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婚約破棄された建築測定官令嬢、崩れゆく王宮の秘密まで暴いたら将軍閣下に求婚されました

作者: 百鬼清風

 王宮中庭の塔は、朝の光を受けて白い石壁をはっきりと浮かび上がらせていた。だがエリスの目に映ったのは、その美しさではなかった。足元に置いた測定具の針が、予想よりも大きく南へ傾いている。塔全体が、わずかに沈下している可能性が高かった。


 地面は乾ききっており、沈下を起こすほどの豪雨も最近はない。石材の劣化にしても、この速度で進む理由が見当たらなかった。原因の裏側に“具体的な操作”があるとしたら、塔の基礎か地下構造に問題があるはずだ。エリスは針の揺れを確認し、角度を記録表に丁寧に書き写した。


「計測完了……やっぱり不自然」


 ひとり小さくつぶやいてから、測定具を畳んで歩き出した。周囲には庭師や兵士がいるが、誰も塔の異常に気付いていない。気づけるのは、建築測定官の訓練を受けた者だけだ。


 塔と地面の接点、角度、地盤の圧力。数字は偏っている。誤差の範囲には収まらない。エリスは眉を寄せ、改めて記録表を見返した。


 そのとき、背後から革靴の硬い音が近づいた。


「エリス・ファルベン」


 振り向けば、王太子ルートヴィヒが侍従を連れて歩いてくる。濃い青の礼装は皺ひとつなく整い、銀糸の刺繍が朝日に反射していた。だが彼の表情には、穏やかさの欠片もない。


「ご報告したいことがあります、殿下。塔が――」


「その話は不要だ」


 言葉を遮られた瞬間、胸の奥で小さな違和が膨らんだ。彼が報告を聞かずに切り捨てるのは珍しい。エリスは表情を崩さず、静かに問いかけた。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「理由なら後で告げる。今は式典の準備が優先だ」


 ルートヴィヒは歩みを止め、周囲の侍従を下がらせた。その動きは慣れており、彼が何らかの“決定”をすでに下していることを示していた。


「エリス・ファルベン。貴女との婚約を破棄する」


 落ち着き払った声音だった。衝撃は、意外と来なかった。


 ただ、計測表の数値の整合性の方が気になっていたせいだろう。エリスは一度呼吸を整え、礼儀を崩さずに言葉を返す。


「理由をお聞かせください」


「王宮中庭塔の沈下は、測定官である貴女の誤計測が原因と判断した。複数の報告が上がっている。ゆえに責任者である貴女を婚約者として据えるわけにはいかぬ」


「誤計測……?」


 エリスは記録表を握り、数字を見つめた。針の傾きは現実であり、誤りではない。むしろ問題は沈下そのものだ。ここで反論すれば「弁明」と取られる。だが黙れば、誤りを認めたことになる。


「殿下。わたくしの測定は、王宮測量局の基準に則っています。誤計測の事実はございません」


「では塔の沈下は自然現象か?」


「現時点では断定できません。ですが――」


「断定できぬ以上、判断材料にならぬ」


 彼は淡々と告げた。淡々としているほどに、そこに“保身”の意図が透けて見えた。


 塔の沈下を測定官の責任にすれば、王宮管理側の失態は抑えられる。政治的合理性はある。だからこそ、これは抽象的な悪意ではなく、明確な“自己防衛の選択”なのだ。


「本日をもって、ファルベン家への連絡も終了する。以上だ」


 礼を述べる間もなく、ルートヴィヒは踵を返した。侍従たちが距離を取りつつその後を続く。庭に残されたのは、エリスと測定具だけだった。


 結婚を夢見ていたわけではない。政治的な婚約など、情愛とはほぼ無関係だ。だが“誤計測の責任”という形を取られたことが、胸の深くに鈍い痛みを落としていく。


 自分の技術を否定されることだけは、耐えがたい。


「……何が、間違っているの?」


 測定をもう一度しようとしゃがみ込み、針の動きを確かめた。角度はやはり南へ数度傾く。誤差ではなく変位だ。塔の柱の一つが沈んでいる可能性――もしくは基礎の石材が抜け落ちているか。


 背後から落ち葉を踏む音がした。さきほどの王太子の足音とは違う、もう少し重さのある踏み込みだった。


「その測定具、どれほど正確なのだ?」


 低い声が問いかけた。振り返ると、背の高い軍服の男が立っていた。黒髪を短く刈り、肩章には北方軍将軍の印章が光っている。


 セドリック・ヴァーン。その名は王都に戻ったばかりの将軍として知られていた。


「王太子殿下には、ただの誤計測と説明されたが……塔の傾きは、目視でもわずかに確認できる」


「見て分かる方は少ないはずですが……」


「北方の砦は風が強い。傾いた塔は兵の命に関わる。嫌でも目が肥える」


 彼の視線は塔の最上部へ向けられ、次に測定具へ落ちた。疑いよりも、事実を読み取ろうとする姿勢が強い。


「測定結果を、見せてもらってもいいか?」


「はい。こちらに記録が」


 エリスは記録表を差し出した。セドリックは紙を受け取り、沈下角度と塔の構造を照らし合わせながら、短い沈黙を挟んだ。


「……これは誤計測の数字ではない。計測は正しい」


 その言葉は、空気を少しだけ軽くした。


「ありがとうございます。しかし殿下は――」


「殿下は“誰かが誤った”ことにしたいのだろう。政治とはそういうものだ」


 彼は淡々と事実だけを述べた。エリスはその冷静さにかすかな安心を覚える。


「塔だけではない。城壁にも亀裂が入っている。こちらも方向は南寄りだ」


「同じ方向……?」


「偶然ではない」


 セドリックは測定具を指差した。


「もしよければ、城壁の調査に同行してもらいたい。建築測定官の判断は必要だ」


「……良いのですか。殿下のご意向に反するかもしれません」


「私は戦場の人間だ。必要なのは事実であって、誰の機嫌でもない」


 はっきりとした言葉だった。エリスの胸に小さく暖かいものが灯る。


「よろしくお願いいたします、将軍閣下」


「ではすぐに向かおう。沈下が進めば、塔も城壁も危険だ」


 二人は中庭を離れ、城壁へ向かった。歩きながらエリスは、さきほど測定した数値を頭の中で組み合わせた。塔と城壁の沈下方向が一致している。これは地盤全体ではなく、特定の地下構造に異常が発生している証拠になる。


