硝子の檻
その日、クリスタルシティの空は、いつものように完璧な青色をしていた。
雲一つなく、気温は常に快適な二十四度に保たれ、微風が花の香りを運んでくる。
誰もが微笑み、誰もが満ち足りている世界。
だが、ミナにとって、その完璧さは窒息しそうな「停滞」でしかなかった。
(……気持ちが悪い)
ミナは白亜の回廊を歩きながら、胸元のペンダントを握りしめた。
すれ違う市民たちは、誰も彼女を見ない。
いや、認識はしているのだろうが、関心を持たないのだ。
彼らの思考はシステムによって「幸福」に固定され、余計な疑問や好奇心といったノイズはきれいに削除されている。
だから、ミナが「立ち入り禁止」の区画であるクリスタルパレスの中心部へ向かっていても、誰も咎めない。
鍵すらかかっていない。
誰も入ろうとしない場所に、鍵をかける必要はないからだ。
ミナは長い螺旋階段を登りきり、最上階の扉を開けた。
そこには、天空の庭園があった。
そして、その中央で紅茶を飲んでいる一人の青年――皇帝リウス・アークライトがいた。
「おや?」
リウスはミナに気づき、花が綻ぶような無垢な笑顔を向けた。
「珍しいね。ここにお客さんが来るなんて。……君は、迷子かい?」
「いいえ。……真実を知りに来ました」
ミナは怯まずに歩み寄った。
リウスは驚くこともなく、楽しそうに目を細めた。彼には警戒心という概念がない。
「真実? ああ、この世界の仕組みのことかな。いいよ、教えてあげる」
彼はあっさりと語った。
この塔が巨大な「願望機」で動いていること。
人々の負の思考や感情を吸い上げ、幸せな思いだけを循環させていること。
そして、彼自身がその中枢となり、世界の痛みを一人で引き受けていること。
それは、あまりにも純粋で、狂気じみた自己犠牲のシステムだった。
「どうだい? 素晴らしいだろう。ここでは誰も傷つかない」
リウスは誇らしげに胸を張った。
だが、その部屋の陰には、その光景を冷ややかな目で見つめる者たちがいた。
白いローブを纏った側近たち。
彼らは「願望機」の影響を受けず、皇帝の夢を管理する実務者たちだ。
リウスとの謁見を終え、ミナが退室しようとした時、背後から無機質な声が聞こえた。「……異物だ」
「ああ。皇帝の言葉を理解し、あまつさえ『否定』の目を向けた」
「放置すれば、システムにノイズが混じる」
ミナは振り返らなかったが、背筋に冷たいものが走った。
彼らは相談していたのではない。
事務的に処理を決定していたのだ。
「対象ミナ・シルバーウインド。……『処分』対象に認定」
「今夜、実行する」
その声は、今日の天気を告げるように穏やかで、絶対的だった。
ミナは悟った。
ここは楽園ではない。
笑顔の仮面を被った家畜たちの、巨大な檻だ。
◇
その夜、ミナは走っていた。
クリスタルシティの美しい夜景を背に、息を切らして大通りを駆ける。
追っ手はいなかった。
警報も鳴らない。
側近たちは、わざわざ追いかけて捕まえる必要などないと思っているのだ。
この楽園から逃げ出す者などいない、と。
そもそも、捕まえるための武力行使ができる存在が、この都市にはいない。
「……甘く見ないで」
ミナは都市の外縁、結界の境界線に辿り着いた。
目の前には、赤黒い靄が渦巻く魔力の壁。
負の思考と感情が渦巻き、外敵を焼き尽くす絶対防御の壁だ。
だが、ミナはこの都市の「システム」の一部だ。
この結界は外敵には作用しても、システムの一部である「市民」には作用しない。
ミナは祈り、結界の中へと身を投げた。
瞬間、肌を焼くような激痛と、数万人の呪詛の声が脳内に響き渡る。
だが、次の瞬間、呪いは霧散した。
痛みはある。
けれど、耐えられる。
ミナは歯を食いしばり、赤黒い靄を押し広げるようにして前へ進んだ。
一歩、また一歩。
そして。
フッ、と体が軽くなった。
靄が晴れ、冷たく乾燥した風が頬を叩く。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの荒野と、星空だった。
「……出られた」
ミナは膝をつき、荒い息を吐いた。
振り返れば、クリスタルシティを覆う赤黒い靄の渦が聳え立っている。
美しい檻。
生まれ育った場所との決別。
彼女は泥だらけの手で涙を拭い、闇の荒野へと歩き出した。
一方、ミナのその様子を、クリスタルパレスの頂上から見ている者たちがいた。
皇帝の側近たちだ。
「逃げたようだな」
「ああ、あれの処分は外の『奴ら』に任せるとしよう」




