5章:熱闘の予感
全員集会から数日。チームの雰囲気は、緩やかではあるが、確実に変革の時を迎えていた。露骨な嫌がらせは影を潜め、裕生に対する一部の先輩たちのよそよそしい態度も、時間を追うごとに薄れていく。裕生は、相変わらず黙々と練習に打ち込み、そのストイックな姿勢が、先輩たちの意識を少しずつ変え始めていた。グラウンドには、勝利への渇望という共通の目標が、新たな結束の兆しを生み出しつつあった。
そんな中、夏の大会の組み合わせ抽選が行われ、初戦の相手が強豪校、稲葉東高校に決まった。今回シードこそ取れなかったものの、常に県大会上位に食い込み、甲子園常連校である。
武藤はこの強豪校との対戦を前に、普段以上のプレッシャーを感じていた。ブルペンでの投球練習に費やす時間は増える一方だったが、時折、表情に焦りの色が浮かぶのが見て取れた。
友生が自主練習を終え、室内練習場から寮へ戻ろうとした時だった。人気のないグラウンドの片隅で、監督と松田が話し込んでいるのが見えた。この時間で話し込むことは珍しいので、友生は思わず足を止めて物陰に隠れ、耳を傾けた。
「キャッチャーは神野でお願いしたいです」
松田は毅然とした態度で切り出した。
監督は、松田の言葉に驚き、眉をひそめた。
「松田、何を言っている。お前はチームのキャプテンであり正捕手だ。初戦の相手は稲葉東。経験不足の1年に任せるのは、あまりにもリスクが高い」
松田は、監督の視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「承知しております。ですが、監督。この夏のマスクは、神野に被らせるべきです。今、神野に経験を積ませることができれば、今後のチームにとっても、本人にとっても必ずプラスになります。俺はファーストに回ります。これまでファーストだった加藤には、ライトに入ってもらえれば、さらに打線の厚みも増します」
松田は、冷静に、しかし熱意を込めて訴えた。その言葉には、キャプテンとしての責任感と、チームの勝利への強い願いが込められていた。
監督は松田の真剣な眼差しをじっと見つめた。しばらくの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……お前がそこまで言うか」
監督の口調には、迷いと同時に、松田への信頼が滲んでいた。
「わかった、松田。お前の提案、受け入れよう」
松田の表情に、かすかな安堵の色が浮かんだ。
「裕生にはマスクを被らせる。それに伴い、お前はファースト、加藤はライトだ。それぞれのポジションでチームを引っ張っていってくれ」
「はい!」
松田は力強く答えた。
「お前もファーストの練習もあるだろうが、神野の練習のバックアップをしっかりして支えてやれよ。必ず、甲子園へ行くぞ!」
監督の言葉に、松田は深く頭を下げた。こうして、夏の大会の捕手は裕生、ファーストは松田、ライトは加藤という、チームにとって大きな変革を伴う布陣が敷かれることになった。
夏の大会開幕まで残りわずか。チーム全体に緊張感が漂う中、武藤と裕生と松田、そして高尾は、自主練習時間の室内練習場で、稲葉東打線の対策を話し合っていた。友生は、少し離れた場所で黙々と投球練習を続けていたが、彼らの会話が自然と耳に入ってくる。
「稲葉東の打線は強力ですが、特に警戒すべきは1番ショートの岩村。岩村はプロ注の選手で、1番バッターにも関わらず、全球ホームラン狙いのフルスイングです。昨年の夏の大会ではあまりにも打ちすぎてプレイボールと同時に敬遠された逸話があるほどの選手です」
武藤が資料に目を落としながら口を開く。その顔には、隠しきれない重圧が見て取れた。
「このメンバー表に書いてある1年の清田も厄介ですね。U-15で一緒にプレーしたことがあります。あいつはとにかく引っ張ってきます。徹底したプルヒッターで、外の変化球にはあまり手を出しませんし、内角を攻めすぎると、詰まらせてもスタンドに運ぶパワーがあります。ただ、引っ張りにこだわる分、逆方向への意識は低いですから、もし逆方向に打たせることができれば、凡打の確率も上がると思います」
裕生は U-15 で清田とチームメイトだった経験から、その打撃スタイルを冷静に分析していた。友生もその話に聞き入っていた。松田は二人の話を聞きながら、口を挟んだ。
「バッテリーにかかる負担は大きい。だが稲葉東は、ピッチャーが圧倒的というわけではないから、どこかで大量得点のチャンスはくるはずだ。打線で援護したい。それに、神野の打撃は頼りになる。粘り強く、チャンスで一本出せるのは大きい。下位打線ではあるが、相手にとっては脅威になるだろう」
松田は、裕生の長所を再確認するように語った。裕生のリードと、思い切りのいいバッティングが、この試合の鍵を握る。3人のミーティングは、友生の自主練習が終わってからも続いていた。
そして、迎えた夏の大会初戦。相手は強豪、稲葉東高校。
試合開始1時間前。選手たちが球場の外に集まる中、岡田監督が前に立った。
「よし、皆、集まったな。いよいよだ。夏の大会、初戦の相手は稲葉東。相手は強豪だが、臆することはない。お前たちがこれまでやってきたことを信じて、全力でぶつかれ!」
監督の声が、選手たちの心に響く。
「今日のオーダーを発表する!」
選手たちが固唾を飲んで見守る中、監督の声が球場の外に響き渡った。
「1番 ショート 成田!
