第3話
恒一が家に戻ってくるのは、久しぶりだった。
理由は単純で、パスポートといくつかの書類を取りに来るため。
私は特に予定を変えず、いつも通りの時間に起きて、いつも通りのコーヒーを淹れていた。
別居してから半年も経てば、「元夫が家に来る」という出来事も、イベントというほどではなくなる。
インターホンが鳴ったのは、昼前。
想定通りすぎて、少し笑いそうになった。
ドアを開けると、恒一が立っていた。
見た目は変わらない。
少し痩せた気もするけど、それも気のせいかもしれない。
「お邪魔します」
律儀にそう言うところも、そのまま。
「どうぞ」
私は体を横にずらして通しただけだった。
部屋に入った恒一は、一瞬だけ立ち止まった。
多分、以前との違いを探しているんだと思う。
「そんなに変わってないね」
「住んでるの私だし」
そう返すと、少しだけ気まずそうに笑った。
「パスポート、寝室の引き出しだったよね」
「うん。左の」
それ以上の会話はなかった。
恒一が寝室に向かうのを見送って、私はキッチンに戻る。
コーヒーをもう一杯淹れるか迷って、やめた。
数分後、恒一が戻ってくる。
手にはパスポートケースと、何枚かの書類。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それで終わるはずだった。
「……アメリカの件だけど」
来た、と思った。
「うん?」
「本当に、一緒に行っていいの?」
「いいって言ったでしょ」
「無理してない?」
私は少し考えてから答えた。
「別に。親の前で夫婦っぽく振る舞うのも、短期間なら問題ないし」
自分でも、我ながら淡々としていると思う。
恒一は、何か言いたそうにしていたけど、結局黙った。
その沈黙に、私は特に意味を見出さなかった。
「じゃ、行くね」
「うん」
玄関まで見送ることもなく、私はソファに座ったまま。
ドアが閉まる音がしても、心はほとんど動かなかった。
その夜、健太の家に泊まった。
最近は、自然とそういう流れになっている。
「で、アメリカはいつ?」
ベッドに入って、健太が聞いてきた。
「年末年始。親の退職パーティー」
「……恒一も行くんだよね」
「うん。夫婦で来いって言われてるから」
健太は、少し間を置いた。
「正直さ」
「なに」
「嫌なんだけど」
私は天井を見たまま、「そっか」とだけ返した。
「なんでそんなに平気なの」
「平気っていうか、面倒が増えるのが嫌なだけ」
「一緒に旅行するんだよ?元とはいえ夫だよ?」
「籍はまだあるし」
健太が寝返りを打つ気配がした。
「……俺、嫌だよ」
声が少し低くなっている。
「別に何かあるわけじゃないよ」
「そういう問題じゃない」
私は、少しだけため息をついた。
「健太、心配しすぎ」
「心配するに決まってるだろ」
「でも、もう決まったことだし」
健太は黙り込んだ。
しばらくして、布団の中で私の方に腕を伸ばしてくる。
「向こうで、変なことにならない?」
「ならない」
「本当に?」
「本当に」
私はそう答えながら、
“変なこと”の定義については、考えないことにした。
翌日からは、出発準備が始まった。
久しぶりの海外なので、パスポートの期限を確認したり、荷物のことを考えたり。
恒一から、たまに連絡が来る。
「フライト、これでいいかな」
「乗り継ぎ時間、短くない?」
全部、事務的な内容。
私は「うん」「それでいいと思う」と返すだけ。
そのやりとりに、特別な感情はなかった。
ただ一つ気になったのは、
恒一がやたらと「一緒に」という言葉を使うこと。
「一緒に空港行く?」
「一緒にチェックインする?」
私は全部、「現地集合でいいよ」と断った。
理由を聞かれても、
「楽だから」としか言わない。
健太は、そのやりとりを横で見て、機嫌を悪くした。
「まだ夫婦なんだなって感じる」
「形式的にね」
「……俺は、形式でも嫌」
私は少し考えてから言った。
「健太、私、恒一に未練ないよ」
「でも、向こうは?」
「さあ」
それは本当に、どうでもよかった。
出発当日。
空港で恒一と合流した。
少し距離を空けて並ぶ。
周囲から見たら、たぶん普通の夫婦。
保安検査も、搭乗も、淡々と進む。
機内に入って、席に座る。
隣は恒一。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
そんなやりとりが、逆に可笑しかった。
ベルトを締めて、前を向く。
しばらくして、恒一が小さな声で言った。
「久しぶりだね、こうして並ぶの」
「そうだね」
それだけ。
飛行機が動き出す。
窓の外がゆっくり遠ざかる。
私は特に感慨もなく、
ただ、長時間フライトに備えて目を閉じた。
恒一が、何か言いたそうな気配だけが、隣から伝わってくる。
でも、私はそれを拾わなかった。
——こうして、
別居中で、それぞれ恋人がいる夫婦は、
何事もない顔をして、同じ飛行機に乗った。




