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夫は恋人を作って出て行ったはずなのに。執着してきた  作者: Carrie


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第9話

健太という名前を、真紀のスマホの画面で見た瞬間から、時間の流れがおかしくなった。

アメリカに来てから、いや、来る前からかもしれない。

自分が何を選び、何を手放したのか、その順序がずっと曖昧だった。


俺は自分から家を出た。

恋人ができたからだ。

それは事実だし、言い訳するつもりもない。


真紀のそっけなさに、耐えられなかった。

何を考えているのかわからないところ、怒らないところ、執着しないところ。

結婚して四年、ずっとそれが続いて、ある日ふと、俺は透明になった気がした。


必要とされていない。

そう思った。


だから感情をぶつけてくれる人に惹かれた。

今の恋人――名前を呼ぶのも億劫になるくらい、最近は距離ができているけれど――

彼女は真逆だった。


好きだと言う。

不安だと言う。

嫉妬も、怒りも、全部そのまま投げてくる。


それが、最初は楽だった。

俺は確かにそこにいる、と感じられたから。


それなのに。

真紀に健太がいると知った途端、胸の奥が焼けるように痛んだ。


理屈は通らない。

俺が先に裏切った。

俺が家を出た。

真紀が誰と付き合おうと、文句を言う資格なんてない。


それでも、どうしても思ってしまった。

――それは、俺の場所だったはずだ。


健太という男がどんな人間かなんて知らない。

優しいのか、面白いのか、真紀に合っているのか。

そんなことは、どうでもよかった。


ただ、真紀が「面倒だから流された」かもしれないという想像だけが、

俺をどうしようもなく苛立たせた。


真紀は、そういう人間だ。

情に流されるというより、抵抗するのが面倒になる。

相手を好きだからではなく、断る理由が見つからないから、関係を続ける。


それを、俺は結婚前から知っていたはずだった。


なのに結婚した。

理由は、今考えてもはっきりしない。


一緒にいて楽だったわけじゃない。

盛り上がる会話もなかった。

でも、気を遣わなくてよかった。


沈黙が気まずくない。

干渉されない。

一人でいる感覚に近いのに、完全な孤独ではない。


それが、いつの間にか当たり前になっていた。


俺はその当たり前を、失ってから理解した。


恋人は、アメリカ行きを強く反対した。

「なんで行くの?」

「もう夫婦じゃないんでしょ?」

「早く離婚してよ」


全部、正しい。

でも、全部、聞きたくなかった。


真紀から「一緒に行きたいんだけど」と連絡が来たとき、

俺は反射的に了承した。


嬉しかったわけじゃない。

安心したわけでもない。

ただ、拒否できなかった。


それだけで、自分の気持ちは十分すぎるほど露呈していたと思う。


パスポートを取りに、久しぶりにあの家に行った。

ドアを開けた瞬間、生活の匂いが変わっていて、

それが真紀のものだと気づいて、胸が詰まった。


彼女は変わっていなかった。

相変わらず、淡々としていて、感情の起伏が見えない。


俺だけが、過去に取り残されている。


そう思った。


飛行機の中でも、ホテルでも、

俺はずっと自分の感情を抑えようとしていた。


触れたら終わる。

越えたら戻れない。

理性では、わかっていた。


それでも、同じベッドに横になった瞬間、

俺の中の何かが切れた。


あの夜のことを、俺は何度も思い返した。

衝動だった。

間違いだった。

そう言い聞かせようとしても、無理だった。


真紀は拒まなかった。

積極的でもなかった。

ただ、そこにいた。


それが、何よりも残酷だった。


帰国してからの二か月、

俺は自分の生活を立て直そうとした。


恋人と向き合おうとした。

でも、彼女の感情は重くなりすぎていた。


真紀への嫉妬。

俺の曖昧さへの不満。

将来の話。


どれも、今の俺には答えられなかった。


結局、別れ話は長引いた。

彼女は泣き、責め、縋った。

俺は謝り続けた。


一方で、真紀には何も言えなかった。

連絡を取る勇気も、距離を縮める覚悟もなかった。


それでも、心は決まっていた。


俺は、戻りたい。

あの家に。

あの静けさに。


激情ではない。

恋愛的な高揚でもない。


ただ、帰る場所として。


自分勝手だとわかっている。

それでも、真紀といるときの自分は、

無理をしていなかった。


愛されようともしなかったし、

理解されようともしなかった。


それが、どれだけ貴重だったのか、

失って初めて知った。


真紀が俺を必要としていないことも、

もう受け入れられる。


それでも一緒にいたいと思うことと、

必要とされたいと思うことは、違う。


俺はようやく、その違いを理解した。


家に戻る決断をしたのは、

恋人と完全に別れた翌日だった。


二か月。

短いようで、長い時間。


その間に、

俺は自分の未熟さと、

真紀への執着と、

結婚という関係の重さを、

ようやく直視できるようになった。


彼女が受け入れるかどうかは、わからない。

拒まれても仕方がない。


それでも、戻る。


それが、俺の選んだ答えだった。

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