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夫は恋人を作って出て行ったはずなのに。執着してきた  作者: Carrie


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2/11

第1話

恒一が「話がある」と言ったのは、平日の夜だった。

私はキッチンで洗い物をしていて、特に急ぐ理由もなかったから、振り返らずに「なに?」とだけ返した。泡だらけの皿を流しに置き、次のコップに手を伸ばす。水の音が、会話の続きを邪魔するみたいに大きかった。


「……真紀」


名前を呼ばれた。

それだけで、少し面倒だなと思った。

名前を呼ばれるほどの話題って、だいたいろくなものじゃない。


「浮気?」


先に聞いた。

別に勘が鋭かったわけじゃない。ただ、可能性として一番ありそうだっただけ。


「恋人が、できた」


恒一は否定しなかった。

声も、表情も、必要以上に落ち着いている。覚悟を決めてきた人の顔だった。


「そう」


それだけ言って、また洗い物に戻る。

スポンジを握る力も、呼吸のリズムも、特に変わらない。


正直に言えば、驚きはあった。でもショックではなかった。

ああ、そういう流れだったんだ、くらいの感想。


「家を出ようと思う」


背後から、少し間を置いて言われた。

私は蛇口を閉めて、水を切る。


「いつ?」


「今週中には」


「了解」


返事はそれで終わった。

怒るべき場面なのかもしれないけれど、どこから怒ればいいのかわからなかった。そもそも、怒るほどの感情が見当たらない。


「……引き止めないんだな」


恒一が言った。

その声に、わずかに不満が混じっているのがわかる。


「引き止めてほしいの?」


振り返ってそう聞くと、彼は答えなかった。

黙り込むところも、昔から変わらない。


私たちは、たぶん最初からこんな関係だった。

付き合っていた頃も、盛り上がった記憶はあまりない。一緒にいて楽しくないわけじゃないけど、特別でもなかった。


年齢と、タイミングと、周囲の空気。

それらが重なって、結婚した。


「好きだから結婚した」というより、

「問題がなかったから続いた」だけ。


数日後、恒一はスーツケースひとつで出ていった。

玄関で靴を履きながら、何か言いたそうにしていたけれど、私はソファでスマホを見ていて、特に視線を向けなかった。


ドアが閉まる音は、思ったより静かだった。


部屋に残されたのは、空気だけだった。

物はほとんどそのままなのに、気配だけがきれいに消えている。


玄関の靴は半分になり、洗面所の棚にあった男物の整髪料がなくなった。

それを見て、少しだけ生活が楽になるな、と思った。


最初に浮かんだ感想がそれだったことに、自分でも驚かなかった。


その夜は、冷凍庫にあったパスタを一人で食べた。

テレビをつけなくても静かで、悪くなかった。


「一人暮らし、向いてるかも」


誰に言うでもなく、そう思った。


翌日から、手続きを始めた。

役所、銀行、保険会社。


「ご主人とは……?」


と聞かれるたびに、

「別居です」と答える。


相手は一瞬、気まずそうな顔をするけれど、

私は特に気にしなかった。


説明を求められている気がしなかったし、

説明したいとも思わなかった。


夜は静かだった。

物音がしない分、自分の生活音だけが聞こえる。


歯磨きの音。

シャワーの水音。

冷蔵庫を開ける音。


そこに感情はあまり乗らない。

ただ、生活があるだけ。


たまに、恒一の癖を思い出すことはあった。

歯磨きしながら部屋を歩き回るところ。

ソファで寝落ちして、首を痛めるところ。


でも、それは感情を伴わない記憶だった。

配置を覚えている家具を思い出すのと、あまり変わらない。


一ヶ月もすると、生活は完全に落ち着いた。

一人分の洗濯、一人分の食事、一人分の時間。


誰にも干渉されないのは、想像以上に快適だった。


半年くらい経った頃、彼氏ができた。

きっかけは些細なもので、ドラマみたいな展開はない。


優しくて、踏み込みすぎなくて、

私の事情にあまり興味を持たない人。


それが、一番ありがたかった。


「離婚しないの?」


聞かれたことはある。


「そのうちね」


そう答えた。

本当に、どちらでもよかった。


籍が入っていても、いなくても、

私の生活は大して変わらない。


恒一からの連絡は、事務的なものだけだった。

郵便物の件、書類の件。


感情のやり取りは、最初からなかった。


それなのに、彼はときどき余計なことを聞いてくる。


「最近、どう?」


とか。

「元気?」


とか。


私は短く返す。

「普通」

「まあまあ」


それ以上の説明はしない。

求められてもいない気がするし、

する必要も感じなかった。


別居は、破綻というより、分離だった。

壊れたというより、自然に離れた感じ。


だから、修復しようとも思わなかった。


夜、ベッドに横になる。

天井を見ながら、明日の予定を考える。


仕事のこと。

買い物のこと。

週末の予定。


恒一のことは、思い浮かばない。


それで困ることもない。


——私たちは、たぶん最初から、

深く結びついてはいなかったんだと思う。


今になって、それがはっきりしただけ。


恒一が出ていった日は、

私の人生の中では、そこまで大きな出来事じゃなかった。


少し生活が変わって、

少し静かになって、

少し楽になった。


それだけ。


感情の整理が必要だとも思わなかったし、

立ち止まる理由もなかった。


「こういう人生なんだろうな」


なんとなく、そう思った。


特別な盛り上がりもなく、

特別な喪失感もない。


淡々と、次の日が来る。


それが、私にとっては自然だった。

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