2番 センター 山内!
3番 サード 石濱!
4番 ライト 加藤!
5番 ファースト 松田!
6番 レフト 高尾!
7番 キャッチャー 神野!
8番 セカンド 毛受!
9番 ピッチャー 武藤!」
監督は全員を見渡し、力強く言い放った。
「全員、グラウンドで暴れてこい!必ず、甲子園に行くぞ!」
「おおおおおおお!」
選手たちの雄叫びが、球場の外にこだました。
球場は満員に膨れ上がり、熱気に包まれていた。東海西のスタンドからは、友生たちベンチ外の選手たちの、けたたましい応援が響き渡る。
「プレーボール!」
主審の声が響き渡り、試合が始まった。東海西の先発はエース武藤。稲葉東の1番打者は、注目の岩村。左打席に立つ岩村は、静かに武藤を見つめている。
友生は、スタンドからマウンドを見つめていた。あのミーティングで裕生が「岩村は初球からフルスイングでくる可能性が高い」と話していたことを思い出す。だからこそ、きっと裕生は外角のシュートを要求するはずだ。
武藤は大きく振りかぶって第1球を投じた。
キィィィン!
耳をつんざく金属音が球場に響き渡る。武藤の投じた初球、外角シュートボール球、コントロールミスなく投げられたように見えたが岩村はそれを強引に捉えていた。打球は高く舞い上がり、そのままレフトスタンドへと吸い込まれていった。
ウワァァァァ!
地鳴りのような歓声が稲葉東応援席から上がる。武藤はマウンドで呆然と立ち尽くしていた。
「ドンマイです、武藤先輩!まだ始まったばかりです。切り替えていきましょう!」
応援席にも届く裕生の力強い声が聞こえる。裕生はすぐにマウンドに駆け寄り、武藤の肩を叩く。その力強い声に、武藤はハッと我に返った。松田も頷き、チームに気合を入れる。
続く2番打者は、武藤が落ち着きを取り戻し、ストレートと変化球を織り交ぜてセンターフライに打ち取った。そして迎えるは、稲葉東の3番打者。粘り強くカットし、武藤に球数を投げさせる。武藤は根気強く内外を使い分け、最後は低めのスライダーで空振り三振に切って取った。そして迎えるは、稲葉東の4番、清田。巨体が右打席に立つ。
「おい、これ見てみろ。4番、俺らと同じ1年で体重110キロだとよ」
飯田は選手名鑑を見ながら目を丸くして呟いた。
友生は、室内練習場で兄が清田の弱点を分析していたことを思い出し、固唾を飲んで見守った。
武藤は、裕生のサインに大きく頷く。インコースの厳しいコース、そして外角低めへの変化球。清田は、武藤の低めの変化球に思わず手を出してしまい、ファーストゴロ。松田がしっかりと捕球し、ベースを踏む。アウト!裕生は、清田が逆方向への意識が低いという弱点を徹底的に攻めるリードを見せた。武藤は初回を1失点で切り抜け、ベンチへと戻った。
1回裏、東海西の攻撃。
先頭は1番ショート成田。
友生の隣に座っていた飯田が、声を潜めて友生に尋ねた。
「おい、友生。あのピッチャー、情報にあったか?」
友生は、マウンドに上がったばかりの稲葉東のピッチャーに目を凝らす。背番号10。左サイドスロー。
「いや……」
友生は、以前配られた選手名鑑をポケットから取り出し、広げた。背番号10、門脇泰明。その横に小さく『1年生』と記されているのを確認する。
「1年だ、アイツ……」
友生の呟きを待たず、ピッチャーはマウンドで深々と頭を下げ、プレートを踏んだ。
しん、と静まり返った球場に、左腕から放たれた初球が、糸を引くようなストレートとなって、唸りを上げて飛び込んでくる。
ドッ、ズバン!
