第1話
恒一が「話がある」と言ったのは、平日の夜だった。
私はキッチンで洗い物をしていて、特に急ぐ理由もなかったから、振り返らずに「なに?」とだけ返した。泡だらけの皿を流しに置き、次のコップに手を伸ばす。水の音が、会話の続きを邪魔するみたいに大きかった。
「……真紀」
名前を呼ばれた。
それだけで、少し面倒だなと思った。
名前を呼ばれるほどの話題って、だいたいろくなものじゃない。
「浮気?」
先に聞いた。
別に勘が鋭かったわけじゃない。ただ、可能性として一番ありそうだっただけ。
「恋人が、できた」
恒一は否定しなかった。
声も、表情も、必要以上に落ち着いている。覚悟を決めてきた人の顔だった。
「そう」
それだけ言って、また洗い物に戻る。
スポンジを握る力も、呼吸のリズムも、特に変わらない。
正直に言えば、驚きはあった。でもショックではなかった。
ああ、そういう流れだったんだ、くらいの感想。
「家を出ようと思う」
背後から、少し間を置いて言われた。
私は蛇口を閉めて、水を切る。
「いつ?」
「今週中には」
「了解」
返事はそれで終わった。
怒るべき場面なのかもしれないけれど、どこから怒ればいいのかわからなかった。そもそも、怒るほどの感情が見当たらない。
「……引き止めないんだな」
恒一が言った。
その声に、わずかに不満が混じっているのがわかる。
「引き止めてほしいの?」
振り返ってそう聞くと、彼は答えなかった。
黙り込むところも、昔から変わらない。
私たちは、たぶん最初からこんな関係だった。
付き合っていた頃も、盛り上がった記憶はあまりない。一緒にいて楽しくないわけじゃないけど、特別でもなかった。
年齢と、タイミングと、周囲の空気。
それらが重なって、結婚した。
「好きだから結婚した」というより、
「問題がなかったから続いた」だけ。
数日後、恒一はスーツケースひとつで出ていった。
玄関で靴を履きながら、何か言いたそうにしていたけれど、私はソファでスマホを見ていて、特に視線を向けなかった。
ドアが閉まる音は、思ったより静かだった。
部屋に残されたのは、空気だけだった。
物はほとんどそのままなのに、気配だけがきれいに消えている。
玄関の靴は半分になり、洗面所の棚にあった男物の整髪料がなくなった。
それを見て、少しだけ生活が楽になるな、と思った。
最初に浮かんだ感想がそれだったことに、自分でも驚かなかった。
その夜は、冷凍庫にあったパスタを一人で食べた。
テレビをつけなくても静かで、悪くなかった。
「一人暮らし、向いてるかも」
誰に言うでもなく、そう思った。
翌日から、手続きを始めた。
役所、銀行、保険会社。
「ご主人とは……?」
と聞かれるたびに、
「別居です」と答える。
相手は一瞬、気まずそうな顔をするけれど、
私は特に気にしなかった。
説明を求められている気がしなかったし、
説明したいとも思わなかった。
夜は静かだった。
物音がしない分、自分の生活音だけが聞こえる。
歯磨きの音。
シャワーの水音。
冷蔵庫を開ける音。
そこに感情はあまり乗らない。
ただ、生活があるだけ。
たまに、恒一の癖を思い出すことはあった。
歯磨きしながら部屋を歩き回るところ。
ソファで寝落ちして、首を痛めるところ。
でも、それは感情を伴わない記憶だった。
配置を覚えている家具を思い出すのと、あまり変わらない。
一ヶ月もすると、生活は完全に落ち着いた。
一人分の洗濯、一人分の食事、一人分の時間。
誰にも干渉されないのは、想像以上に快適だった。
半年くらい経った頃、彼氏ができた。
きっかけは些細なもので、ドラマみたいな展開はない。
優しくて、踏み込みすぎなくて、
私の事情にあまり興味を持たない人。
それが、一番ありがたかった。
「離婚しないの?」
聞かれたことはある。
「そのうちね」
そう答えた。
本当に、どちらでもよかった。
籍が入っていても、いなくても、
私の生活は大して変わらない。
恒一からの連絡は、事務的なものだけだった。
郵便物の件、書類の件。
感情のやり取りは、最初からなかった。
それなのに、彼はときどき余計なことを聞いてくる。
「最近、どう?」
とか。
「元気?」
とか。
私は短く返す。
「普通」
「まあまあ」
それ以上の説明はしない。
求められてもいない気がするし、
する必要も感じなかった。
別居は、破綻というより、分離だった。
壊れたというより、自然に離れた感じ。
だから、修復しようとも思わなかった。
夜、ベッドに横になる。
天井を見ながら、明日の予定を考える。
仕事のこと。
買い物のこと。
週末の予定。
恒一のことは、思い浮かばない。
それで困ることもない。
——私たちは、たぶん最初から、
深く結びついてはいなかったんだと思う。
今になって、それがはっきりしただけ。
恒一が出ていった日は、
私の人生の中では、そこまで大きな出来事じゃなかった。
少し生活が変わって、
少し静かになって、
少し楽になった。
それだけ。
感情の整理が必要だとも思わなかったし、
立ち止まる理由もなかった。
「こういう人生なんだろうな」
なんとなく、そう思った。
特別な盛り上がりもなく、
特別な喪失感もない。
淡々と、次の日が来る。
それが、私にとっては自然だった。




