7章:希望の閃光
二軍への昇格が決まってから、友生の練習内容は一変した。これまでの四軍と三軍では、ひたすら走り込みと基礎体力強化が中心だったが、二軍ではより実践的な練習が増えた。
朝のグラウンドに響くのは、スパイクが土を噛む音、捕球の鈍い音、そして飛び交う指示の声。友生は、走り込みに加えて、守備練習や打撃練習にも本格的に参加するようになった。投手の友生は鋭い打球こそ少ないものの、状況別のシミューレーションなど、まだまだ頭を使わなければいけないことばかりだ。最初は戸惑うことも多かったが、必死に食らいついた。
打撃練習もバットの芯で捉えることすら精一杯で、とても良いバッティングとは言えなかった。
二軍のメンバーも、三軍とは顔ぶれが違った。同じ一年生の秋本、小高、大野といった見知った顔の選手たちと、共に汗を流す日々が始まった。
友生は、セカンドを守っている大野の動きに少しばかりの違和感を覚えていた。大野は入学直後の紅白戦で4番を打って悪態をついていた選手だ。彼は捕球の際に時折、左腕をかばうような仕草を見せる。そして、送球動作に入ると、そのぎこちないフォームで一塁へ送球していた。打撃練習では、ひときわ目を引く鋭い打球を左打席から放つ。友生は休憩中に意を決して、大野に話しかけた。
「あの、大野。もしかして、利き腕って左なのか」
友生の問いに、大野は鼻で笑うように答えた。
「は? テメエには関係ねーだろうが」
友生は、その冷たい返答にたじろいだが、気を取り直して続けた。
「いや、だって、投げ方がぎこちないから……もしかして、昔は左で投げてたとか」
「ああ、中学の時は左のピッチャーだったよ。肩ぶっ壊して、右に変えた」
大野は吐き捨てるように言った。
「これで満足か?人のこと気にしてる余裕あるのかよ、ヘボピッチャー」
その言葉には、友生のような凡庸な人間が知るべき情報ではない、という見下した響きがあった。友生は、大野が単なる「打撃の良い選手」ではない、深い背景を抱えていることを知ると同時に、彼の纏う独特な雰囲気に圧倒された。
小高は、監督から外野の練習を言い渡されていたはずだが、最近はショートのポジションでノックを受けている姿をよく見かけるようになった。軽快なフットワークと、鋭い送球は昔からショートをやっていたのではないか、というほどの動きだった。
「小高ショートもできるのかよ」
休憩中に声をかけにいく。
「始めたばっかだよ。元々ピッチャーだしな。コーチに聞いたら遠投して肩を強くする為に外野やっただけで本命はこのショートなんだとよ。最初から言ってくれってんだ」
そんな小高も嫌々言いつつも生き生きして見える。
そして、秋本。彼の投げる球は、球速、キレともに一軍レベルだと友生は感じていた。素行不良のせいで一軍に上がれないのか、それともそれ以外に理由があるのか。その理由は友生にはわからなかったが、時折、練習中に見せる苛立ちの表情から、彼が抱える葛藤が友生にも伝わってきた。
そんなある日、秋本が監督のもとへ向かう姿があった。
「なあ監督、いい加減にしてくれよ。なんで俺はまだ二軍なんだよ。俺がこのチームで一番上手いっしょ?」
秋本の気だるそうな声が、グラウンドに響く。監督は腕を組み、秋本をじっと見つめる。その目は、一切の感情を読み取らせない。
「ほう。ずいぶんと威勢がいいな。お前の実力は認めないわけじゃない。だが、ちゃんと理由がある。ちょうど良い機会だ。今日、一軍のフリーバッティングの打撃投手としてマウンドに上がれ。打者三巡を凌ぎ、点数が入るシチュエーションにならなければ、お前の勝ちだ。抑えられたら一軍に上げてやる」
「お、マジか。言ってみるもんだな。さっさと一軍に上がってやるよ」
監督の言葉に、秋本はニヤリと笑い、不敵な表情でマウンドへと向かった。
