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第七話 告白の夜

 吸血蔓ヴァンパイア・ヴァインの群生地を抜けた頃には、森は完全な夜に沈んでいた。

 頭上を覆う厚い樹冠が月明かりを遮断し、視界にあるのは闇と、時折燐光を放つ奇妙な菌類の青白い光だけだ。

 空気はさらに湿り気を帯び、腐葉土の発酵する熱気と、夜行性の毒花が放つ甘い芳香が混ざり合って、呼吸をするだけで肺が重くなるようだった。

「……今日はここまでだ」

 アルドは足を止めた。

 これ以上進むのは危険すぎる。

 夜の森は、昼間とは全く異なる捕食者たちの領域だ。

 彼らが選んだ野営地は、巨大な倒木の上だった。

 地面の泥沼からは数メートル高い位置にあり、周囲を見渡せる。

 幹は苔に覆われているが、中央部分は乾燥しており、焚き火をするスペースもあった。

「火は最小限にするぞ。煙の匂いで何が寄ってくるか分からん」

 アルドは手早く枯れ枝を集め、小さな火を熾した。

 揺らめく炎が、二人の疲労の色が濃い顔を照らし出す。

 ミナは無言で革袋の水を含み、干し肉を齧っている。

 アルドは背中から剣を下ろし、布で丁寧に汚れを拭き始めた。

 先ほどの戦闘で叩きつけた衝撃により、表面の赤錆がわずかに剥がれ落ち、その下から黒ずんだ地金が覗いている。

 だが、鞘と刀身の癒着は解けていない。

 むしろ、衝撃でさらに噛み込んでしまったかのように、頑として動かなかった。

「……無駄なことを」

 ミナが炎を見つめたまま呟いた。

 嘲笑ではない。事実を指摘する冷徹な響きだ。

外面(そとづら)の錆を落としても、中身が腐り落ちていては意味がないわ」

「……分かっている」

 アルドは手を止めず、布で鉄塊を磨き続けた。

 これは習慣だ。

 毎晩、剣の手入れをしなければ落ち着かない。

 たとえそれが、もう二度と抜けない鉄屑だとしても、この儀式だけが彼を「剣士」というアイデンティティに繋ぎ止めていた。

「ねえ、アルド」

 不意に、ミナが視線を彼に向けた。

 青白い燐光を反射するその瞳は、森の闇よりも深く、全てを見通すように静かだった。

「気になっていたの。……あなたの『時間』について」

「時間?」

「ええ。十年前、あなたはこの国を救った英雄だった。それは歴史的事実よ。でも、この剣が錆びつき、あなたが酒に溺れるようになったのは五年前からだと聞いたわ」

 ミナは一度言葉を切り、探るような目でアルドを見据えた。

「残りの五年間、あなたは何をしていたの? 英雄としての栄光を浴びていたはずのその五年間で、一体何があって、そんな風に壊れたの?」

 アルドの手が止まった。

 焚き火が爆ぜる音だけが、沈黙を埋める。

 痛いところを突く女だ。

 彼女は容赦がない。

 傷口に塩を塗り込み、膿を絞り出すように真実を暴こうとする。

「……何も、していないさ」

 アルドは剣を横に置き、膝を抱えた。

 炎の熱さが、過去の記憶を呼び覚ます。

「十年前、魔王を倒し、戦争は終わった。俺は英雄として祭り上げられ、王都でパレードをし、勲章をもらった。……だが、それだけだ」

「それだけ?」

「ああ。平和になった世界に、魔物を殺すことしか能のない英雄の居場所なんてなかったんだ」

 アルドは自嘲気味に笑った。

 戦後の復興期。

 人々が求めたのは、瓦礫を片付ける石工であり、畑を耕す農夫であり、商売を回す商人だった。

 剣を振るうことしか知らない男は、平和の象徴として飾られるだけの「銅像」になった。

「最初の何年かは、それでも良かった。宴に呼ばれ、昔話を語り、高い酒を飲む。……だが、次第に気づいたんだ。誰も俺自身を見ていないことに」

 彼らが崇拝していたのは「魔王を倒した聖剣の勇者」という記号であって、アルドという人間ではなかった。

 政治的な駆け引きの道具に使われ、貴族たちの派閥争いに巻き込まれ、見世物のように扱われる日々。

