第7話
真紀がスマホを触っている時間が、ここ数日少し長い。
それに気づいたのは、アメリカに着いて二日目の夜だった。
両親の家のリビングは広く、天井が高い。
ソファに並んで座っていても、距離があるせいか、会話は自然と少なくなる。
真紀は黙ってスマホを見て、時々短く笑う。
誰と?
そう聞けばいいだけなのに、喉の奥で言葉が引っかかった。
聞かなくても、なんとなくわかっている。
健太。
真紀の元カレで、今の恋人。
理屈では理解している。
俺が家を出た。
俺が恋人を作った。
真紀が誰と連絡を取ろうと、文句を言う権利はない。
それでも、胸の奥がざわつく。
「……楽しい?」
思わず聞いてしまった。
真紀はスマホから目を離さず、短く答える。
「まあね」
それだけ。
内容の説明も、相手の名前もない。
そのそっけなさが、昔からずっと苦手だった。
感情がないわけじゃない。
ただ、俺に向けて出そうとしない。
結婚する前からそうだった。
好きかどうかも、よくわからないまま、流れで一緒に暮らして、籍を入れた。
なのに、今になって、その距離が耐えられなくなる。
庭でのバーベキューの日も、真紀は同じだった。
母と父に笑顔を向けて、肉を焼いて、ビールを飲む。
完璧な娘、完璧な妻。
でも、ふとした隙にスマホを見る。
画面を伏せる仕草が、無意識なのが余計に腹立たしい。
夜、二人で使っている客室に戻ると、真紀はベッドに腰掛けてLINEを打っていた。
俺がシャワーから出ても、特に慌てる様子もない。
「健太?」
名前を出した瞬間、真紀の指が止まった。
「……そうだけど」
否定しない。
隠そうともしない。
その態度が、火に油を注ぐ。
「まだ続いてるんだ」
「続いてるっていうか、別に普通に」
普通。
その言葉が、ひどく軽く聞こえた。
「夫と一緒にアメリカ来てるのに?」
言ってから、自分の言い方に気づく。
責めている。
完全に。
真紀は肩をすくめた。
「別居中でしょ。しかもあなたが出ていった側」
正論だ。
何一つ反論できない。
それでも、納得できなかった。
俺が出ていったのと、
真紀が誰かに向けて笑うのは、
同じじゃない。
そんな、勝手な感情が胸を占める。
その夜、眠れなかった。
真紀は先に寝息を立てている。
ベッドの反対側で、規則正しい呼吸。
同じベッドにいるのに、触れられない距離。
それが、やけに現実味を持って迫ってくる。
健太は、真紀に何を言っているんだろう。
俺といる時間を、どう思っているんだろう。
「夫婦旅行、楽しんできて」
そんな余裕の言葉を送っている気がしない。
嫉妬して、束縛して、真紀を引き留めようとしているはずだ。
それが、許せなかった。
俺のものだ、とは言えない。
もうそんな立場じゃない。
それでも、
俺が離したものを、
他人が当たり前の顔で掴むのが、どうしても耐えられない。
自分勝手だとわかっている。
でも、感情は理屈通りに動かない。
翌日、ショッピングモールでも同じだった。
真紀は服を見て、雑貨を見て、淡々としている。
楽しそうでも、不満そうでもない。
「何考えてるんだよ」
思わず、独り言みたいに漏れた。
真紀は聞こえなかったふりをして、試着室に入っていった。
夜、またLINEの通知音が鳴る。
画面に映る名前は見えなかったが、確信があった。
「まだ連絡取ってるんだ」
「取ってるよ」
即答。
迷いも、後ろめたさもない。
「俺と一緒に寝たあとでも?」
口に出した瞬間、空気が変わった。
真紀はゆっくりとスマホを置き、こちらを見た。
「……それとこれとは別でしょ」
その一言で、頭の中が真っ白になる。
別?
俺と抱き合った夜と、
健太とLINEをする日常が、
同じ線上にある?
「そんな器用なことできるんだな」
自分でも、声が冷たくなっているのがわかった。
真紀は眉をひそめる。
「あなたが言う?」
その言葉が、胸に刺さる。
そうだ。
俺は恋人を作った。
感情をぶつけてくる女と一緒に暮らしている。
でも、
真紀は違う。
そう思い込んでいた。
真紀だけは、
俺の知らない誰かに心を渡さないと、
勝手に信じていた。
夜、ベッドに入っても、眠れなかった。
真紀は横向きになって、壁の方を向いている。
「なあ」
声をかけると、少し間があってから返事が来た。
「なに」
「健太のこと……」
続けようとして、言葉が詰まる。
何を言いたいのか、自分でもわからない。
別れろ、と言う資格はない。
連絡をやめろ、と言える立場でもない。
それでも、口は動いた。
「俺が出ていったからって、何してもいいわけじゃないだろ」
真紀は、しばらく黙っていた。
「……それ、そっくりそのまま返すね」
静かな声。
怒っていないのが、余計につらい。
「私は、あなたに期待してなかっただけ」
その一言で、全部が崩れた。
期待されていなかった。
結婚している間も、
別居してからも。
それなのに、俺だけが、
勝手に失ったものを数えて、
嫉妬して、怒っている。
真紀の背中は近いのに、
どうしても届かない。
——それでも、
もう一度触れたら、
この距離は壊れてしまう。
その予感だけが、
胸の奥で、鈍く脈打っていた。