一軍のフリーバッティングが始まった。秋本はマウンドでわざとらしくボールを浮かせて遊び、周囲にふてぶてしい態度を見せつけた。秋本は最初の打者に対し、渾身のストレートを投げ込んだ。シュッ!と唸るような球が、キャッチャーのミットに一段と重い音を立てて吸い込まれる。その球威は、誰が見ても前回の紅白戦の速度を遥かに上回っていた。
「おいおい、150出てんじゃねーか?」
周りから声が上がる。一巡目の打者たちは、秋本のキレのある球にタイミングが合わず、凡打や空振りを繰り返した。秋本は、次々とアウトを積み重ね、その表情には確かな手応えと、どこか挑戦的な笑みが浮かんでいた。友生もその様子を息を飲んで見つめていた。
しかし、二巡目に入ると状況は一変した。最初の数球、秋本は力任せに投げ込んでいたが、そのフォームにはどこか余裕のなさが滲んでいた。一巡目で秋本の球筋を見極めた一軍の打者たちは、異様に球を捉え始めた。カキーン、カキンと鋭い打球が次々と外野へ飛ぶ。加藤が打席に立つと容赦ないスイングで柵越えも生まれる。秋本の制球も次第に安定しなくなり、苦し紛れのボール球が増え始める。
「ボール! ボール!」
審判を務めている1年生の鋭い声が飛ぶ。秋本の表情には焦りの色が浮かび、次第に肩で息をするようになっていた。結局打者3巡抑えるどころか良いバッティングピッチャーになってしまった。
「そこまでだ、秋本」
監督の声が、グラウンドに響き渡る。
「クソッ!!」
秋本は、グラウンドに響き渡るような声で怒鳴りつけ、大きく舌打ちをし、苛立ちを隠そうともせずにマウンドを降りた。監督は秋本の前に立つと、静かに言った。
「お前の球の威力は一軍レベルだ。それは認めよう。だが、お前には投球の幅がない。それとスタミナ不足。同じ球質の球を続けることで、打者に見切られてしまう。それがお前の弱点だ。今のお前では、一軍のマウンドで打ち込まれるのがオチだ」
監督の言葉は厳しかった。
「うっせえ!今日はたまたま調子が悪かっただけだ、クソッタレ!」
そう吐き捨てると、秋本は練習中にも関わらず、背を向けて寮の方へと歩き出した。監督は続けた。
「課題は明確だ。二軍で、もう一度自分を見つめ直せ。お前なら、必ず乗り越えられるはずだ」
こうして、秋本の一軍昇格の夢は、一旦は潰えた。友生は、一連の出来事を目の当たりにし、二軍の層の厚さと、一軍の厳しさを改めて感じていた。
そんな中、紅白戦で活躍した飯田と清水は、見事一軍への昇格を果たしていた。
これで一軍には、エースの武藤と飯田という二枚看板が揃う形となった。夏の大会では武藤がエースとしてマウンドを守ったが、秋季大会に向けて、二人の間には静かなエース争いが始まっていた。互いに意識し合い、練習の強度も格段に上がっていく。
「武藤先輩、次の秋季大会の背番号1は俺がもらいますよ」
「まだまだ若造が何を言ってんだ」
険悪、とまではいかないまでも火花を散らしながらブルペンでの投げ込みが続けられていた。
一方の清水もその小さな体からは想像もつかないほどのパンチ力を見せていた。
「よっしゃー! ナイスバッティング、清水!」
一軍の先輩たちからも声が飛ぶ。清水はいつもカラッとした明るい笑顔で、その声に応えていた。彼の持ち前の明るさは、一軍のピリピリとした空気の中でも、どこか爽やかな風を吹き込んでいるようだった。
走っても目を見張るほどの速さでグラウンドを駆ける。走塁だけでなくその足を存分に活かすように外野ノックもこなしている。
そんな二人の活躍を目にすると自分も早く一軍に上がりたいという思いを強くした。飯田と清水。同じ一年生が、すでに一軍で活躍している。友生は、彼らの存在が、自分を奮い立たせる大きなモチベーションになっていた。
夏休みに入る前の週末、例年より早い「3年生送別会」が開かれた。場所は、学校近くの中華料理屋を貸し切り。テーブルには、大皿に盛られたチャーハン、餃子、エビチリ、麻婆豆腐が所狭しと並べられ、食欲をそそる匂いが店中に充満していた。
普段は厳しい練習で疲労困憊の選手たちも、この日ばかりは顔をほころばせ、目の前の料理に次々と手を伸ばした。
