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6章:夏の行方

「ファール! ファール!」

小さくなった白球が、レフトポールのわずか左にそれる。惜しくもボールはファウルゾーンに切れ込み、裕生は悔しげに唇を噛み締め、バッターボックスに戻った。あと一歩でスタンドインかという打球に、東海西の応援席からは大きなため息が漏れる。しかし、そのすぐ後に

「ドンマイ!」

「一本いけるぞ!」

と、途切れることのない声援が裕生の背中を押した。

電光掲示板には、カウント2ボール2ストライクと表示されている。この瞬間、球場全体が水を打ったように静まり返った。スタンドの誰もが、ベンチの選手たちも、固唾を飲んで次の一球に全ての意識を集中させていた。稲葉東のマウンドに立つ門脇は、疲れの色をにじませながらも、その瞳には勝利への強い執念が宿っていた。

裕生は、バットを短く持ち直し、門脇のわずかな呼吸の乱れも見逃すまいと、その左腕に視線を固定する。自らの心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと鳴り響いている。この一打に、チームの、そして自分たちの夏が懸かっている。

長い間を置いて門脇が投じた渾身の5球目。それは、裕生のバットの届かない、外角低めに鋭く沈むスクリューだった。これまで何度も見た門脇の得意球。わかっていても、そのキレは想像をはるかに超えていた。裕生は、体勢を崩しながらも、懸命にバットを出す。しかし、裕生のスイングは、焦りとプレッシャーからか、小さくまとまってしまい、ボールは遥か届かない。

ブン!

乾いた空振り音が、静まり返っていた球場に、残酷なほど大きく響き渡った。

「ストライーク、バッターアウト!」

主審の声が、勝敗を告げるように、球場全体にこだました。裕生はマウンドにいる門脇を見たまま、バットを握りしめていた。稲葉東の選手たちがマウンドに駆け寄り、勝利の歓声を上げている。その光景が、あまりにも眩しかった。

その眩い光景の片隅で、東海西の選手たちはそれぞれの敗北と向き合っていた。

ベンチを見ると高尾は、込み上げる感情を抑えきれずに、大粒の涙を流していた。膝から崩れ落ち、ユニフォームの袖で必死に目元を覆う。この夏に懸けてきた想い、チームメイトとの絆、そしてマウンドで味わった重圧が、堰を切ったようにあふれ出す。

成田は、涙こそ流していなかったが、その表情には隠しきれない悔しさが滲んでいた。握りしめた拳が小刻みに震えている。

そして、最後の打者となった裕生は、まるで時間が止まったかのように、その場に呆然と立ち尽くしていた。頭の中は真っ白で、現実を受け止めきれない。目の前で繰り広げられる相手の歓喜を見つめ続けていた。

エースの武藤は、松田のもとにゆっくり歩み寄り、その胸に顔を埋めた。うつむいた武藤の肩は、激しい嗚咽に震えている。この試合こそ裕生とバッテリーを組んだがそれまでは松田に支えられて来たのだ。だから、きっと込み上げるものも多いだろう。この試合のために積み重ねてきた努力、そしてチームの期待を背負いきれなかったという自責の念が、彼を打ちのめしていた。

