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8章:休息と確かな手応え

夏休みに入り、猛暑は日を追うごとに厳しさを増した。照りつける日差しがグラウンドの土を乾かし、陽炎がゆらめく。しかし、球児たちの熱気はそれを上回っていた。一軍も二軍も関係なく、朝から晩まで野球漬けの毎日だ。午前中は基礎練習、午後は実戦形式の守備や打撃練習。そして、投手陣はひたすらブルペンで投げ込んだ。汗は滝のように流れ落ち、ユニフォームはすぐに重くなり、砂埃が舞うグラウンドはまさに戦場と化していた。喉の渇きと全身の疲労が常に付きまとい、休憩時間もわずかしかない。寮に戻れば、食トレとは良く言ったもので一人三杯の丼をノルマに食事をして、ミーティング、そして自主練習。一日中、野球に捧げる日々が続いていた。

そんな地獄のような練習の合間にも、年に二度だけ許される休息があった。お盆と正月。連日の猛練習で疲れ切った体には、何よりの癒やしだ。友生は、隣を歩く裕生と一緒に、馴染みのないJRの電車に揺られていた。名古屋に近い東海西高校から、乗り換えを繰り返して向かうのは、愛知県の知多半島、セントレアにほど近い実家だ。窓の外を流れる見慣れない景色が、次第に見慣れた風景へと変わっていく。友生の心は少しずつほぐれていった。寮での張り詰めた緊張感が、遠ざかる風景とともに薄れていくのを感じる。

玄関のドアを開けると、香ばしい夕食の匂いが鼻腔をくすぐる。

「おかえりー。久しぶりだね」

母が満面の笑みで出迎えてくれた。その優しい声と表情に、友生はホッと胸を撫で下ろす。この温かさが、どれほど恋しかったことか。キッチンで忙しく動いているのは父。基本料理の担当は母なのだが魚屋で働いていたことがある経験を活かしてなのか魚を捌くのは父の仕事と昔から決まっている。

「おお、おかえり!二人とも、お疲れさん。まだもう少しかかるから先風呂入ってきたらどうだ」

父親が殊更忙しく出迎える。

「ただいま。じゃあ風呂先に入ってくるわ」

友生は先に風呂に入ることにする。一方裕生は何をしているかと横目で見ると、飼っている灰色と白のミニチュアシュナウザーに挨拶をしている。

「ほれほれ、元気にしてたか、ぽんた」

ぽんたと呼ばれた犬は裕生に頭を撫でられ気持ちよさそうにする。

しばらくして裕生も友生も風呂を出ると、食卓には、母親の手料理が所狭しと並べられていた。から揚げ、エビフライ、牛すじ煮、焼き肉、天ぷら、刺身……どれも裕生と友生の好物ばかりだ。

「作りすぎじゃね?4人家族なのにこれ15人前くらいあるよ?」

友生はその料理の量を見て愕然とした。

「大丈夫、大丈夫。兄ちゃんいれば大体食べちゃうよ。残ったら明日の朝ご飯にすればいいし」

まあいいけど、と席に着いて食べ始める。寮の食事とは違う、温かい家庭の味に、友生の胃袋は喜びの声を上げた。久しぶりに食卓を囲む家族の顔を見ていると、自然と笑顔がこぼれる。

「最近どう? 練習はきつい?付いていけてる?」

元々中学時代ベンチ入りすらできなかった友生を心配そうに母が尋ねる。

「うん、それが順調も順調なんだ。最初は四軍配属だったんだけど、ついこの間二軍に上がったんだ。そこからは実践的な練習が増えてきついけど、でも、楽しいよ。色々なことを教えてもらって、新しい投げ方の感覚を最近掴め始めたんだ」

友生は箸を動かしながら答えた。新しいストレートについて話す友生の目は、輝いていた。その表情には、野球に対する純粋な喜びが溢れていた。

父親がビールを一口飲み、裕生に目を向けた。

「裕生も最近は調子どうだ? 夏の大会は悔しかっただろうが」

父親の言葉に、裕生は一瞬表情を曇らせたが、すぐにいつもの明るい笑顔を作った。

「まあ勝負の世界だから勝ち負けは付きものだよ。もちろん悔しいけど俺のせいで負けた、なんて恐れ多くて言えないよ。言ったら多分加藤先輩とか成田先輩にお前ごときが生意気言ってんじゃねーって怒ってきそうだな」

