3章:静かなる変革
友生たちが寮生活と練習に慣れ始めた頃、春季大会が始まった。1年生の友生や裕生は、まだこの大会に出場することはできない。彼らの役割は、スタンドから先輩たちの勇姿を応援することだった。
グラウンドにはレギュラー選手たちが並ぶ。彼らの背番号は、友生たち1年生にとって遠い憧れの存在だった。土の匂いが風に乗って運ばれ、熱気が球場を包み込む。
この大会で友生が特に注目していたのは、ピッチャーの武藤だ。2年生ながらエースを務める彼の投球は、他の追随を許さない。球こそ速くないものの、コースを厳しく突き刺すコントロールと、切れ味鋭い変化球で相手打線を封じ込める。マウンドでの武藤の姿は、まさにチームの柱だった。
そして、その武藤の球を巧みにリードするのは、5番キャッチャーでキャプテンの松田だ。どっしりとした構えと正確な送球でチームを支える。打撃でも勝負強さを発揮し、要所でタイムリーを放つ姿は、友生の目にも焼き付いた。特に裕生は、松田の一挙手一投足を食い入るように見つめ、その動きを自身の体に刻み込もうとしているようだった。
さらに、不動の4番ファースト、加藤も光っていた。友生の部屋の先輩である彼は、グラウンドでは打席に立つたびに相手ピッチャーに向かって吠え、感情をむき出しにする。そして、その打球は常に強烈で、相手投手を打ち砕く一撃を放っていた。
そして、何よりも球場中が引き付けられたのは、1番ショートで副キャプテンの成田だった。成田はプロからも注目され、今年のドラフトで指名されると噂されている、まさにチームの顔とも言える選手だ。
成田のバッティング練習は独特だった。他の選手が金属バットを使う中、彼だけは竹のバットを使い、スパーンという乾いた音を響かせている。それもただのこだわりではない。竹バットは芯で捉えなければ飛ばないため、バットコントロールを極限まで高めるための練習だと、先輩たちが話していたのを友生は耳にした。
守備では、成田のグローブに多くの部員が注目していた。他の選手よりも一回り小さい、自前の特注グラブだ。この小さいグラブを使うことで、ボールを握るまでの動作をワンテンポ早くすることができ、そこから送球への素早い連携が可能になる、と以前、部内で話題になっていたのを思い出す。彼のプレイの一つ一つに、プロに行くための高い意識と、並外れた技術が凝縮されているのが見て取れた。
友生は、スタンドから繰り広げられる先輩たちのハイレベルなプレーに、ただただ圧倒されていた。自分もいつか、あのグラウンドで彼らと同じように輝ける日が来るのだろうか。目の前の試合は、友生にとって遠い夢のようであり、同時に、野球への情熱を改めて掻き立てる、強烈な刺激となっていた。
試合は順調に進み、東海西高校は危なげなく初戦を突破した。武藤の切れのある変化球、松田の勝負強い打撃、加藤の豪快な一打、そして成田の異次元の守備と走塁。主力選手たちの活躍がチームを牽引し、東海西は他を圧倒する強さで勝ち進んだ。そして、決勝戦も危なげなく勝利を収め、見事春季大会を優勝し、夏の大会のシード権を獲得した。
スタンドの熱気とは裏腹に、友生の心の中には複雑な思いが交錯していた。先輩たちの実力に感嘆する一方で、自分とのあまりにも大きな差を痛感する。彼らのようにグラウンドで輝きたいという憧れと、今の自分では到底届かないのではないかという無力感が入り混じっていた。
試合後、寮に戻るバスの中で、友生は裕生の隣に座った。裕生は試合の興奮冷めやらぬ様子で、先輩たちのプレイについて熱心に話している。
「武藤先輩の今日のスライダー、やばかったな! あんな変化球、打てるやついねーよ」
「松田先輩もすごかったね。あの場面でのタイムリーはさすがだよ」
友生は相槌を打ちながらも、ふと疑問に思ったことを口にした。
「裕生は、あの三年生がいる中で、夏のベンチ入り、できると思う?」
裕生は一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐにまっすぐな瞳で友生を見つめ返した。
「もちろん、したいさ。ただ、選ばれても選ばれなくても、その時にできる最適解を見つけて実行するのが大事なんだと俺は思う」