それに対して松田は

「ありがとな。本当にありがとう」

と武藤の背中を力強く叩き続けている。

東海西の応援席からも、選手たちの悲痛な叫びと混じり合うように、嗚咽が響いていた。白球を追い続けた彼らの夏は、ここで終わりを告げたのだ。


試合後、重苦しい空気が漂う中、選手たちは寮に戻った。ミーティングルームに集められた面々は、誰もがうつむき、言葉を失っていた。

沈黙を破ったのは、キャプテンの松田だった。彼はゆっくりと立ち上がり、湿った目で仲間たちを見渡した。

「みんな、今日は本当にお疲れ様」

松田の言葉に、何人かの選手が顔を上げた。

「結果は、負けだ。俺たちの夏は、ここで終わった。正直、悔しい。本当に悔しい。だけど……」

松田は一度言葉を切ると、深く息を吸い込んだ。やや吸い込む息が揺れているのがわかった。

「だけど、俺はみんなと野球ができて、本当に良かったと思ってる。このチームで、甲子園を目指せたこと、誇りに思う」

更に一度間を置き全部員を見渡す。

「裕生、1年でキャッチャーのレギュラーなんて相当なプレッシャーだったろ。これからも頑張れよな」

裕生に目配せをしながら話す。裕生もしっかり松田の目を見る。

「武藤、情けない先輩だったかも知れないがしっかりついて来てくれてありがとな」

武藤は大粒の涙を流しながら嗚咽交じりに首を横に振る。

「加藤、結局お前とのホームラン競争は一回も勝てなかったな。……チームを頼んだぞ」

加藤の目にも涙が浮かび

「はい!!!」

とミーティングルームが振動するほどの声で返事をする。

「そして、ベンチで、スタンドで、声を枯らして応援してくれたみんな。俺たちは、一人だったら何もできなかった。みんながいたから、ここまで来られたんだ。本当にありがとう」

彼の言葉に、ミーティングルームのあちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。

「俺たちの夏は終わったけど、お前らの野球は続く。この悔しさを忘れず、来年こそ、甲子園に行ってくれ」

松田は深く頭を下げた。すると、熱のこもった拍手が、堰を切ったようにミーティングルームに広がる。松田が頭を上げ、その鳴り止まぬ拍手を受け止めた。

「このチームを、来年、甲子園に導く新しいキャプテンを発表する」

選手たちの視線が、松田に注がれる。松田はまっすぐに加藤を見つめた。

「次期キャプテンは……加藤だ」

「はい!」

その表情は引き締まり、松田の言葉を真摯に受け止めた。加藤主将の誕生の瞬間だった。


その夜、寮の自室に戻った友生は、ベッドに横になりながら今日の試合を反芻していた。悔しさで胸が締め付けられる中、ふと、同室の加藤が静かに座っているのが見えた。加藤もまた、今日の敗戦の重みに耐えているのだろう。

その時、コンコン、と控えめなノックが部屋のドアを叩いた。加藤が顔を上げると、そこに立っていたのは松田だった。

「加藤、少し話せるか?」

松田の声は、昼間のミーティングでの力強さとは違い、どこか落ち着いた響きを持っていた。加藤は無言で頷き、松田を部屋へと招き入れた。松田は友生のベッドのすぐそばにある椅子を引き寄せると、加藤の向かいに腰を下ろした。友生は、薄暗い部屋の片隅で、二人の会話に自然と耳を傾けた。

「キャプテン、今日はすみませんでした」

加藤がぽつりと呟いた。その声には、次期キャプテンという重責への戸惑いが滲んでいるように友生には聞こえた。松田は静かに頷いた。

「お前が謝ることは何もないだろ。ホームランも打ってくれたし、慣れない外野も難なくこなしてくれた。十二分すぎる活躍だよ。それともう俺はキャプテンじゃない。今日からお前がキャプテンだ」

松田がフッと笑ってみせる。それから続けて

「俺がプロに行けないと悟ったのは、このチームで野球ができたからだ。成田の野球への取り組む姿勢、そして小林の野球のパフォーマンスを間近で見て、肌で感じた。こんな強豪に身を置いたからこそ、自分の限界と、彼らのすごさを知ることができたんだ。プロに行ける人間とそれ以外の人間の違い、勉強になったよ」

松田の言葉に、加藤は静かに耳を傾けていた。友生は小林という知らない名前が出たことが気になったが松田はさらに続けた。

「お前も、キャプテンとして、いろいろ思うところはあるだろう。戸惑いも、不安もあるかもしれない。だが、お前は、誰よりもチームのことを考えられる人間だ。だから、頼む。このチームをまとめてくれ。来年、甲子園で暴れてきてくれ」