裕生は苦笑いしつつ大好物の牛すじ煮に手を伸ばす。

裕生の手は、以前よりも少しごつごつとして、練習でできた豆が痛々しく見えた。目の下にはうっすらと隈もできている。寮に戻ってからも、裕生が一人黙々と自主練習に打ち込む姿を、友生は何度か目撃していた。その練習は、周囲の誰よりも長く、そして激しかった。

「でも、練習はしてるよ。次の大会では絶対打ってやるからさ。見ててくれよ、父さん」

その言葉には、夏の大会で結果を出せなかった悔しさ、そしてそれをバネに、誰よりも努力して次こそは、という強い決意が滲んでいた。裕生の顔には、練習の厳しさと、夏の大会での悔しさがまだ深く刻まれているようだった。それでも、彼の瞳には諦めない強い光が宿っていた。

食事が終わり、友生はリビングで裕生と二人きりになった。テレビからは野球中継が流れている。画面の中でプロ野球選手たちが華麗なプレーを見せるたびに声を出す。

「うーん、ここでインハイストレートか。教科書通りなら外のスライダーだけど何を見て裏をかいたんだ?」

裕生は必死にキャッチャーのリードを勉強しているようだ。

「裕生、最近、ちょっと顔色悪いんじゃない? 無理しすぎてないか?」

自分でも唐突だと思ったが友生は心配して尋ねた。裕生の身体を案じる気持ちが、素直な言葉となって出た。裕生は苦笑いをして友生の方を向いた。

「大丈夫だって。ちょっと練習しすぎただけ。送別会の時に加藤先輩達に釘刺されてるからな、身体が資本だぞ、ってね。お前こそ、二軍で頑張ってるんだろ? 投球フォーム良くなったって聞いたぞ。今度受けさせてくれよ」

裕生の言葉に、友生は少し驚いた。同じ寮にいるとはいえ、裕生が自分のピッチングの変化を知っているとは。おそらく、寮の先輩やコーチを通じて情報が入ったのだろう。

「うん、高尾さんに教えてもらって、ちょっと掴んだんだ。なんか、今までと全然違うんだよ。球はまだ遅いんだけど今までにないスーッとキャッチャーのミットに収まる感覚。サイドスローに比べると格段にコントロールも良くなったんだ」

友生は、興奮気味に新しいストレートについて話した。指先の感覚、ボールの軌道、そして紅白戦で実際に打者が戸惑っていた様子。一つ一つ、熱を込めて語った。裕生は真剣な表情で友生の話を聞き、時折深く頷いた。彼の目には、弟の成長に対する喜びと、自分も負けていられないという静かな闘志が浮かんでいた。

「そうか。それは良かったな。お前なら、もっと伸びる。頑張ろうぜ、友生」

裕生の言葉は、友生にとって何よりの励みになった。それは単なる慰めではなく、同じ野球の道を歩む兄からの、心からのエールだった。裕生もまた、夏の大会で結果を出せなかった悔しさを胸に、自分を追い込んでいる。友生は、裕生が、以前よりもずっと大きく見えた。

厳しい練習の合間、家族の温かさに触れ、改めて野球への情熱と目標を再確認する時間となった。お盆の短い休息は、友生の体だけでなく、心にも栄養を与えてくれた。明日からの練習も、また頑張ろうと友生はそう心に誓い、故郷の夜空を窓越しに見上げた。その空には、満月が輝いていた。都会の喧騒を離れ、静かな夜の空気に包まれながら、友生は自分の進むべき道を改めて見つめ直していた。


お盆の短い帰省を終え、友生と裕生は再び寮へと戻った。心身ともにリフレッシュしたものの、待っていたのは容赦のない夏の練習だった。夏休みも終わりに迫りつつある中、合宿が始まり、練習の強度と時間はさらに増した。朝はまだ薄暗いうちからグラウンドに出て走り込み。体中の水分が根こそぎ奪われ、意識が朦朧とする。午後は守備練習、打撃練習、そして投手陣はブルペンでの投げ込みと走り込み。夏の暑さで身体が悲鳴を上げ、全身が鉛のように重くなる。監督やコーチの怒鳴り声が、グラウンドに響き渡る。

「おい、友生! ペース落ちてるぞ!もうへばったのか?その程度で一軍に上がれると思ってんのか!」

「小高! 捕ってから握り変えるんじゃねぇ!練習してない時もボールを手に馴染ませろ!」

「大野、今のスイングじゃ通用しない!もっと体を使え!木のバット使ってる言い訳にならないぞ!」

大野は成田に倣い金属バットから木製バットに変えて練習をするようになった。ただそんなことはお構いなしに容赦ない指示が飛び交う。練習の厳しさは、二軍に上がった友生にとっても想像以上だった。疲労は蓄積し、全身が悲鳴を上げている。だが、誰も音を上げない。皆、甲子園という目標を胸に、歯を食いしばって耐え抜いていた。

