第5話
家を出た日のことを、俺はあまり細かく覚えていない。
覚えているのは、スーツケースの重さと、玄関のドアを閉めたときの音だけだ。
真紀は、俺を引き止めなかった。
それが寂しかったのか、助かったのか、自分でもよくわからない。
新しく付き合い始めた恋人は、美咲という名前だった。
感情を隠さない人で、嬉しいときは嬉しい、嫌なときは嫌だと、はっきり言う。
「ちゃんと離婚してほしい」
何度も言われた。
責める口調じゃない分、余計に刺さった。
真紀の話をすると、美咲は必ず少しだけ顔を曇らせる。
「まだ好きなんでしょ?」
そう聞かれて、否定できなかった。
好き、という言葉が正確かはわからない。
ただ、真紀が俺のいない生活を淡々と続けていることが、想像以上に苦しかった。
そっけない態度も、興味なさそうな返事も、
全部「どうでもいい」と言われているみたいで。
——だから、家を出たのかもしれない。
アメリカ行きの話を真紀から聞いたのは、事務的なやりとりの途中だった。
「両親の退職パーティーで、アメリカ行くことになった」
それだけなら、ふうん、で終わるはずだった。
でも、そのあとに続いた言葉で、胸の奥がざわついた。
「夫婦で来てほしいって言われてて」
俺はしばらくスマホを見つめたまま、動けなかった。
美咲に話すと、案の定、強く反対された。
「なんで行くの? もう一緒に住んでないのに」
「それ、必要?」
正論だと思った。
でも、俺は首を縦に振れなかった。
「行きたい」
自分でも驚くくらい、即答だった。
「……まだ、彼女のこと——」
美咲の声が、少し震えた。
俺は何も言えなかった。
真紀にパスポートを取りに行った日、
久しぶりに見る彼女は、相変わらずだった。
「そこ置いといて」
短い言葉。
目も合わない。
なのに、部屋に漂う空気が、懐かしかった。
何でもない日常。
それが、どうしてこんなに落ち着くのか。
俺はようやく、自分が何を失ったのかを考え始めていた。
飛行機の中、真紀はほとんど眠っていた。
俺は眠れなかった。
隣にいるのに、遠い。
触れられない距離。
それでも、同じ目的地へ向かっているという事実だけで、
胸の奥がざわつく。
乗り継ぎに失敗して、空港で足止めになったとき、
俺は自然にスーツケースを二つとも持っていた。
重いはずなのに、苦じゃなかった。
真紀がそれを見て、ほんの一瞬だけ、
何かを思い出したような顔をした気がした。
ホテルの部屋は、キングベッド一つ。
他に選択肢はなかった。
「別に、気にしないけど」
真紀はそう言った。
本当に、気にしていないようだった。
それが、逆にきつかった。
レストランで食事をしている間も、
俺はずっと考えていた。
どうして結婚したんだろう。
どうして、今、こんなに離れがたいんだろう。
答えははっきりしない。
でも、確かにここにいる。
シャワーを浴びて、部屋の照明を落とす。
ベッドに入るのは、自然な流れだった。
真紀は仰向けで、天井を見ている。
俺は、少し距離を空けて横になる。
しばらく、何も音がしなかった。
気づいたら、俺は彼女の上に覆いかぶさっていた。
理性より先に、体が動いていた。
「……恒一?」
驚いた声。
でも、強く拒まれなかった。
それだけで、何かが切れた。
触れる。
確かめるように。
真紀は戸惑いながらも、受け入れていた。
感情が溢れているのは、俺のほうだけだった。
終わったあと、俺は彼女を離せなかった。
腕の中に閉じ込めるように、抱きしめ続けた。
「……寝る?」
真紀がそう言った。
淡々と。
俺は頷いた。
真紀は、なかなか眠らなかった。
呼吸が一定にならない。
俺は目を閉じたまま、
彼女の体温を確かめるように、腕に力を込める。
失ったと思っていたものが、
まだ、ここにある。
それが現実なのか、
一時的なものなのか、わからない。
それでも、離したくなかった。
俺はそのまま眠りに落ちた。




