮された風の魔力。

 怪物の体内へ送り込まれた真空の刃が、内側から脳髄と心臓をズタズタに切り裂いた。

 怪物の巨体が痙攣し、やがて糸が切れたように脱力した。

 地響きを立てて、その山が崩れ落ちる。


 静寂が戻った。

 立ち込めていた霧が、主の死を知ったかのように、急速に晴れていく。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

 アルドは泥の中に膝をつき、荒い息を吐いた。

 全身が痛む。

 特に、怪物の牙を受け止めた剣を持つ腕は、感覚がないほど痺れていた。

 剣の鞘には、怪物の牙による深い傷跡が刻まれていた。赤錆が剥がれ、その下から鈍く光る銀色が覗いている。

「……無茶をする男ね」

 ミナが怪物の死体から降り立ち、呆れたように言った。

 だが、その声には以前のような刺々しさはなく、どこか安堵したような響きがあった。

「あいつの顎をこじ開けるなんて、正気じゃないわ。もし剣が折れていたら、上半身を食いちぎられていたのよ?」

「……折れるわけがない」

 アルドはよろめきながら立ち上がり、剣についた怪物の体液を振るい落とした。

「腐っても聖剣だ。……俺とは違う」

 それは、ただの強がりではなかった。

 この戦いで、彼は確信したのだ。

 この剣はまだ死んでいない。

 錆びつき、抜けなくなり、見た目は鉄屑になっても、その芯にある「強さ」は失われていない。

 そしてそれは、持ち主である自分自身にも言えることなのかもしれない――と。

「行きましょう。出口が見えるわ」

 ミナが指差した先。

 晴れた霧の向こうから、まばゆい陽光が差し込んでいた。

 森の出口だ。

 アルドは剣を背負い直した。

 その重みは相変わらずだ。

 だが、今の彼にとって、その重さは苦痛ではなく、確かな頼もしさへと変わっていた。

 泥と血にまみれ、錆びた剣を背負った元英雄。

 その姿は、かつての煌びやかな騎士の面影とは程遠い。

 だが、その一歩一歩は、確かに大地を踏みしめていた。


 森を抜ければ、そこは新たな土地。

 そして、新たな困難が待ち受ける世界だ。

 アルドは一度だけ振り返り、沈黙した怪物の骸を一瞥すると、前を向いて歩き出した。 その背中には、五年前にはなかった、野太い覚悟が宿り始めていた。

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