特に、秋本の練習態度は、以前にも増して良くなっていた。それこそ走り込みなどは未だ手を抜くこともあるものの一軍昇格未遂の一件以来ブルペンでの投球を休んでいるのを見たことがない。自分の弱点を突きつけられてから、彼の表情からは以前の気だるさが消えていた。

「あー!クソッ!曲がんねぇ!」

ブルペンでは球数を増やし、変化球の練習にも熱心に取り組んでいる。あれだけの豪速球を投げる天才なのに変化球の習得は上手くいっていないように見えた。秋本はグラウンドで唸るように吠えて、苛立ちを見せることもあった。

「あいつ、変わったな」

「文句ばっかだったのに、最近は工夫しながらやってるよな」

彼の投げる球には、まるで監督への反骨心と、自分自身への怒りが込められているようだった。そんな秋本の変化を間近で見て、彼の秘めたる闘志と、一軍への執念に圧倒されていた。秋本が自分の弱点と向き合い、それを克服しようと必死になっている姿は、友生にも大きな刺激を与えた。


そんな地獄のような練習の合間に、二軍チームの練習試合が組まれることになった。目的は、夏休み中の練習の成果を試すこと。そして、友生にとっては、覚醒したストレートを実戦で試す初めての機会だった。この日のために、友生は高尾のアドバイスを胸に、ブルペンで何百球、何千球と投げ込んできた。指先のわずかな感覚、腕の振りの角度、体の使い方。一つ一つを意識し、無意識に体に染み込ませようと必死だった。

「友生、今日は先発だ。どこまでやれるか楽しみにしてるぞ」

監督の言葉に、友生の胸は高鳴った。緊張よりも、ようやくこの球を試せるという期待感が勝っていた。ブルペンでの感触は確かだった。高尾のアドバイスを受けて掴んだ、指先から真っ直ぐに押し出すような感覚。それが実戦で通用するのか、通用しなければ意味がない。友生は、逸る気持ちを抑えながら、試合の展開を見守った。

1回表、友生がマウンドに上がる。久しぶりの対外試合。ロージンバックをマウンドの後方に放ると白い粉が地を舞う。今日のスタメンマスクは2年生の下地寿人(しもじひさと)だ。とにかく頭を使うことに長けたキャッチャー。投球練習を終えるとマウンドに駆け寄ってくる。

「サインの確認だ。グーがストレート、チョキがチェンジアップ、コースは指で指示する。パーはウエストで牽制が小指を使う。大丈夫だな?」

「大丈夫です」

大きく頷いた。下地が戻っていくのを確認しつつ後ろを振り返る。ショートのポジションに小高、セカンドには大野、サードには調整で参加している小林がいる。小高と目が合ったのでグラブを小高に向ける。小高はフッと笑うとグラブをひらひら動かした。一番バッターが打席に入る。キャッチャーからのサインはストレートインコース。初球、友生は渾身のストレートを投げ込んだ。

シュッ

お世辞にも速いとは言えないボールだと思うが放たれたボールは、キャッチャーのミットに吸い込まれるように収まった。打者のバットは空を切る。

「ストライク!」

審判の明瞭な声がグラウンドに響き渡る。球速は120キロ前半程度だろう。しかし打者は完全に振り遅れていた。友生は、この新しい球に確かな手応えを感じながら、次のサインを待った。

友生は、次に内角低めに同じストレートを投げ込んだ。打者は前の球のノビに驚き、少しタイミングをずらしたように見えた。今度はバットがわずかに触れるも、打球は力なくピッチャーゴロ。友生は冷静に処理し、軽快な動きで一塁へ送球、アウトを取った。これで1アウト。少し落ち着ける。

サイドスローの時から使っているチェンジアップ。握りこそ所謂OKボールと呼ばれる握りだがストレートと同じ腕の振りで投げられる為初めに選んだ変化球。2番、3番打者もストレートとチェンジアップのコンビネーションで見事に打ち取り三者凡退。