 その異常が意図的なものであれば、婚約破棄はただの序章に過ぎない。



 城壁に近づくほど、石畳のわずかな段差が目についた。歩くたび、靴底が小さく揺れた。沈下の範囲が塔周辺だけでなく、城壁の外周にまで広がっている証拠だ。エリスは歩きながら地面の傾斜を読むように視線を落とした。


「将軍閣下、塔の沈下と同じ方向に感じます」


「やはりそうか。歩き慣れた道が変わると、すぐに気づく」


 セドリックは周囲を観察しつつ、あくまで事実を積み重ねる姿勢を崩さない。エリスは測定具を取り出し、地面に置いた。針は南寄りへ少し傾く。塔で見た値とほぼ一致する。


「相関があります。塔だけでなく、王宮全体の地盤が一方向へ引かれています」


「引かれている、か。それが自然なら、もっと広い範囲に出るはずだ」


「はい。ですが沈下は王宮周辺に集中しているようです」


 セドリックは顎に手を当て、城壁へ視線を向けた。近づけば、目立たぬ位置にひび割れが走っていた。表面の石は整えられているが、奥の石材が押されて動いた痕跡がある。


「これを見てくれ」


「……これは、外側からの衝撃ではありません。内側から膨張したような動きです」


「内側?」


「はい。地盤のどこかで圧力が生まれ、その力が城壁に伝わっている。沈下と同時に、別方向の力も働いている可能性があります」


 エリスは城壁にそっと手を当て、石材の継ぎ目を確かめた。気温や湿度で生じる伸縮とは方向が違った。これは人工的操作か、あるいは地下構造の崩れによるものだ。


「前任の測定官の報告書は残っていますか?」


「残っているはずだが、数年前のものだ。前任は急な退任で、後任がなかなか決まらなかった」


「急な退任……理由は?」


「詳しい記録は見ていない。だが、王宮側近が管理していたはずだ」


 エリスの胸に、小さな疑問が増えた。測量局ではなく、王宮側近が人事に介入するのは珍しい。塔の沈下も、城壁の亀裂も、本来なら測定官に相談が届くはずだ。


「前任者が辞めたあと、王宮の測定業務はどなたが?」


「臨時の補助官が二名、それから殿下の側付きの文官が一時的に管理したと聞いた」


「文官が……?」


「問題か?」


「文官は建築測定の専門ではありません。図面の扱いにも規定があります。もし管理が不完全なら、記録が抜けている可能性があります」


 セドリックは短く息を吐き、城壁の底部へしゃがみ込んだ。軍服の裾に土がつくのも気に留めない。


「では、その抜けている記録を補う必要があるな。貴女の力で」


「承知しました。測定範囲の確認から始めます」


 エリスは測定用の杭を取り出し、地面に差し込んだ。三箇所に設置し、角度を測りながら計測表に書き込む。セドリックは横で無言のまま観察していたが、その視線はただの興味ではなく、現場の理解そのものだった。