「うっま!これ何皿でもいけるわ」
「おい、もっとチャーハン持ってこい」
あちこちから活気のある声が上がる。
友生は同じテーブルに座っていた松田に声をかけた。
「松田先輩、卒業しても野球は続けるんですか」
松田はビールジョッキに入った烏龍茶を一気に飲み干すと、少し寂しそうな顔で答えた。
「どうだろうな。とりあえず俺はこいつらとは違って頭が良いから大学には行こうと思ってる。まぁ、やるとしても草野球程度かな。もう競争やらプロやら、なんていう話はもういいかな、とは思っている」
その隣では、成田が松田の肩を叩いた。
「おいおい、そんなこと言うなよ。俺は野球続けるぞ。とりあえず俺は今年ドラフトに選ばれるかどうかって話だ。もし仮に今年のドラフトで選ばれなかったとしても絶対近い将来プロになって巨乳で顔の良い女子アナと結婚するんだよ!」
成田は豪快に笑った。それに続いて高尾も顔を出す。
「ていうかこいつらって誰のことだよ?まるで俺らのことをバカって遠回しに言ってるみたいじゃねーか」
「オブラートに包まずそのまま言ってやろうか?バーカ!」
その言葉を聞いて高尾が松田に対してヘッドロックを決めようとする。だが力は松田の方が強いのかそのヘッドロックを力づくで解こうとしている。
「おい、成田!この馬鹿力を一緒に抑えつけるぞ。今までキャプテンだったから従ってきたがそれまでの鬱憤もこっちはあるんだよ」
「ていうか成田も巨乳の女子アナと結婚するだあ?お前なんかプロテインと結婚するくらいがちょうどいいだろ。プロに行くにはまだまだ肉が足りん肉が!」
3年生の面白いやり取りに爆笑する友生は、その様子を楽しみつつ、3年生たちのそれぞれの道が始まっていることを感じた。
友生のテーブルにも、山盛りのチャーハンが置かれた大皿があった。
「俺もこれ食べようかな」
友生が手を伸ばそうとした瞬間、横から太い腕が伸びてきた。
「貸せ」
短く低い声がする。大きな器に大量のチャーハンが乗っているので相当な重量のはずだが片手でそのチャーハンを皿ごと持ち上げた。横を見ると加藤だった。彼はまるで飲み物のようにチャーハンをかき込むと、あっという間にチャーハンを平らげてしまう。
「ごっそっさん」
加藤はニヤリと笑い次のテーブルに向かった。その様子を見ていた裕生が、負けじと立ち上がった。
「加藤先輩!こっちで勝負しましょうよ!どっちが先にこの大皿の麻婆豆腐を食い切るか」
「おん?誰に勝負挑んでると思ってんだ。いい度胸じゃねえか裕生。望むところだ」
加藤と裕生の大食い対決が始まり、周囲のテーブルからも歓声と笑い声が上がった。二人の胃袋は底なし沼のようで、次々と料理が運ばれては消えていった。
そんな賑やかな雰囲気がしばらく続いた後、友生はふと、裕生に目をやった。裕生はようやく軽い食休みに入ったのか談笑をしている。友生にはその奥に潜む疲労と、練習への執着が見えるようだった。
「裕生、最近、ちょっとやりすぎじゃねえか」
友生は声をかけながら隣に座る。
「お前最近こええよ。ちょっとは肩の荷下ろしたらどうだ?」
飯田も心配そうに裕生の顔を覗き込んだ。飯田もまた、裕生のオーバーワークを気にしているようだった。
「大丈夫だって。夏の大会で打てなかった分、練習しないと気が済まねえんだよ。心配してくれてありがとな」
裕生はそう言って、レンゲを手に取り、再び麻婆豆腐を口に運んだ。
その様子を見ていた小高も、小さな声で友生と飯田に話しかけた。
「でもさ、裕生、最近顔色悪いよな。このままだと、本当にぶっ倒れるんじゃねえかな」
友生も頷いた。小高の言う通り、裕生の顔には、確かに疲労の色が濃く出ていた。
そんな話をしている時、加藤が立ち上がってテーブルを叩いた。
「おい、裕生! てめえ、まだ食うのか! 遠慮しろってんだ、この食いしん坊が!」
加藤の怒鳴り声は、店中に響き渡る。周りからも笑い声がまたちらほら出るもすぐに各々のグループでまた談笑し出す。加藤は裕生の肩を組み、半ば強引に顔を近づけ、急に真顔になる。
