異世界診療所〜日常〜
朝靄がまだ町の屋根の上に残る頃、診療所の窓からは薬草を煎じる香りが立ちのぼっていた。石畳の路地を行き交う人々は、職人たちの掛け声や焼きたてのパンの香りに包まれながら、それぞれの一日を始めている。町の外れに位置するボマニ・ニューギンの診療所もまた、静かに目を覚ました。
建物は石造りの二階建てで、外壁には緑の蔦が絡み、玄関脇には小さな薬草畑が広がっている。そこにはミントやラベンダーに似た香草、止血に効く赤葉草や発熱を抑える白根草が植えられ、朝露に濡れてきらめいていた。通りすがりの子供たちがその香りに誘われ、立ち止まっては小さく鼻をひくつかせるのもよくあることだった。
診療所の扉を開けると、すぐにほのかな薬草の匂いが漂う。白い漆喰の壁、木製の棚に並ぶ薬壺や乾燥させた薬草束。中央には清潔に整えられた診察台が一つあり、その周囲には器具や包帯がきちんと並べられている。
「先生、包帯は新しく巻き直しました。あと、昨日煎じた薬は棚の上段に移しておきました」
低い声が響く。助手のハサニ・カタミリは、まだ十代半ばの若者だが、手際の良さは年齢を感じさせない。眼差しは真面目で、少し緊張を帯びている。
「ありがとう、ハサニ。君がいてくれると助かるよ」
ボマニは厚手の袖をゆったりと捲り、窓辺に置いた医学書を閉じながら答える。昨夜遅くまで読み込んでいた本で、書き込みの跡がいくつも残っていた。
「回復魔法だけに頼る医者は、薬の棚を空にしてしまうものさ。けれど、この町の人々は薬も刃も、時には祈りも必要とする。だから忘れないようにね」
「はい……先生。魔法があれば全部治せる、なんて思っていた時期もありましたけど、今は分かります」
ハサニは控えめに笑みを浮かべ、包帯をきれいに畳んでいく。その仕草はどこか慎重で、同時に誇らしさも感じさせた。
その時、診療所の扉が小さく叩かれる音が響く。まだ朝早いというのに、助けを求める人が訪れたのだ。二人は視線を交わし、自然と動き出した。
「さて、今日も忙しくなりそうだ」
ボマニは深く息を吸い込み、薬草と木の香りの混ざった空気を胸いっぱいに満たすと、ゆるやかな笑みを浮かべて玄関へ向かった。
扉の前に立っていたのは、まだ七つか八つほどの少年だった。額に小さな擦り傷があり、頬は涙で濡れている。手を引いているのは母親で、少し気まずそうに頭を下げた。
「すみません先生、朝から……。この子がまた木に登って落ちてしまって」
「木のほうが無事で何よりです」
ボマニは柔らかい声でそう返し、少年を診察台に座らせた。
ハサニが慣れた手つきで傷口を拭い、薬草を混ぜた消毒液を染み込ませると、少年は「ひゃっ」と肩をすくめる。ボマニは掌をそっと傷にかざし、短い詠唱を口にした。淡い光が滲み、皮膚がゆっくりと閉じていく。魔法は傷の深さを浅くし、痛みを和らげるが、完全な治癒には時間が必要だ。
「明日からは無茶をしないように。傷はもう大丈夫だが、動かしすぎればまた開く。木登りは少しお休みだ」
「……はい」
少年は気まずそうにうなずき、母親が安堵の笑みを浮かべた。支払いを差し出す手を、ボマニはひらりと振って断る。
「朝一番の診療代はいただかないことにしているんです。私の習慣でしてね」
母子が去った後、診療所には一息つく静けさが訪れた。だがそれも束の間、今度は腰を押さえた農夫が訪れる。長年の田仕事で積もった疲労が、ついに体を重くしていた。ボマニは椅子に腰掛けさせ、背骨を押さえ、筋の硬さを確かめる。
「これは魔法では治せませんね。熱を持った筋肉を少しずつ緩めましょう。数日休めれば楽になります」
「休めと言われても……畑が待っちゃくれねぇですからな」
「だからこそ、畑を続けられる体を作らねばならないのですよ」
ボマニの口調は穏やかだが、言葉の芯には強い意志がある。農夫は渋々うなずき、処方された軟膏と薬草茶を受け取った。
その合間、診療所には実に様々な人が訪れた。旅の途中で靴擦れを起こした商人、剣の稽古で腕を捻った若者、さらには「ただ相談に来ただけ」と言う孤児院の子どもたち。ボマニは誰に対しても声を荒げることなく、同じ目線で話を聞いた。
「先生、貴族の使いの方からも予約が入ってます」
昼を過ぎた頃、帳簿を整理していたハサニが声を上げた。
「どうやら次は……領主様の執事殿らしいです」