「……なるほど。数値が一定の方向を示している」


「ええ。塔の角度と城壁の角度、ほぼ同じです。このまま沈下が進めば、塔だけでなく城壁も崩れる危険があります」


「王宮の外壁が崩れれば、王都への信頼は失われる。殿下が避けたいのはそれだろう」


 エリスは一瞬だけ視線を伏せた。政治的判断で責任を押しつけられたのだと改めて感じた。


「殿下は、沈下の危険をご存じないのでしょうか」


「知っているだろう。だが、認めれば自分の管理責任が問われる。だから貴女を“誤計測”としたのだ」


「……やはり」


 計測結果を否定された悔しさが、胸の奥でじわりと広がった。だが、今は感情よりも原因解明が先だ。


「将軍閣下。原因を突き止めるためには、地下構造を見なければなりません」


「地下か。許可は取れるか?」


「現行の規定では、測定官が必要性を示せば申請できます。ただし、王宮側近が承認を渋ることが多く……」


「私が同行すれば通るだろう。責任範囲が軍にも及ぶからな」


 頼もしさが胸に広がる。誰かが自分の測定を信じ、行動の価値を認めてくれる――それは思ったよりも大きな支えだった。


「ありがとうございます。申請の書式を用意します」


「用意ができたら私に渡してくれ。すぐに署名しよう」


 エリスは深く頭を下げた。測定具を片付けながら、ふと指が止まった。数値を見返し、塔と城壁の沈下方向を線で結ぶと――地下の一点に収束するように見える。


「……この中心点、地下に何かがあります」


「中心点?」


「はい。二つの沈下角度から逆算すると、沈下を引き起こす“軸”が王宮内の地下に存在している可能性があります」


 セドリックが map のように頭の中で線を描くように視線を動かした。


「つまり、塔でも城壁でもなく、地下が主原因かもしれないと?」


「その可能性が高いです。自然沈下では、今のような一点集中にはなりません。地形全体が動くはずです」


「だとすると、地下のどこかで“意図的な改変”が行われた……?」


 エリスは答えず、数値を示すように表を差し出した。


「構造を変えるには、石材を抜くか、地盤を掘るか、魔力流路を変更する必要があります。どれも、測定官の記録が必要です。しかし、その記録が残っていません」


「前任が急に辞めた後、文官が管理したのが原因か?」


「可能性はあります。しかし――」


 エリスは表を折り畳んだ。


「意図的に“消された”可能性もあります」


 セドリックの目が静かに細められた。そこには感情ではなく、状況を正確に捉える軍人としての冷静さがあった。


「いずれにせよ、地下を調べなければ話は進まない。申請書を作ろう」


「はい。すぐに作成します」


 二人が王宮へ戻ろうとすると、廊下の角で小柄な影――いや、“影”ではない、小柄な人影が立ちはだかった。王宮補佐役の文官、ハロルドだった。


「エリス殿。城壁調査の必要はないと聞いておりますが?」


 口調は丁寧でも、目は明らかに牽制していた。


「いえ、必要です。塔と城壁の沈下方向が一致しましたので」


「ほう。それが本当に正しい測定ならば……の話ですが」


 刺すような言い方だったが、エリスは表情ひとつ動かさなかった。


「正しい測定です。必要でしたら将軍閣下が確認されています」


 ハロルドの目が一瞬だけ揺れた。セドリックが背後に立ったからだ。


「測定は正しい。申請書を通す。文句はあるか?」


「……い、いえ。閣下がそうおっしゃるなら」


 文官は引き下がった。背中の緊張が完全には抜けていなかったが、追及はしてこなかった。セドリックは軽く歩みを進めながら言った。


「敵は多そうだな」


「ええ……ですが、やるべきことは変わりません」


「その姿勢は、戦場の兵と同じだ。頼もしい」


 エリスはわずかに頬が熱くなるのを感じた。


 二人は王宮測量局へ戻り、地下調査の申請書を作成する。エリスが書き、セドリックが署名した。そして午後には、申請が正式に受理された。


 いよいよ、地下へ降りる準備が整った。



 地下へ降りる通路は、王宮の東側にある管理棟の裏手に隠れるように設置されている。扉を開けば、石造りの階段が深く延び、空気がひんやりと肌を撫でた。温度は一定で、地中の空気らしい重みがあった。


「ここが地下への正式な入口です。普段は測量局の許可がなければ入れません」


「ほかに入口は?」


「王宮外周から繋がる古い通路が二つありますが、現在は封鎖されています」


 セドリックは周囲を一巡し、足跡の有無や扉の磨耗具合を確認した。軍人らしい慎重さだ。エリスは測定具を手にし、階段をゆっくりと降りた。石段は磨り減り、何世代にも渡って踏まれた跡が残っている。


 地下一層目に着くと、通路が三方向へ伸びていた。壁には魔力灯が等間隔に設置され、淡い光が石壁の凹凸を照らす。ここまでは、整備された王宮施設の範囲だ。


「まずは南側の通路を確認します。沈下角度の中心点が、この方向にある可能性が高いので」


「案内を頼む」


 二人は南の通路を選び、奥へ進んだ。歩くたび、石壁に反響する音が規則的に返る。それはこの空間がまだ健全である証拠だった。だが、進むほどに音の響きが微妙に変わっていく。壁の厚さ、通路の幅、空間の空洞率がわずかに違う。


「将軍閣下、ここから音が変わっています」


「音?」


「壁の内側に空洞があると、反響の幅が変わります。数メートル先に、別の空間があるはずです」


 エリスは壁へ近づき、掌で石を軽く叩いた。固さは一定だが、反響に深みがある。それは“後から作られた空間”を示していた。


「この壁の裏……増設されています」


「図面ではどうなっている?」


「図面には、この区画は“通路なし”と記されています」


「つまり、誰かが図面にない通路を作った」


「はい。自然ではありえません」


 エリスは測定具を床に置き、角度を量った。針がわずかに南西へ傾いた。塔や城壁の方向と一致する。


「やはり中心点に近づいています。この先に、沈下の原因があります」


 セドリックは壁を押し、綻びや隙間を探した。やがて、小さな金具の欠片が指に当たった。石壁の継ぎ目に、古い開閉機構が隠されていた。


「ここか。力を貸してくれ」


「はい」


 二人で押し込むと、壁が数センチだけ沈んだ。石が擦れる鈍い音が響いた。壁は少しずつ横へスライドし、奥の空間が現れる。


 埃の匂いではなく、乾いた土の匂いがした。石材ではなく“地そのもの”に触れる通路だ。


「これは……古代の基礎道です。王宮が建つ前、この土地にあった遺跡の一部で、通常は封鎖されています」


「遺跡を利用したのか?」


「はい。王宮の地下には古代文明の構造が一部残されており、そのうち安全な区画だけが転用されています。ただ――」


「ただ?」


「ここは転用許可の記録がありません」


 許可記録がなければ、誰かが無断で開いたということだ。エリスは足元を照らし、石畳の継ぎ目を見た。王宮で使われる石と違う材質だ。つなぎ目が雑で、誰かが短期間で作業した跡が残っていた。