「夏の大会の悔しさは分かる。誰よりも打てなかったことを悔やんでるのも知ってる。だが、無理して怪我でもしたら、元も子もねえだろうが」
加藤は、裕生の耳元で低く呟いた。裕生の食事の手が止まる。更にそこに小林と武藤が、ゆっくりと近づいてきた。
「加藤の言う通りだぞ、裕生」
武藤が声をかける。その表情は少し複雑そうな表情をしていた。武藤は小林を親指で差しながら
「こいつもオーバーワークで腰を壊した。いくら天才でも、体が動かなくなったら何もできないんだぜ。お前はまだ一年だ。焦る気持ちは分かるが、焦って全てを失うなよ」
「プロ野球の世界にも、才能があっても怪我でそれを発揮できなくて引退した選手がたくさんいるらしいぞ。怪我をしないっていうのもまた一つの才能だと俺は思う。それこそイチローや山本昌なんかがそうだな。野球の技術を磨く為に練習をしなきゃ、って思う気持ちは大事だが身体あってのことだからな。そこを履き違えないようにしないとな。お互いに」
小林が少し顔を歪めながら話す。裕生はハッとしたように顔を上げた。2年生軍団の言葉は、裕生に深く突き刺さったようだ。
翌日、友生がブルペンで投球練習を続けていると、引退したはずの高尾がひょっこり顔を出した。彼は部活の様子を見に来たのだろう。
「よう。相変わらず投げ込んでるな」
高尾はニコリともせず声をかけた。友生は、高尾が練習に来てくれたことが嬉しかった。
「高尾さん!」
友生は投球練習を一旦止め、高尾に近寄った。
高尾は友生の録画した投球フォームをじっと見つめ、いくつかアドバイスを送った。
「腕の振りが、少しだけ外に開いてるな。もう少しコンパクトに、内側から押し出すイメージで投げてみろ。そうすれば、もっとボールに力が伝わるはずだ」
言われた通りに意識して腕を振ってみると、ボールが指先から離れる瞬間の感覚が、以前とは違うことに気づいた。ボールがミットへと真っ直ぐに引っ張られていくような感覚だった。
ミットに吸い込まれるボールは、球速以上の伸びを感じさせた。友生は何度も、何度もその感覚を確かめるように投げ続けた。遅いながらも、ボールはまるで糸を引くように、キャッチャーの構えたミットへと一直線に突き刺さっていく。
「おお、いいじゃねえか。きっとサイドスローの癖で無意識に外からボールに力を伝えようとしていたんだろうな。その球磨けば面白くなるんじゃねえか?」
友生自身も、その変化に驚きと喜び、そして今までとは違う確かな感触を得ていた。まるで、これまで自分の中に隠されていた扉が、突然開いたような感覚だった。
(これだ……この感覚だ……!)
友生の心臓が高鳴る。これまで、兄の背中をただ追いかけるだけでその背中に辿り着く気配すらなかった。だが、この球を磨いていけば、追いつくことはできなくても同じステージになら立つことができるかもしれない。球は遅い。だが、このストレートは、きっと何かを変える。そう確信していた。
そして、あっという間に夏休みが始まった。しかし、高校球児にとって夏休みは、遊ぶ時間ではない。甲子園を目指す者たちにとっては、地獄のような練習期間の始まりを意味していた。
朝早くから始まるグラウンドでの基礎練習。炎天下での走り込みは、体中の水分を根こそぎ奪っていく。午後は、守備練習、打撃練習、そして投手陣はブルペンでの投げ込み。休憩時間はほとんどなく、喉の渇きと全身の疲労が常に付きまとった。寮に戻れば、すぐに夕食を済ませ、ミーティング、そして自主練習。一日中、野球漬けの日々が続いた。
「おい、友生! もっと腰を回せ」
「小高! その足の運びじゃ、間に合わねえぞ」
監督やコーチの怒鳴り声が、グラウンドに響き渡る。練習の厳しさは、二軍に上がった友生にとっても想像以上だった。しかし、友生は、この厳しい夏を乗り越えることが、自分を、そしてチームを強くすると信じていた。