松田は、加藤の肩をポンと叩いた。その手には、キャプテンとして歩んできた松田の重みと、未来を託す信頼が込められているように友生には見えた。加藤は、松田の真っ直ぐな眼差しを受け止め、深く頷いた。

友生は、二人の会話を聞きながら、静かに目を閉じた。松田の言葉は、加藤だけでなく、この部屋の片隅にいる自分にも、強く響いていた。


敗戦の悔しさを胸に、東海西高校野球部は新チームを始動させた。グラウンドに集まった選手たちの顔には、容赦なく照りつける真夏の太陽の熱と、新しい季節への期待が入り混じっていた。

新キャプテンとなった加藤が、緊張した面持ちで一歩前に出る。

「みんな、今日から新チームが始まる。夏の大会は悔しい結果に終わったけど、俺たちはこの悔しさを忘れない。甲子園に行くために、これからもっと厳しい練習が待ってる。俺一人じゃ何もできない。みんなの力が必要だ。苦しい時も、楽しい時も、力を合わせて乗り越えていこう。俺は、このチームで必ず甲子園に行く。だから、みんなも俺についてきてほしい。頼む!」

加藤の声には、どこか頼りなさを感じさせながらも、新キャプテンとしての強い決意が込められていた。選手たちは、その言葉に静かに頷き、新しい門出を見つめていた。


新チームの練習が始まった数日後。友生がグラウンドに出ると、すでに数人の選手が準備を始めていたが、隅のほうに奇妙な光景を見つけた。グラウンドの芝生に、誰かが大の字で寝転がっているのだ。

「え、誰だあれ?」

友生だけでなく、他の選手たちもざわめき始める。まるで死んでいるかのように微動だにしないその人物に、好奇の視線が集まる。まさか、体調でも崩したのか?

その人物に一番に気づいたのは加藤だった。加藤は目を凝らし、その顔を確認すると、静かな驚きと安堵の混じった表情で声をかけた。

「小林か?」

その声に、寝転がっていた人物がゆっくりと目を開ける。周りの視線に気づいたのか、けだるそうに立ち上がった。

「もう腰はいいのか? 1年はまだ知らないだろうな。こいつは小林明こばやしあきら。俺たちと同級生で、去年の夏の大会が終わった後腰を痛めてな。チームから離脱して怪我の治療に専念していたんだ」

加藤が落ち着いた口調で皆に紹介する。

「いやぁ、復帰初日だから気合い入れすぎて早く来すぎちゃってな。とりあえずウォーミングアップを兼ねてグラウンドで瞑想をしていたら集中しすぎて周りの声に気付かなかったよ」

周囲の選手たちからは、その奇妙な行動が「変人」として映ったに違いない。監督が彼の様子を見に近づいていく。

「小林、体の調子はどうだ?無理はするなよ」

監督の問いに、小林は普段と変わらない静かな口調で答えた。

「はい、ありがとうございます。まだ完璧ではありませんが、少しずつ動けるようになりました」

「そうか。焦ることはない。お前の復帰は、チームにとって何よりも大きい」

監督は小林の肩をポンと叩いた。その時、小林は意を決したように監督を見上げた。

「監督、一つ、お願いがあります」

「なんだ?」

「このチームで、またキャッチャーとして貢献したい気持ちはあります。でも、今の腰の状態を考えると、フルでマスクを被るのはまだ難しいと考えています。それに、新しいキャッチャーの神野も素晴らしい。だから、当面の間、サードとして練習させていただけないでしょうか」