「急いで作られています……」


「目的は何だ?」


「分かりません。ですが、沈下に関わるなら、構造をいじったのは確実です」


 通路をさらに進むと、小さな分岐が現れた。左の通路は崩れかけており、右は比較的新しい。エリスは迷わず右を選んだ。


「この方向です。沈下角度からすると、中心点はもっと奥です」


「案内を続けろ」


 二人は慎重に進んだ。足元の土が少し柔らかい。石材を抜かれたか、基礎の支えが減っている可能性がある。エリスは測定具を取り出し、再び針の動きを確認した。


「角度が増えています。沈下が強い地点が近くにあります」


「気をつけろ。崩れやすい場所かもしれない」


 通路の先には、小さな広間があった。壁一面に古い紋様が彫られ、その中央に魔力流路が走っていた。本来は閉じられているはずの流路が“開いている”。


「どうして……魔力流路が稼働しているのですか?」


「通常は停止しているのか?」


「はい。王宮の魔力供給とは別系統なので、普段は封印されています」


 エリスは膝をつき、流路の基部へ手を当てた。かすかな振動が伝わる。魔力が流れ続け、地盤を押し上げたり沈めたりしているのだ。


「これが沈下の原因の一つです。魔力流路が制御されずに流れています」


「誰が開いた?」


「そこが重要です。本来、この流路を開くには、王宮上層部の許可が必要です。鍵は二つ……測量局の鍵と、王宮管理局の鍵です」


「二つ必要、か」


「はい。そして前任測定官が急に辞めた時期と一致します」


 セドリックは腕を組み、全体を見渡した。広間の奥には、さらに深く続く通路が見えた。古代の基礎がそのまま残っている。


「流路はこれだけか?」


「いえ、もう一つ……この奥に“変換装置”があります」


「変換装置?」


「魔力の流れを地盤へ転用する機構です。もしそれが暴走していれば、沈下は止まりません」


 エリスは一歩進もうとしたが、セドリックが腕を伸ばして止めた。


「危険だ。崩れるかもしれない」


「ですが、原因を突き止めるには――」


「行くなとは言っていない。私が先に確認する」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。誰かが自分を守ろうとする行動を取るのは久しぶりだった。


「分かりました。お願いします」


 セドリックは慎重に通路へ踏み込み、天井と壁の状態を確かめた。しばらくして、振り返る。


「行ける。崩落しそうな石材はない」


「ありがとうございます」


 二人は奥へ進んだ。


 通路の先には、小さな制御室のような空間があった。中央に円形の台座があり、そこへ伸びる魔力流路は複数あった。しかし、そのうち一本が異様な角度で曲げられている。


「これは……無理矢理に方向を変えています。地盤へ魔力を流す量を増やすために」


「誰がやった?」


「分かりません。しかし――意図は明確です。“地盤を変動させたい”。そのために設置されていた装置をいじっています」


 エリスは近づき、工具の痕跡を見た。最近触られたばかりで、金属の擦れた跡が生々しい。


「最近……誰かがここに来ています」


「文官か? 王太子か?」


「判断には情報が足りません。ただ、測定官だけが知るはずの技術が使われています。つまり――前任測定官の関与が疑われます」


 セドリックの目がわずかに鋭くなった。


「生きているのか?」


「はい。記録上では地方へ移ったとだけありますが、消息は不明です」


 エリスは台座の周囲を一周し、異常な点を記録した。


「装置が完全に暴走すれば、塔も城壁も落ちます。その前に止めなければなりません」


「方法は?」


「変換装置を調整し、魔力の流れを正常化することです。ただ、操作には二人必要です」


「二人?」


「はい。一人が魔力流路を抑え、もう一人が装置を回す。力が偏ると台座が跳ね上がります」


 セドリックは迷わなかった。


「では私が抑える。貴女が操作しろ」


 エリスは一瞬、驚きで息を止めた。


 これは命がけの作業だ。軍人とはいえ、巻き込むべきではない。それでも――彼の表情には一切の迷いがなかった。


「……承知しました。しかし、装置に触れる前に、もう一段階調査が必要です。この奥の第二層に、本来の“流量制御盤”があります」


「ではそこへ行くぞ」


 二人はさらに奥へ向かった。通路の天井は低く、古い石の継ぎ目から土が少し落ちてくる。エリスは慎重に足元を照らし、通路を進んだ。


 そして――。


「ここです。第二層の入口」


 石扉の表面には、測定官の紋章が刻まれていた。しかし、その紋章の半分が削られ、鍵穴の周囲には無理矢理こじ開けた跡があった。


「誰かが、測定官の権限を奪おうとした……?」


 震えではない。冷静な事実認識が、胸の奥でくっきりと形を作った。


「殿下は、この場所を知っているのか?」


「いいえ。殿下が知っていれば、わたくしの婚約破棄は“誤計測”ではなく、“この場所を隠すため”だったはずです。殿下はここを知らない。別の誰かが動いています」


 セドリックは短く息を吐き、剣の柄へ軽く手を置いた。


「敵がいるな。王宮内部に」


「はい。しかし特定には情報が不足しています」


 二人は石扉を押し、第二層へ進む。


 そこには、王宮全体の地下構造が描かれた巨大な図面が壁一面に広がっていた。そのうちの一箇所が、明らかに“消されて”いた。


「……これが、沈下の原因を隠すための改ざんです」


「誰が?」


「分かりません。ですが、ここまで大規模な改変は――一個人の判断ではできません」


 第二層の空気が重くなったような気がしたが、それはただ地中の空気の濃さのせいだ。


「原因は、すぐそこです。沈下の核心へ、あと一歩」


 二人は奥の装置へ向かった。



 第二層の調査を終え、エリスは胸の奥で小さく息を整えた。地下の冷たい空気が肌に貼りつき、手指の感覚が少し鈍っていた。台座の脇に刻まれた改変痕を確認し、記録用の紙に写し取る。