「ふむ、あの方は几帳面でこちらまで背筋が伸びる。だが、患者に違いはない」
ボマニは静かに笑い、窓辺に干していた薬草を摘み取った。
診療所の扉は、今日も途切れることなく叩かれ続ける。魔法と薬と、少しの会話とで、町の人々の暮らしを支える小さな拠点。そこに漂うのは慌ただしさではなく、不思議な安らぎだった。
領主家の執事殿の診察を終えたばかりだった。軽い胃の不調と疲労で、消化薬と食生活の助言を与えると、執事は几帳面に礼を述べて帰っていった。室内に残るのは薬草とインクの香り、そして片付けをするハサニの小さな動作音だけだった。
「今日はひと息つけそうですね」
「ふむ……そう願いたいところだが」
ボマニが言いかけた瞬間、診療所の扉が荒々しく開かれた。
「先生っ、助けてくれ!」
血の匂いが一気に流れ込み、診療所の空気は一瞬で凍りついた。二人の冒険者が、仲間を抱え込むようにして駆け込んできた。床にまで滴る鮮血が、石畳を汚して赤黒い斑を作る。
診察台に横たえられた男の体は、左肩から右脇腹まで大きく裂かれていた。呼吸のたびに胸郭の奥で泡立つ音が響き、肺の中に空気と血が混ざり合っていることを告げている。
「……間に合うか?」
冒険者仲間の問いに、ボマニは即答せず、傷口に目を凝らした。
「――手術だ。ハサニ、準備!」
声は低く、それでいて鋭く響いた。ハサニは即座に器具棚を開き、布、糸、刃物、清潔な水と酒精を並べる。その手の動きには焦りが混じるが、目だけは真剣に燃えていた。
「眠りの詠唱……完了。麻痺魔法も重ねます」
冒険者の身体が力を失い、苦痛の表情が薄れていく。ボマニは気道を確保するため細い管を口腔から挿入し、呼吸の代わりに風魔法を微細に流し込む。淡い風の律動が、胸を規則的に上下させ始めた。
「いいぞ。血を拭け、視野を広げる」
布で拭うたびに新たな血が溢れ出る。ハサニは震える手で押さえ、ボマニは鋭い目で胸腔を覗き込む。
「左肺……無傷。右肺も……問題ない。心臓……」
一瞬、時間が止まったように見えた。だが次の言葉で、室内の重圧がわずかに軽くなる。
「……奇跡だ、損傷はない」
ハサニが小さく息を吐いた。その安堵も束の間、ボマニの声が続く。
「胸骨、肋骨、胸膜、心膜――切り裂かれた防壁を一つずつ修復する。糸を」
「はい!」
器具が手渡され、縫合が始まった。糸が肉を通る度、乾いた音が室内に小さく響く。薬草を溶かした液体を傷口に垂らせば、血の滲みが収まり、魔法が細胞の結合を助ける。だが魔法任せではない。一本一本の縫合が、確実に命を繋いでいく。
「ハサニ、光を強めろ。そこだ……よし、次は心膜だ。慎重に」
「……はい、先生」
助手の声は震えていたが、その手は驚くほど確かだった。
診療所は完全な静寂に包まれていた。外の通りの喧騒も、この部屋には届かない。ただ、刃の音と布の擦れる音、そして二人の息遣いだけが響き続けていた。
最後の縫合を終え、傷口を清潔布で覆ったとき、診療所に漂っていた緊張がふっと緩んだ。冒険者の胸はゆっくりと上下し、呼吸は風魔法に頼らずとも自力で続いている。
「……助かったのか?」
待ち続けていた仲間が、おそるおそる声を漏らす。ボマニは布を外した手を静かに拭い、短くうなずいた。
「今は安定している。二日は絶対安静。無理をすれば命を落とすが、休ませれば戻れる」
仲間の冒険者たちはその場に膝をつき、声を殺して涙を流した。だがボマニは、それ以上の言葉をかけることはしない。ただ、淡々と血で濡れた器具を洗い、次の使用に備える。
「先生……お疲れさまでした」
ハサニが小声で呟く。彼の頬には汗が伝い落ち、指先はまだわずかに震えていた。
「これが我らの仕事だ。助けを求めて来る者に応じる、それだけさ」
ボマニは微笑み、肩を軽く叩いた。
夕刻。診療所の窓から差し込む橙の光が、乾いた薬草を照らしていた。騒ぎを終えた室内には、再び日常の匂いが戻ってくる。
扉の外からは、商人が値切り交渉をする声や、子供たちの笑い声が聞こえてきた。診療所はその喧騒のただ中にありながら、変わらず小さな灯火のように町を見守り続けている。
ボマニは片付けを終えると、机に広げた医学書を手に取った。
「さて、夜は読書の続きだ。次に備えねばならん」
その背を見ながら、ハサニは深く息を吐き、静かに頷いた。
――町医者の一日は、今日もまた終わり、そして明日も始まる。




