第8話
帰りの飛行機の中は、行きよりも静かだった。
実際に静かなわけじゃなくて、私の中の音が減っただけかもしれない。
隣の席には恒一が座っている。
同じように肘掛けに腕を置いて、前を向いている。
行きと違うのは、もう互いに言葉を探そうともしないところだ。
話しかけなきゃいけない理由はないし、
話したいことも、特にない。
私はイヤホンを耳に入れたけど、音楽は流していない。
ただ、何かを遮断したかっただけ。
あの夜のことを、思い出さないようにしているつもりで、
実際には、ずっと頭の片隅に置いたままだった。
気まずい、というより、整理がついていない。
後悔とも違うし、期待でもない。
面倒だな、という感覚に一番近い。
恒一との関係を元に戻す気はない。
でも、完全に切り捨てるほどの熱意もない。
健太の嫉妬も、正直かなり疲れていた。
説明するのも、宥めるのも、機嫌を取るのも。
私はもともと、誰かの感情に付き合うのが得意じゃない。
長いフライト時間は、
考えないようにしていたことを、無理やり引きずり出してくる。
まず、健太のことを考えた。
健太と別れた理由は、はっきりしている。
向こうが耐えられなくなった。
「真紀は、俺に興味がなさすぎる」
最後に言われた言葉を、妙に覚えている。
怒鳴られたわけでも、責められたわけでもない。
ただ、疲れた声だった。
一緒にいても、私が何を考えているのかわからない。
嬉しいのか、楽しいのか、好きなのか。
そう言われても、
自分でもよくわからなかった。
距離感が、だんだん面倒になった。
連絡の頻度、会う回数、言葉の選び方。
全部「普通」を求められている気がして、息が詰まった。
だから、別れを告げられたとき、
驚きはしたけど、引き止めなかった。
恒一が家を出ていった理由と、
健太が私のもとを離れた理由は、よく似ている。
私の無関心さ。
距離を詰めないところ。
感情を見せないところ。
それでも、恒一とは結婚した。
四年間、一緒に暮らした。
「普通だった」と言えるくらいには、
問題なく生活していた。
健太とは、そこまで行かなかった。
その違いが、ずっとわからない。
一緒に過ごした時間を思い返して、
無理やり違いを探す。
会話の量?
体の相性?
生活リズム?
どれも決定打にはならない。
考えれば考えるほど、
理由がないことだけが、はっきりしていく。
恒一と一緒にいた時間は、
感情が動かなかった代わりに、摩擦も少なかった。
健太とは、感情が動いた分、
ぶつかることも多かった。
それだけの違いなのかもしれない。
飛行機の中で、恒一が小さく体勢を変えた。
それだけで、視界の端に動きが入る。
見ないようにしているのに、
無意識に認識してしまう。
隣にいるのが、健太だったらどうだっただろう。
たぶん、手を繋ぐか、
「大丈夫?」とか聞かれていたと思う。
それを想像して、
少しだけ、うんざりした。
恒一は何も言わない。
気遣いもしないし、探りも入れない。
それが、今の私には楽だった。
楽だからといって、
関係を戻したいわけじゃない。
でも、「楽だった」という事実は、
消えない。
機内食が配られ、
恒一が黙ってトレーを受け取る。
「ありがとう」とも言わない。
その無言のやり取りに、既視感があった。
ああ、こういうところだったな、と思う。
特別じゃないけど、
面倒でもない。
日本に着いたのは、夜だった。
入国審査を終えて、
ターンテーブルの前に立つ。
大きなスーツケースが流れてくる。
恒一が、何も言わずに二つとも引き寄せた。
「自分で持つよ」
そう言おうとして、やめた。
言うのも面倒だった。
空港を出て、タクシーに乗る。
行き先は、それぞれ違う。
それなのに、
同じ空間にいることに、違和感はなかった。
タクシーの中で、
恒一が窓の外を見ながら言った。
「疲れたな」
独り言みたいな声。
「そうだね」
私はそれだけ返した。
それ以上、会話は続かない。
でも、沈黙が重くならない。
健太だったら、
ここで何か話題を探していたと思う。
楽しい話、次の予定、
感情を共有するための言葉。
私は、その必要がない空間に、
少しだけ安堵していた。
恒一のこういうところは、
激情ではない。
派手な愛情表現も、
わかりやすい言葉もない。
でも、一緒にいたとき、
生活が引っかからなかった。
別れ際、恒一が少しだけこちらを見た。
「……じゃあ」
それだけ言って、スーツケースを引いていく。
私は手を振らなかった。
振る理由もない。
それでも、背中が人混みに消えるまで、
なぜか目で追ってしまった。
自分でも理由はわからない。
健太と別れたあとには、
こんなふうに振り返らなかった。
空港の外に出て、
夜の空気を吸う。
やっぱり、何もはっきりしない。
恒一といた時間が、
特別だったとは思わない。
でも、
心地よかった時間が、確かにあった。
激情じゃない。
執着でもない。
ただ、一緒にいることが、
あまり負担にならなかった。
それを思い出しただけだ。
私はスマホを取り出し、
健太とのトーク画面を開いて、閉じた。
今は、返事をする気になれなかった。
空港を出るとき、
飛行機のエンジン音が、
まだ耳の奥に残っていた。