「これで、図面改ざんの証拠になります」


「確実か?」


「はい。測定官だけが扱える工具の跡です。外部の人間には残せない痕跡です」


 セドリックがうなずき、通路を確認するように目を向けた。地下は安全とは言えなかった。改変された部分は不安定で、どこが崩れてもおかしくない。だからこそ、ここに長く留まるわけにはいかない。


「では戻ろう。王宮に提出すべきものが揃った」


「はい。上に戻れば、測量局の図面庫で照合できます」


 二人は通路を引き返した。第二層から第一層へ戻る階段は、ほんの少し浮き上がっていた。魔力流路の暴走が地盤を持ち上げているのだ。


「これも変換装置の影響です」


「沈下だけではなく、場所によっては浮き上がりも起きている……。厄介だな」


「はい。建物全体の荷重が偏ると、一部だけが引き上げられます」


 階段を上がり切ったとき、通路の先にかすかな土埃が舞っていた。地盤が動いた証拠であり、行動を急ぐ理由にもなる。


「急ぎましょう」


「分かった」


 二人は王宮管理棟の地下一階へ戻り、入口の扉を閉じた。その瞬間、通路の上方から硬い靴音が聞こえた。足音は二人分ではなく、複数だ。


 階段を上がろうとしたとき、入口へ人影が現れた――人影ではない、“人の姿が見えた”だけだ。


 王宮側近の文官、ハロルドだった。背後には衛兵が二名控えている。


「エリス殿。ずいぶんと地下を探っておられたようですね」


 エリスは動じずに階段を上った。セドリックが一歩前に出て、文官との距離を取った。


「許可を得ての調査だ。何か問題があるか?」


「許可書は確かに確認しました。しかし――報告を受けていない区画へ立ち入ったと聞きましたが?」


「報告がなかったのは、そちらが図面を管理していなかったからだろう」


 セドリックの言葉は淡々としていたが、文官の眉がわずかに動いた。


「閣下。王宮内部の区画は管理局の指示なくして立ち入りは――」


「その管理局が不正を見逃していては意味がない」


 エリスは着々と記録表を整理し、改変された痕跡を保管箱へ入れた。


「ハロルド殿。図面の照合を行いますので、測量局へ移動します。ご同行いただけますか?」


「……同行はします。しかし、殿下にも報告せねばなりません」


「もちろんです。では、測量局で報告書をまとめた後、殿下へ提出します」


 文官はしばし沈黙したのち、衛兵へ視線を向けた。


「二名とも、彼らから目を離さぬように」


 エリスは心の内側で、地下で見つけた痕跡の重要性を再確認した。敵は明確になったわけではないが、何者かがこの調査を阻もうとしている。


 その後、三人と二名の衛兵は測量局へ移動した。局内の図面庫は、石造りの部屋で、古い図面や原本が整然と棚に並んでいた。エリスは鍵束を取り出し、専用の棚を開いた。


「これが王宮地下の公式図面です。そして――」


 エリスは地下で採取した改変図を並べた。二つを比較すると、公式図面には“存在しない通路”が増設されており、一部の魔力流路は塗りつぶされていた。


「これが……図面改ざんの証拠か」


「はい。古い図面を上書きするには、測定官の認証刻印が必要です。しかし、その刻印は削られていました」


 ハロルドは表情を変えず、両手を後ろに組んだ。


「早計では? 図面の差異は経年の可能性も」


「経年ではここまで削れません」


 エリスは棚の奥から別の図面を取り出した。


「こちらは前任測定官が残した一年前の図面です。これにも改変はありません」


「では、それ以降に誰かが……」


「ええ。半年以内に操作があったと推測しています」


 セドリックが図面を覗き込み、改変部分を指で押さえた。


「この通路が追加されている。なぜだ?」


「沈下の中心点へアクセスしやすくするためと思われます。地盤を操作する者が、頻繁に出入りしていたと考えられます」


「では、その者は“地下を常に使えた立場の人間”……?」


「はい。その可能性が高いです」


 ここで、ハロルドが小さく咳払いした。


「図面の照合は理解しました。しかし、これはまだ推測の域を出ません。殿下は――」


「推測ではありません」


 エリスははっきりと言い切った。


「沈下角度と増設通路の位置が一致しています。さらに、魔力流路の流れが制御を離れて暴走している。これは誰かが“作為的に操作した”ことを示しています」


「作為……。誰がそのようなことを?」


「分かりません。ただ――」


 エリスは、削られた測定官紋章を示した。


「測定官の権限を奪い、地下の装置を操作できる人物が存在します。その人物は、王宮内部の誰かです」


 沈黙が広がった。ハロルドの指先が、ほんの僅かに震えていた。


「……殿下へ報告します。後は殿下の判断です」


 文官は衛兵を伴い測量局を去った。扉が閉じると、空気が少しだけ軽くなった。


「緊張したな」


「はい……ですが、これでようやく証拠が形になりました」


「殿下は、どう動くと思う?」


「わたくしに不利な判断を下す可能性は高いです。誤計測とされた立場ですから」


「だが、証拠は揃っている」


「殿下は……事実よりも、自身の立場を優先される方です」


 セドリックは短くうなずいた。


「では、殿下がどう動こうと、私は事実を優先する」


「ありがとうございます」


 そのとき、測量局の扉が乱暴に開いた。ハロルドが戻ってきたのかと思ったが、現れたのは衛兵の別班だった。