「俺は、戦場よりも王宮の方が恐ろしかったよ。笑顔の裏に殺意を隠し、言葉のナイフで互いを刺し合う。……そんな場所に五年もいた」

 そして、五年前のある日。

 久しぶりに発生した魔物討伐の依頼を受け、勇んで出撃しようとした朝。

 剣が、抜けなかった。

「笑えるだろう? 手入れは欠かさなかった。前の晩まで、確かに抜けたんだ。それなのに、あの日突然、鞘と刃が溶接されたみたいに動かなくなった」

 どんなに力を込めても、万力を使っても、魔導師に頼んでも、剣は抜けなかった。

 まるで、剣そのものが「お前の役目は終わった」と告げているかのように。

 あるいは、「お前のような腑抜けに、これ以上振るわれるのは御免だ」と拒絶したのか。

「剣が抜けなくなった英雄なんて、ただの道化だ。……そこからの転落は早かったよ。失望、嘲笑、そして忘却。俺は王都を逃げ出し、この辺境へ流れ着いた」

 アルドは一気にまくし立て、肩で息をした。

 誰かにこんな話をしたのは初めてだった。

 酒場の親父にも、かつての戦友にも言えなかった、惨めな真実。

 平和に殺され、自身の存在意義を見失い、武器にすら見放された男の末路。

 ミナは静かに聞いていた。

 同情の色はない。

 だが、軽蔑の色もなかった。

 ただ、壊れた時計の構造を理解した時のような、納得の表情がそこにあった。

「……なるほどね。平和という名の毒に侵された、というわけか」

 彼女は細い指で、自身の胸元にあるペンダント――カインの紋章が入ったそれを弄んだ。

「でも、それは少し違うかもしれないわ」

「あ?」

「剣は、あなたを見放したんじゃない。……守ったのかもしれないわよ」

 意外な言葉だった。

 アルドは眉をひそめた。

「守っただと? この鉄屑がか?」

「ええ。もしその時、剣が抜けていたら、あなたはどうしていた? 政治の道具として使い潰され、望まぬ戦いに駆り出され……今頃は、もっとひどい形で壊れていたかもしれない」

 ミナは立ち上がり、焚き火に薪をくべた。

 火の粉が舞い上がり、闇に消えていく。

「この剣は、あなたが『本当に戦うべき時』が来るまで、その刃を封印することを選んだ。……そう考えることはできない?」

「……買いかぶりすぎだ。これはただの錆だ。俺の心の弱さが形になった、ただの汚れだ」

 アルドは否定した。

 そんな都合の良い解釈ができるほど、彼は楽天家ではなかった。

 だが、ミナの言葉は、冷え切った胸の奥に小さな熾火(おきび)を残した。

 本当に戦うべき時。

 それが今なのか、それともまだ先なのか。

 あるいは、そんな時はもう二度と来ないのか。

「ま、どうでもいいわ。理由が何であれ、今のあなたは剣が抜けない。なら、抜かないまま戦う方法を探すしかない。……今日のあの無様な戦い方のようにね」

 ミナは最後に皮肉を付け加え、毛布にくるまった。

「寝ましょう。明日は森を抜けるわよ。……この森の『主』が、私たちを見逃してくれればの話だけど」

 不吉な予言を残し、彼女は目を閉じた。

 アルドはしばらくの間、焚き火を見つめていた。

 パチパチと薪が爆ぜる音。

 遠くで聞こえる、正体不明の獣の鳴き声。

 それらが遠い世界のことのように感じられた。

 アルドは横に置いた剣を手に取り、その柄を強く握りしめた。

 冷たく、ざらついた感触。

 抜けない剣。

 だが、今日の戦いで、この剣は確かに彼の命を救った。

 英雄の剣としてではなく、泥にまみれた鈍器として。

「……お前も、変わっちまったな」

 誰に言うでもなく呟き、アルドは横になった。

 背中を丸め、剣を抱くようにして眠る。

 それは、過去への執着か、それとも新たな相棒への信頼か。

 答えはまだ、深い闇の中にある。

 森の夜気は冷たく、深く、二人の眠りを侵食していく。

 その静寂が、嵐の前のそれであることを、戦場の勘を持つアルドは肌で感じていた。

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