乾いたミットの音が、球場全体に響き渡る。球場に速度表示はないが、その球の速さは明らかに1年生とは思えないスピードだった。場内からはどよめきが起こり、東海西のベンチからも驚きの声が漏れた。
「すげぇ球だ……!左サイドであのスピード。130後半は出てるんじゃねえか?とんでもねぇな。」
飯田の感嘆の声に、友生も頷く。ピッチャーの投球フォームと球筋に釘付けになる。やや荒れ球ながら、そのストレートは唸るようなキレがあった。
成田は、相手投手の球威に気圧されることなく、じっと球筋を見極める。しかし、門脇は次々と得意球を投げ込み、東海西打線を翻弄した。その制球力も抜群とは言えないまでも、球威で押し込み、打者は手が出せずに見送るか、凡打に打ち取られる。成田は空振り三振。続く山内も、変化球に泳がされ、ピッチャーフライに倒れる。3番石濱も内野ゴロに打ち取られ、あっという間に三者凡退に終わった。
東海西は、門脇の勢いを止めることができないまま、攻撃を終えた。初回を終え、スコアは0対1。稲葉東がリードしていた。
ベンチに戻ってきた東海西の選手たちの間に、重い空気が漂う。その中で、友生の隣に座っていた小高が、呆れたように呟いた。
「おいおい、あの10番半端ねぇな。ストレートのスピードもすげぇけど、スライダーと……あれはシンカーかスクリューか?ここから見てても、とんでもなく曲がってるのがわかるな」
小高の言葉に、友生は改めて門脇の球の質の高さに唸った。
2回表、稲葉東の攻撃。
先頭の5番、門脇の打席。友生は、マウンド上とは違う、打者としての門脇に目を見張る。身体の大きい門脇が放つ鋭いスイングは、相手バッテリーにとって大きな脅威となるだろうと、友生は直感した。
武藤が投じた初球。やや甘く入ったストレートを、門脇は迷いなくフルスイングした。
ブン!
金属バットが空を切る重い音が、スタンドまで響き渡る。その場でくるりと一回転するほどの、強烈なスイング。
「すげぇスイングだ……!」
友生は思わず息を呑んだ。門脇は続く2球目も、内角の厳しいコースに食い込む武藤のストレートに、体勢を崩しながらも必死にバットを出す。ファウルボール。
武藤は冷静だった。裕生のサインに頷き、内角低めに沈む変化球を投じる。門脇は、その球に完全にタイミングを外され、力のないスイングで空振り三振に倒れた。
続く6番、7番も武藤が抑え、この回も無失点で切り抜けた。
試合は序盤の攻防が落ち着き、静かに中盤へと向かう。真夏の太陽が容赦なく照りつけ、グラウンドの土は白く乾ききっていた。選手たちのユニフォームは、すでに汗で色を変え、立ち上る陽炎が視界を揺らす。
3回裏、ノーアウトランナーなしで迎えるは、7番キャッチャーの裕生。
初打席の裕生は、門脇の投球にじっと目を凝らす。門脇の放つ球は、唸るようなストレートと鋭く曲がる変化球。裕生は冷静にボールを見極めるが、門脇の球威とキレに、なかなかバットが出せない。最後は、外角低めに沈むスクリューに手が出てしまい、空振り三振。期待の初打席は、門脇の前に打ち取られた。
続く8番、9番も門脇の前に打ち取られ、東海西は再び三者凡退に終わった。
4回表、稲葉東の攻撃。
ワンアウトから1打席目ホームランを放っている岩村。この回はさらに用心深く入ったのか、1球目、2球目をボール球としたが3球目武藤の低めの変化球に手を出させライトフライ。ライトのポジションを守っている加藤ががっちり掴む。続く2番もショートゴロに打ち取り、スリーアウト。
4回裏もフォアボールなどで塁に出るものの得点にはつながらず。
5回表、ワンアウトから稲葉東の4番、清田。武藤は、清田に対して内角を厳しく攻める。しかし、清田は微動だにしない。外角へ逃げる変化球にも全く手を出さず、武藤の投球はボール先行となる。
たまらず、武藤が投じたインコースのストレート。やや甘く入ったその球を、清田は完璧に捉えた。
キィィィン!