ベンチに戻ると、チームメイトたちが口々に友生の投球を称賛した。

「ナイピッチ!」

「なんであんな遅いのに打たれねえんだよ!」

仲の良い小高も背中をグラブで叩きながら

「良いじゃねーか」

とあまり表情を変えずに友生に伝える。

「おう」

友生は少し照れくさそうに笑った。キャッチャーの下地は誰よりも落ち着いた顔で、水を飲みながらぽつりと言った。

「面白い投げ方だな。打者から見たら相当見にくいと思う。……次はもう少し際どく行くぞ」

一見淡々としているが、的確で信頼に足る言葉だった。キャッチャーがそう言ってくれるだけで、友生は少しだけ自信を深めることができた。

続く2回表も、友生はマウンドに上がった。4番打者には徹底的に外角を攻め、上手く緩急を使い、最後は高めの釣り球を空振り三振。続く5番も連続三振に取ると相手チームからもどよめきが聞こえる。それもそうだ。中学野球ならいざ知らず、高校野球で球速120キロ程度で連続三振しているのだ。

5回を投げ切ったところで監督が友生に声をかける。

「ナイスピッチ。今日はこれで交代だ。しっかりアイシングしておけよ」

監督は更に続ける。

「もっと厳しくコースを突けるようになれば、さらに面白いことになるだろうな。このピッチングの精度を上げられたら、野球がもっと楽しくなるはずだ。期待しているぞ」

「はい!」

結局この試合は5回を投げて無四球2安打というピッチング結果だった。アイシング道具をつけてベンチに座り自分の右手を見て、握る。まだ一試合。だが初めて一試合通して結果を出すことができた。その実感が、じんわりと胸に広がる。友生は、監督の言葉を胸に深く刻んだ。球速はまだ遅い。それでも、この球を磨けば、もっと通用する。もっと野球が楽しくなる。その言葉が、友生の中に新たな目標と、野球へのさらなる情熱を灯した。

試合が終わったあと、ベンチの端で下地が自分のノートに黙々と何かを書き込んでいるのが見えた。

「……チェンジアップ、3番には有効。5番は目線を変えたがらない」

声に出して復習しているのか、独り言のようにぶつぶつと戦術を繰り返していた。

自分も野球ノートを書いた方がいいのかな、とふと思った友生だった。


長く厳しい夏休みも終わり、二学期が始まった。グラウンドでの練習は相変わらず続くものの、久しぶりの学校生活に、友生はどこかほっとする。教室のざわめき、友達との他愛ない会話、そして勉強。野球漬けの毎日とは違う、ごく普通の高校生の日常が、疲弊した心に小さな安らぎを与えてくれた。

昼休み、飯田と小高と共に学食に向かう。友生はカツ丼を頼み、席に座り食べ始める。

「下地先輩ってさ、あんま喋んないけど、あの人試合終わった後にノート取ってるんだよ」

「おお、知ってる知ってる。俺も物凄くお世話になったからな。配球パターンとか自分で分析して、プリントまで作ってんの知ってるか?」

「マジで?」

飯田の話に友生は驚く。あの落ち着きの裏に、積み重ねた思考と分析がある。だからこそ、信頼できるキャッチャーなんだ、と改めて思った。

「にしても、やっと学校始まったな。夏休み、ずっと野球ばっかで全然遊べなかったから、なんか変な感じするな」

飯田が大きく伸びをする。

「勉強はしなくていいのか?」

友生が訊くと、飯田はヘラヘラと笑った。

「野球やってればいいんだよ、俺ら球児は!それよりさ、友生。お前彼女とかいたことあるの?」

飯田の突然の質問に、友生は思わずカツ丼を喉に詰まらせそうになった。

「は?何言ってんだよ。んなもんいるわけねーだろ」

「だよなー。でもさ、たまにはそういう息抜きも必要じゃね?俺とかまじで彼女欲しいんだけど。甲子園行ったらモテるかな?」

隣で小高がフッと嘲笑気味に顔を背ける。

「お前のその顔でモテるわけねーだろ。そもそも背番号1取ってから言え」

小高が呆れたようにツッコむ。一軍でエース争いをする武藤と飯田は、グラウンドでは火花を散らすライバルだが、こうして一歩グラウンドを離れれば、普通の高校生に戻る。飯田の奔放さに、小高が冷静に突っ込むのがいつもの光景だった。

友生は彼らを見て、少し羨ましく思った。野球以外にも、青春を謳歌できる彼らが眩しかった。自分は、野球が楽しい。だからこそ、今は野球に打ち込めている。それでいい、と分かってはいるけれど、時折、彼らの自由な姿に憧れを抱く。それでも、この野球にかける情熱こそが、今の自分を支えている。友生はそう自分に言い聞かせた。

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