「エリス・ファルベン殿。王宮管理局の命により、拘束する」


 エリスは一瞬、呼吸を忘れた。


「理由を伺えますか?」


「王宮地下の無許可区域への侵入と、図面持ち出しの疑いだ」


「無許可……ではありません。申請書は受理されています」


「管理局の許可が必要だと指示がありました。測量局の許可だけでは不十分とのことです」


 ありえない。


 規定では、測定官と軍の合同調査であれば、測量局の許可で十分だ。管理局の許可は必要ない。つまり、この“疑い”は作られたものだ。


「エリスはここから移動させない」


 セドリックが衛兵の前に立った。軍服の肩章が光り、衛兵たちは足を止めた。


「閣下……しかし」


「測定官の調査を妨害する理由があるのか? あるなら、今すぐここで説明しろ」


「……上からの命令です」


「なら、その命令を出した者をここへ連れてこい。俺の前で言わせる」


 衛兵二人は困惑した表情で目を合わせた。


「閣下……」


「動かないと言っている。退け」


 その声音は穏やかだったが、拒否の余地がなかった。衛兵は大きく息をのみ、やがて頭を下げた。


「分かりました……この場は保留とします」


「当然だ」


 衛兵が去り、扉が閉じる。


 エリスは胸の奥に、大きく混ざり合った安堵と警戒を感じていた。


「……助けていただき、ありがとうございます」


「当たり前だ。貴女を拘束させれば、沈下の真相は闇に……」


 言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。闇――その単語は使わない方がよかった。彼は言い直した。


「沈下の真相は“隠される”。それでは国が脆くなるだけだ」


「はい」


 エリスは視線を下げかけ、すぐに持ち直した。


「将軍閣下。わたくしは、装置の分析を続けたいです。地下第二層の図面改ざんは、まだ核心ではありません」


「分かっている。次の行動は?」


「地下の“制御盤”に直接触れた痕跡を解析します。工具の種類、力の方向、そして――使われた魔術符号から、誰が操作したか判明する可能性があります」


「それは重要だ。俺も同行する」


「ありがとうございます」


 机の上に、改変図面と記録表が並ぶ。それらはもう、ただの紙ではない。“王宮を揺るがす証拠”そのものだ。


 地上の塔は沈み、城壁は歪み、地下では装置が暴走し続けている。

 そのすべてが、ひとつの因果へ向かって繋がり始めていた。



 測量局を出たころには、夕刻の光が差し込み始めていた。王宮の石床に伸びる影は長く、地面のわずかな段差が目についた。沈下は確実に進行している。


 エリスは測定具のケースを抱え、セドリックと並んで歩いた。廊下の壁に手を当てると、石の継ぎ目がほんの少し浮いている。地盤の持ち上がりと沈下が同時に起きている証拠だった。


「沈下の速度が増しています。今日中に原因へ辿り着かなければ、王宮が持たないかもしれません」


「分かった。準備を急ごう」


 セドリックの足取りは躊躇がなかった。王国を守る将軍として、迷いが生まれる余地はないようだった。


 二人は測量局裏の準備室へ入り、地下調査用の道具を揃えた。照明石、補助縄、金属製の支柱、そして崩落時に備える補強板――いずれも緊急用だ。


「装置の核心へ行くためには、第一層南方の通路を抜け、第二層を経由し……その奥の“最深部”にある制御盤に触れる必要があります」


「最深部は崩れやすいのか?」


「はい。古代文明の石組みがそのまま残っているので、現代の基準では強度が足りません」


「なら、なおさら急ぐべきだな」


 セドリックは補強板を肩に載せ、軽く重量を確かめた。その仕草は軍人のそれであり、同時にエリスの不安を静かに和らげた。


「将軍閣下……もう一度、確認します。危険な作業です。巻き込むわけには――」


「巻き込むとは思っていない。これは国を守る仕事だ。建物の崩落は、敵の侵攻より早く王国を滅ぼす」


 その言葉は、正しく、真っ直ぐだった。


「貴女一人に任せる理由がない。二人でやればいい」


 胸が小さく熱を帯びた。それは感傷ではなく、行動の価値を認められた証だ。


「……はい。よろしくお願いいたします」


 二人は準備を整え、管理棟裏手の地下入口へ向かった。


 階段を降りていくと、第二層で見た装置からの振動が、より強く足元へ伝わってきた。地面がわずかに上下しているような感覚。古代装置の暴走は激しくなっている。


「沈下の中心点……装置が限界です」


「急ごう」


 第一層を抜け、奥の通路へ到達する。崩れた石材を避けながら進むうちに、通路の空気がわずかに乾いていく。古代の基礎構造へ近づいている証拠だ。


「エリス、どこが最深部だ?」


「この先の分岐を右です。沈下角度と記録表から見て、基礎の支点に繋がるはずです」


 二人は進み続けた。足元の土が柔らかく、壁も少しずつ歪んでいる。崩落の兆しは複数箇所に及んでいた。


「ここからは、補強板を使います」


「了解した」


 エリスは板を支え、セドリックが力強く押し込んだ。崩れかけた石組みの隙間に板を差し込み、通路の高さを確保する。共同作業は数回続いた。互いの呼吸が重なるほど間近で働き、言葉ではなく動きで意思が通じる瞬間がいくつもあった。


 ようやく第二層奥へ到達すると、装置が放つ低い振動がさらに強くなった。通路の角を曲がった先には、古代文明の制御盤があった。台座は複数の魔力流路に繋がれ、中央の石が脈動するように明滅していた。