打球は弾丸ライナーでレフト方向へ。瞬く間にレフトの頭上を越え、フェンス直撃のツーベースヒットとなった。
「あぶねぇ……」
友生は思わず声を漏らす。もう少しでスタンドインという、強烈な打球だった。
続く5番、門脇。
武藤は、清田に打たれたことで、動揺を隠せない。その焦りからか、投じたストレートはやや高めに浮いた。門脇は、その球を捉え、鋭い打球がショート方向へ飛んだ。ライナー性の打球が三遊間を抜けようかという当たりにショートの成田が反応する。成田は逆シングルで飛びつき、グラブをいっぱいに伸ばしてその打球を捕球した。勢いそのままに一回転し、すぐに体勢を立て直すと、セカンドへ送球。飛び出していた清田は慌てて戻るも
「アウト!」
戻りきれず清田は天を仰ぐ。スタンドからは、成田のスーパープレーに、割れんばかりの拍手が沸き起こった。東海西は、この回も無失点で切り抜けた。
5回裏、東海西の攻撃。
ワンアウトで迎えるは、4番加藤。ここまで門脇の勢いに押され、打線は沈黙を保っていた。ベンチからは「一本出せ!」という声が飛ぶ。
雄叫びを上げながら打席に入る加藤に対し門脇が投じたインコースのストレート。少し甘く入ったその球を、加藤は渾身のフルスイングで真芯で捉えた。
カキン!
乾いた金属音が、球場全体に響き渡る。打球はまるでミサイルのように一直線に伸びていく。ライトの頭上を遥かに越え、球場外へと消えていった。
ウワァァァァ!
地鳴りのような歓声が東海西応援席から上がる。場内は興奮の渦に包まれた。
同点!加藤の場外ホームランで、東海西はついに試合を振り出しに戻した。
続く5番松田。加藤のホームランで勢いづいた東海西打線。松田は、門脇の投じた外角低めのスクリューを、逆らわずにセンター方向へ。打球はライナー性のツーベースヒットとなり、ワンアウトランナー2塁。
そして迎えるは、7番キャッチャーの裕生。
裕生は、先ほどの三振を払拭するかのように、集中した表情で打席に立つ。門脇は、松田の出塁でさらに気負っているのか、投球がやや荒れ始める。裕生は、門脇の投じた甘く入ったスライダーを、力強く振り抜いた。
快音と共に打球は左中間を真っ二つに破る。松田は懸命に走り、一気にホームへ。セーフ!
「よっしゃあー!」
東海西応援席からは、割れんばかりの歓声が上がる。ついに東海西が勝ち越し点を挙げた!
6回表、稲葉東の攻撃。
先頭の打者が武藤から四球を選び、ノーアウト1塁。稲葉東はすぐに動きを見せた。1塁ランナーが大きくリードを取る。武藤がモーションに入った瞬間、1塁ランナーはスタートを切った。
「走った!」
スタンドからも声が上がる。裕生は、一瞬の迷いもなく、捕球と同時にセカンドへ矢のような送球を見せた。
ズバァン!