小林の言葉に、監督は一瞬驚いた表情を見せた。

「……分かった。お前の気持ちも理解できる。サードとして、まずはグラウンドでプレーすることに慣れていこう」

監督は小林の決断を受け入れた。こうして小林明という新しい戦力が東海西高校に増えたのだった。


小林明は、監督の言葉通りサードのポジションについた。腰への負担を考慮してのことだったが、彼のプレーは、周囲の予想をはるかに超えるものだった。

守備練習が始まると、小林は誰よりも早く打球に反応し、その広い守備範囲を見せつけた。特に目を引いたのは、その肩だった。三塁線への鋭いゴロを逆シングルで軽々と捌くと、そのまま体勢を崩さずに、一直線に一塁へ送球する。ビュッ!という轟音と共に放たれた白球は、矢のような速さでファースト加藤のグラブに吸い込まれた。送球を受けた加藤が、その球威に思わずのけぞる。それは、キャッチャーとして磨き上げてきた、まさに強肩だった。

「おいおい、小林! ほどほどにしろよ!」

監督が、その全力プレーに感心しつつも、腰を気遣って声をかけた。しかし、小林は顔色一つ変えず、涼しい顔で答える。

「楽しく全力がモットーなんで!」

その言葉に、監督は苦笑いを浮かべるしかなかった。

打撃練習でも、小林は周囲の度肝を抜いた。右バッターボックスに立つと、驚くほど静かで無駄のない構えから、鞭のようにしなるスイングを繰り出す。カキーン!という乾いた音と共に、打球は一直線に逆方向のライトへ伸びていく。あっという間にフェンスを越え、そのはるか上空へと消えていった。

友生は隣で打撃練習をしていた加藤を見た。加藤も普段から鋭い打球を飛ばし、柵越えを連発するチーム屈指の長距離砲だ。だが、小林が放つ打球のスピードと飛距離は、その加藤をもしのぐ勢いだった。小林は次々と柵越えの打球を放ち、そのたびにグラウンドに驚きの声が上がる。

それを見ていた飯田が、思わず声を漏らした。

「おい、小林先輩がいたら、間違いなく今年の夏勝ってたよな……」

その言葉は、多くの選手たちの心の奥底に、同じような思いがあったことを示しているようだった。小林明という存在は、チームに新たな光と、同時にある種の複雑な感情をもたらしていた。


「今日は昇格、降格を決める紅白戦を行う!」

小林の復帰から数日後、唐突に監督が言った。選手たちは皆、上のチームを目指して、あるいは現在のポジションを守るために、必死にプレーした。

友生も、もちろんこの紅白戦に臨んでいた。先輩がいなくなり自動的に三軍に昇格していた友生は、二軍の打線を相手にマウンドに上がる。依然、はっきりとした手応えを感じることはできていなかったが、結果を残さないと上には上がれない。セットポジションに入り、オーバースローから繰り出す球は、スピードもなく、コントロールも定まらないものの、二軍の打者たちを数人詰まらせた。粘り強く投球を続け、ヒットを数本打たれるものの、結果的に二軍打線を2イニング無失点に抑え込んだ。

試合後、友生は監督に呼び出された。友生は、自身のピッチングがイマイチの出来だったことを自覚しており、ダメ出しされることを覚悟していた。

「友生、今日のピッチングは、まだまだ荒削りだな。コントロールも、もう少し安定させたいところだ」

監督の言葉に、友生は俯いた。

「はい……申し訳ありません」

「だがな、お前には目を引くものがある。なぜだかバッターを詰まらせることができるストレート。球自体は速くないが、その球筋は間違いなく相手打者のタイミングを狂わせている。あれはまさしくお前だけのボールだと思う」

監督の意外な言葉に、友生は顔を上げた。

「喜べ、二軍に昇格だ。もちろん、この後も簡単な道じゃない。だが、お前なら必ずチームに貢献できる投手になれるはずだ。期待しているぞ」

友生は信じられない気持ちで、監督の顔を見つめ返した。不器用な投球だったにもかかわらず、監督は友生の秘めた「素質」を見抜いてくれたのだ。胸に込み上げてくるものがあった。

「はい!ありがとうございます!」

友生は力強く返事をした。こうして友生は、新チームで二軍への昇格を勝ち取ったのだった。

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