「これが……原因の中心」


 エリスは膝をつき、流路の基部を触れた。指先に熱が伝わる。通常の制御熱を超えている。


「変換値が上がっています……暴走の最終段階です」


「止める方法は?」


「二段階です。流路の調整と、変換装置の回転を同時に行う必要があります」


「同時……一人では無理だな」


「はい」


 エリスは深く息を吸い、手袋を締め直した。


「わたくしが流路を調整します。将軍閣下は、装置の回転を固定しながら、角度を一定に保ってください」


「了解した」


 セドリックは台座へ近づき、重厚な制御輪に手をかけた。金属が熱を持っているにもかかわらず、彼の動きは迷いがなかった。


「始めるぞ」


「はい」


 エリスは魔力流路の基部に手を添え、小さな工具を差し込んだ。流量の偏りを感覚で読み取りながら、力の方向を少しずつ変えていく。ほんの数度の違いで、地盤への負荷が大きく変わるからだ。


「……今です、角度を五度戻してください」


「了解」


 セドリックの腕が動き、制御輪が重々しく回る。金属が擦れる音が響き、装置の鼓動が少し弱まった。


「次は三度……いえ、二度戻してください!」


「任せろ!」


 通路全体が震えた。壁の石が落ち、足元に転がる。崩落の危険が迫っている。


「あと少し……あと少しだけ……!」


 エリスは額から汗が落ちるのも気にせず、工具を押し込んだ。流路の熱が手袋越しに伝わり、腕が痺れた。


 そのとき、制御盤の脈動が急に強まった。


「まずい、装置が反発している!」


「流れが逆転しています……角度を保持してください!」


「押さえる!」


 セドリックが全身で制御輪を押さえた。筋肉が軋む音が聞こえるほどの力だ。金属が不自然にうなり、制御輪が跳ね上がろうとする。


「エリス、急げ!」


「もう少しです……!」


 エリスは手を伸ばし、最後の調整具を流路へ差し込んだ。魔力の流れがわずかに均等へ寄るのが分かる。あとは装置を一定の速度で回し、停止位置へ導くのみだった。


「角度を──五度、反時計回り!」


「了解!」


 セドリックの腕が重い輪を回す。金属の抵抗が激しく、回転が鈍った。


「行け……!」


 最後の角度が合った瞬間、制御盤の脈動が緩やかになり、熱が引いた。エリスは大きく息を吐き、手を引いた。


「……止まりました」


「本当か?」


「はい。暴走は停止しました。魔力の偏流が正常に戻っています」


 セドリックは制御輪から手を離し、深い呼吸を繰り返した。鍛えられた腕が緩み、緊張が一気に解けていく。


「助かった……」


 エリスもその場に座り込み、肩で息をした。装置の熱は完全に収まり、台座は静かに沈黙していた。


 そのとき、通路の奥で小さな音がした。二人は同時に顔を向けた。


 通路の入口に――人影があった。

 いや、“誰かが立っている”のが見えただけだ。


「誰だ?」


 セドリックが問いかけると、ゆっくりと歩み寄ってきた。灯りがその顔を照らす。


「……前任測定官、ダリウス」


 エリスははっきりと名を呼んだ。


 五年前の測量局に所属し、突然辞めたはずの男。記録上は地方へ行ったとされていた人物。その彼がなぜここに?


「久しいな、エリス嬢」


 ダリウスは力の抜けた笑みを浮かべていたが、その目には焦りと諦めが入り混じっていた。


「あなたが……この装置を操作したのですか?」


「そうだ。王宮を守るためだった。そう、ずっと思っていた」


 その声は震えていた。責任や悪意ではなく、自分の選択の重さに押し潰された者の声音だった。


「どういうことですか?」


「殿下の側近に頼まれた。『地下を安定させるため、調整が必要だ』と。それで……私は鍵を開け……」


「調整ではありません。あなたがしたのは暴走の引き金です!」


 エリスの声は揺れなかった。怒りではなく、技術者としての明確な指摘だった。


「分かっている……あのとき、少しだけ流量を増やすように頼まれただけだ。まさか、こんなことになるとは思わなかった」


「側近……誰ですか?」


 問いかけると、ダリウスは頭を抱えた。


「名を言えば……私は……」


 そのとき、通路奥から複数の足音が響いた。衛兵の姿が見える。


「将軍閣下! この音は……」


「行くぞ、エリス」


 セドリックはエリスの腕を取り、後方の安全な通路へ誘導した。ダリウスは膝をつき、衛兵に囲まれた。


「エリス嬢……すまない……私は……」


 言葉は続かなかった。


 通路の奥が少しずつ崩れ始めていた。制御装置の暴走は止めたものの、地盤には残留負荷があり、石組みが徐々にずれている。


「急いで地上へ戻ります。ここはもう危険です!」


「分かった!」


 二人は崩れゆく通路を駆け抜け、補強板を抜けて第一層へ戻った。背後で石材が落ちる音が連続し、通路が塞がっていく。


 地上に出たとき、夕日が王宮の窓を赤く染めていた。塔の沈下は収まり始め、城壁の歪みも減っている。


「……止まりました」


「ああ。原因を封じたからだ」


 立ち止まり、二人は呼吸を整えた。


 そのとき、エリスの胸にひとつの感情が浮かんだ。

 安堵でも誇りでもない。

 “この人となら、どんな現場でも歩ける”という実感だった。


 恋として言葉にするにはまだ早い。

 だが確かに、心の中の構造が変わり始めていた。



 王宮地上へ戻ってきたとき、すでに夕日は沈みかけていた。塔の傾きは静かに収まり、城壁の亀裂も広がってはいない。装置の暴走を止めたことが、確実に地盤へ伝わった結果だった。


「構造の揺れは止まりました。これで崩落の危険はひとまず去りました」


「よくやった、エリス」


 セドリックの言葉は簡潔だったが、その中には確かな信頼と感謝が詰まっていた。エリスは呼吸を整えながら、記録表を閉じた。


「次は……黒幕の特定です」


「ああ。ダリウスが協力者とは考えにくい。利用された側だ。命令した者が必ずいる」


 そのとき、王宮正門のほうから複数の衛兵が駆けてくる音がした。先頭に立っていたのは王宮管理局長のオルドンだった。背後には王太子ルートヴィヒ、その側近である文官ハロルドの姿があった。