乾いた音が響き、セカンドベース上で成田のミットにボールが吸い込まれる。ランナーは完全にアウト。裕生の見事な送球で、盗塁を阻止した。
「よっしゃあああ!」
ベンチからは雄叫びが上がり、スタンドも大いに沸いた。
その様子をスタンドから見ていた友生に、後ろに座っていたコーチが声をかけた。
「友生、裕生がもし現段階でプロに行くとしたら何が一番通用すると思う?」
友生は首を傾げながら尋ねた。
「打撃……ですか?」
「いや。あいつは打撃もいいが、まだ改良の余地があるな」
コーチは首を横に振った。
「じゃあ、真面目なところですか?」
「確かに練習への取り組み姿勢もいいな。
だがそこでもない」
友生は考え込む。真面目さでも、打撃でもないとなると……。
「じゃあ……肩ですか?」
友生の言葉に、コーチは小さく笑った。
「惜しいな。正確に言うと、二塁へのスローイングだ。裕生は捕ってから二塁へボールを送るまで1.9秒前後。トップレベルのプロでも2秒を切ったら強肩と言われているんだ。野球で飯を食うってことはとても大変なことなんだがあいつの肩はそれだけの価値があるものなんだ。……あいつには内緒な」
コーチは、少し含んだ笑みを浮かべながらグラウンドを見つめた。友生は、コーチの言葉に深く頷く。裕生にもそれだけ尖った、長所がある。それだけの長所を自分も磨き、発揮することができるのだろうか、と友生は自問した。
試合は中盤を過ぎ、緊迫したまま終盤へと向かっていた。
そして7回表、稲葉東の攻撃。先頭打者は、1番の岩村。武藤が投じた初球は、岩村のバットの芯を外し、打球はピッチャー前へ。武藤は素早く反応し、グラブを差し出すが、打球はグラブをかすめ、そのままファーストの前に転がる内野安打となった。稲葉東の応援席から、地鳴りのような歓声が上がる。
続く2番打者は送りバントを確実に決め、ワンアウトランナー2塁。さらに3番打者が武藤の甘く入ったストレートを弾き返し、ライト前ヒット。ランナーは一気に三塁へ。ワンアウト1、3塁と、稲葉東は一気にチャンスを広げた。ベンチからは、これまで静かだった応援が一段と熱を帯びてくる。内野陣と伝令がマウンドに集まる。何十秒か話し合うと各々武藤に声をかけつつ散っていく。武藤はマウンドで深呼吸し、一度頷いた。
ここで要注意人物4番の清田。前の打席でツーベースヒットを打たれているだけに、武藤は慎重に攻める。初球、裕生もインコースの厳しいコースを要求するが、武藤の投じたストレートはわずかに真ん中に入ってしまった。
キィィィン!
清田はそれを逃さなかった。凄まじい金属音が球場に響き渡る。打球は一直線にレフト方向へ。高尾が懸命に追いかけるが、打球は頭上を越え、フェンス直撃のタイムリーツーベースヒットとなった。三塁ランナーが生還し、ついに同点。スコアは2対2。尚もワンアウト2、3塁。
さらに続く5番、門脇。前の打席では三振に抑えているものの、清田に打たれた動揺からか、武藤の投球はやや高めに浮いた。門脇は、その球を捉え、鋭い打球がセンター方向へ。センターの山内が前進するが、わずかに届かずワンバウンドとなり、センター前ヒット。三塁ランナーがホームに帰ってくる。稲葉東が3対2とついに逆転した。武藤は膝に手をつき、悔しさに顔を歪める。
岡田監督はたまらず審判に交代を告げに行く。
武藤はその様子に力なく頷き、マウンドを降りた。ベンチに戻る武藤の背中を、チームメイトが次々と叩く。
武藤に代わってマウンドに上がったのは、背番号7、3年生の高尾だった。レフトには背番号9の中野が入った。
高尾はマウンドに上がると、まず大きく深呼吸をし、自信に満ちた表情でプレートを踏んだ。腕を大きく振りかぶり、唸るような140キロ台半ばのストレートを投げ込んだ。その球はミットに吸い込まれるようなズバンという重い音を響かせている。
彼の登場に、スタンドの東海西応援席からは再び大きな声援が沸き起こる。
マウンドに上がった高尾は、裕生と軽く話す。そして、稲葉東の次のバッター、6番打者へと視線を向けた。
友生は先日のやりとりを思い出していた。才能溢れるチームメイトの中で、己の限界と向き合い、野球への情熱と葛藤する高尾の姿。時には自信を失いかけ、この道を続けるべきか悩む彼の胸の内に秘められた、計り知れない重圧。今、その全てを背負い、高尾はマウンドに立っている。このピンチを切り抜けることができるか、友生は固唾を飲んでその投球を見守った。胸の奥で、かすかな期待が波打つ。
高尾が投じた初球は、外角高めのストレート。相手打者のバットは空を切る。続く2球目、今度は内角低めへのスライダー。相手打者は思わずのけ反るが、球審の手は上がらない。ボール。3球目はアウトコース低めに最高のストレート。ストライク。そして4球目、高尾は渾身のストレートを真ん中低めに投げ込んだ。
ブン!
相手打者のバットが虚しく空を切る。見事な空振り三振!球場がどよめく中、高尾は小さくガッツポーズを見せた。強敵を見事に抑え、これ以上の失点は許さないという気迫がマウンドから伝わってくる。
高尾はその後も安定したピッチングを見せ、この回を切り抜けた。しかし、スコアは依然として東海西が1点ビハインドのまま、試合は進み最終回。
9回裏、東海西の攻撃。
電光掲示板に表示されたスコアは、そのまま東海西にとっての最終スコアを意味する。最後の望みをかけ、先頭打者の4番加藤が打席に立った。門脇も疲れは出ているが球威はまだ衰えない。加藤はそんな剛球を冷静に見極め、フルカウントからの外角低めの球を見送った。
「フォアボール!」
球審の声が響き、加藤はゆっくりと一塁へ歩く。ノーアウトランナー1塁。スタンドからは、最後の希望を繋ぐ拍手が沸き起こる。
続く5番松田。打席に入る前に、加藤は松田と目を合わせた。松田は短くバットを持ち、送りバントの構えを見せる。チームの誰もが、ここで確実にランナーを進めることを期待していた。門脇が投じた初球、松田は慎重にバットを出すが、打球は無情にもファウルゾーンへ。2球目、門脇は内角高めにストレートを投げ込んだ。松田は必死にバントを試みるが空振り。そして3球目、門脇の投じた外角低めの変化球にもバットを横にする。キィィィンと甲高い金属音がしたが
「ファール!バッターアウト!」
主審の声が響き渡る。スリーバント失敗。松田は、その場で天を仰ぎ、バットを地面に叩きつけようとするがギリギリのところで止め、ベンチに戻る。ベンチからは「ドンマイ!」という声が飛ぶが、松田の悔しさは見て取れた。ワンアウトランナー1塁。
続く6番高尾。高尾は気を取り直そうと、打席に入る。しかし、門脇の集中力は増していた。高尾は懸命にバットを振るが、門脇の力強いストレートとキレのある変化球に手が出ない。最後はなんとか食らいつくも外角低めのスライダーをファーストゴロ。その間に1塁ランナーは2塁に進塁しツーアウトランナー2塁。
そして、打順は7番キャッチャーの裕生に回ってきた。
裕生の今日の打席は3打席のうち1安打1三振1四球。裕生がゆっくりと打席に向かう。チームの最後の希望が、今、彼のバットに託されていた。スタンド、ベンチからの「神野、一本!」という大声援が、球場全体に響き渡る。一度稲葉東側がタイムを取りマウンドに集まる。こちらが清田のことを知っていると言うことは相手も裕生を知っている、ということ。
「もしかしたら敬遠もあるかもな」
隣の飯田が呟く。裕生はバットをいつもより気持ち短く持ち、門脇をじっと見つめる。
門脇が投じた初球は、裕生のインコース高めに食い込むストレート。裕生は微動だにしない。ボール。続く2球目、外角低めに落ちるスライダー。裕生はこれも見送る。ボール。門脇は焦りからなのか疲れからなのか、ややコントロールを乱しているように見えた。裕生は、カウントが有利になったにもかかわらず、顔色一つ変えない。
「ナイセンナイセン!!」
これでカウントは2ボール。しかし、門脇は表情を変えず、次の球を投じた。それは、裕生の胸元をえぐるような、鋭いスライダーだった。裕生は思わず体が反応し、バットを振ってしまう。
カツン。
ファウルボール。
続く4球目。門脇は、渾身のストレートを投げ込む。裕生は思い切りバットを振る。
カキィィィィン!
甲高い金属音と共にボールはレフトスタンドへと放物線を描いていた。