 オルドン局長は王宮でも腕の立つ“事務”の人間だが、現場には滅多に降りてこない。その彼が急いで姿を見せた理由はひとつしかない。


「エリス・ファルベン、この場で質問に答えてもらおう!」


 局長の声は大きく、周囲にいた兵士たちの視線が集まった。エリスは背筋を伸ばし、一歩前へ進んだ。


「質問にお答えします」


「地下の無許可区域へ侵入したと聞いている。事実か?」


「無許可ではありません。測量局の許可、および北方軍の同行許可があります」


 エリスが申請書を示すと、周囲がわずかにざわついた。事務的確認を局長が急いだ気配が伝わった。


「……確かに、申請は通っている。しかし、危険区域へ入った理由は?」


「沈下の原因が地下にあると分かったからです。放置すれば王宮が崩れ、多くの命が失われていたでしょう」


「ふん、危険だと判断されたのなら、なぜその判断を殿下へ仰がなかったのだ」


 局長の問いに、エリスは静かに答えた。


「殿下はわたくしが“誤計測をした”として婚約破棄し、調査の価値を否定されました。判断を仰いでも、承認される可能性は低かったからです」


 ざわつきが一段と大きくなった。ルートヴィヒの顔がわずかに引きつる。


「そ、それは……」


 セドリックが前に出た。


「沈下が進めば城壁が落ち、王都へ甚大な被害が出る。兵を指揮する立場として、地下調査は正当な判断だった。エリス殿の行動に一点の過誤もない」


 その言葉に、衛兵たちが頷いた。彼らは現場の状況を知っている。沈下が真実だったことも、エリスが危険を承知で作業したことも。


 王太子ルートヴィヒが一歩前に出た。


「……ダリウスを拘束したと聞くが、彼が沈下の原因なのか?」


「違います」


 エリスははっきり否定した。


「ダリウス殿は利用された側です。装置を操作したのは彼ですが、その動機は“王宮を安定させるため”と偽られていました。命令した者がいます」


「命令……?」


 ルートヴィヒの隣で、ハロルドが身を固くした。エリスはその反応を見逃さなかった。


「ハロルド補佐官。ダリウス殿を地下へ誘導し、鍵を開けさせたのは、あなたですね」


 ハロルドの顔色が一瞬で変わった。周囲の兵士の視線が集まる。


「な、何を……証拠があるのか?」


「あります。魔力流路の操作痕に、あなたが扱う“速記符号”が刻まれていました。これはあなたしか使わない術式です」


 ハロルドの唇が震えた。エリスは続ける。


「あなたは、殿下の政務を助ける立場にあります。しかし、その権限を超えて地下装置に干渉した。目的は分かっています。沈下を殿下の責任から遠ざけ、測定官であるわたくしに転嫁するためです」


「違う! 殿下のために……!」


 ハロルドの叫びが空気を震わせた。


「殿下が塔の沈下を知れば、王宮管理の責任を問われる。だから、沈下を“誤計測”に見せかける必要があったのだ! 殿下の評判を守るために……!」


 ルートヴィヒの顔から血の気が引いた。


「私は……そんな命令はしていない!」


「していなくても、あなたの側近が“良かれと思って”暴走したのです」


 セドリックが静かに言った。


「殿下。今ここで必要なのは弁明ではなく、事実の受け止めです」


 ルートヴィヒは拳を握りしめ、歯を食いしばった。


 


 王宮が沈む原因を作ったのは、王太子の側近――

 そして、その結果としてエリスは不当に婚約破棄され、責任を押しつけられた。


 兵士たちがハロルドを拘束し、オルドン局長も沈黙した。


「殿下。あなたの判断は、王宮の安全を危険に晒しました」


 エリスの言葉は穏やかだったが、確かな重みを持っていた。


「わたくしを誤計測と断じたのは、政治では理解できます。しかし、技術を否定する根拠にはなりません」


「…………すまなかった」


 ルートヴィヒは深く頭を下げた。その姿は、王太子としてではなく、一人の青年としての謝罪だった。


「責任は私が負う。王宮管理の見直しは、すぐに始める」


 事態は静かに収束へ向かっていった。



 夜、王宮の外庭。沈下が止まり、庭師たちが石畳の調整に取りかかっていた。


 エリスはベンチに腰を下ろし、測定具を磨いていた。そこへセドリックが近づく。


「疲れたか?」


「はい。でも……胸の奥が、軽いです」


「王宮は守られた。貴女がいなければ、崩れていた」


「将軍閣下がいなければ、装置を止められませんでした」


 互いの言葉は自然に重なった。


「エリス。ひとつ聞きたい」


「はい?」


 セドリックは真剣な眼差しで、彼女の正面へ立った。


「これからも……現場で隣に立ってくれるか?」


 エリスは一瞬だけ瞬きをした。胸の奥に、あたたかい何かが広がる。


「わたくしでよろしければ」


「ならばもう一つ」


 セドリックは膝をつき、静かに手を差し出した。


「エリス・ファルベン。王宮を守った建築測定官……どうか私の婚約者になってほしい」


 その言葉は、決して甘いものではなかった。

 戦場に立つ者が、共に歩みたいと願う“相方”への真摯な求婚だった。


「……はい。喜んで」


 エリスは手を取った。

 王宮の構造は安定し、二人の未来も静かに重なっていく。



完。

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