裕生の声には、焦りや迷いはなく、確固たる信念が込められているように友生には感じられた。今の自分に何ができるのか、何をすべきなのかを冷静に見極めようとする裕生の姿勢に、友生は改めて己との意識のレベルの違いを痛感した。
バスが寮に到着し、友生たちはそれぞれの部屋へと向かった。友生は自室のベッドに横になり、今日の試合と、裕生の言葉を反芻していた。
(俺はまだ、何もできてない……)
加藤の厳しい言葉と、裕生の真っ直ぐな言葉が、友生の心の中でこだまする。辞めていった1年生たちの顔が脳裏をよぎる。このままじゃ、自分も同じ道を辿ってしまうかもしれない。
「明日から、もっと頑張ろう」
友生は、小さくそう呟いた。心の中で、まだ燃え尽きていない小さな火が、再び熱を帯び始めているのを感じた。
春季大会が終わり、友生はより一層、練習に打ち込んだ。加藤の言葉、そしてグラウンドで輝く先輩たちの姿が、友生を突き動かす原動力となっていた。しかし、四軍での練習は相変わらず走り込みが中心で、ピッチングの機会は限られている。数少ないブルペンでの投球練習でも、友生は思うように結果が出ないことにもどかしさを感じていた。球速も球威もなかなか伸びず、コントロールも安定しない日が多い。
(このままで、本当に先輩たちに追いつけるのか? どうすれば、自分も上の軍に上がれるんだ?)
焦りが募る中、友生は部屋で加藤に尋ねた。
「加藤先輩、どうすれば野球が上手くなれますか? どうすれば、俺も先輩たちみたいに、上の軍に上がることができますか?」
友生の切実な問いに、加藤は静かに友生の顔を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「友生、野球で上に行くにはな、一つ、誰にも負けない武器、長所を見つけることが大事になってくる」
加藤の言葉は、友生の心に深く響いた。
「俺だって足は人並みの速さだし、守備が上手いわけでもない。それでも東西でレギュラーなのは、誰にも負けない打撃力があるからだ。……本当はその打撃力も一番、ではなかったんだけどな」
加藤は少し含みを持たせて言った。友生は、加藤のような実力者でさえ、いろいろな苦悩を抱えていそうなことに驚いた。だが、加藤が示す「長所を極める」という道筋に、強く心を惹かれた。
(誰にも負けない武器……長所……?)
友生は、自分にそんなものがあるのか、と自問した。これまでの野球人生で、明確な「長所」と言えるものを見つけられずにいたのだ。
それからの友生の自主練習は、「自分の長所」を探す日々となった。ひたすら走り込みをこなしながらも、ブルペンでの短い時間や、誰もいない室内練習場で、友生は歩幅を変えたり、体を大きく使ってみたり、腕の角度を変えてみたり……と試行錯誤を繰り返した。しかし、どれもこれまでの試行錯誤の延長でしかなく、しっくりくるものは見つからなかった。自分の体が鉛のように重く感じられ、投げれば投げるほど、自分の球が頼りなく感じられた。
ある日のこと、友生は自身の投球フォームを寮で借りられるタブレットで動画に録画し、それを見ているうちに、ふと自分の腕の動きに意識が向いた。いつも肘が柔らかいと言われることがあるのを思い出す。試しに、腕をあらゆる方向にひねったり、関節を曲げ伸ばししてみたりすると、他の人がやりにくそうにしている動きが、自分には驚くほどスムーズにできることに気づいた。特に、肘関節や手首の柔らかさは、周りの部員と比べても明らかに違う。
(もしかして、これか……? この体の柔軟性が、俺の「武器」になるのかもしれない)
その瞬間、友生の心の中に、小さな希望の光が灯った。この関節の柔らかさがどう野球に活きるかはまだわからないが、自分の体には、他の選手にはない、何か特別なものがあるのかもしれない。友生は、その肘関節と手首の柔らかさをどう野球に活かすべきか、漠然と考え始めた。それは、友生が自分の才能の「方向性」に、初めて意識を向けた瞬間だった。
自主練習を続けていたある夜、友生は室内練習場で、いつものサイドスローではなく、低い位置から腕を振り出すアンダースローのフォームを試していた。動画を参考に、ぎこちない動きでボールを投げ込む。
「これなら、身体の柔らかさをもっと使えるかもしれない……!」
友生はそう思い、何度もアンダースローの試投を繰り返した。その時、背後から声が聞こえた。
「おいおい、そんな隅っこで何してんだ?」
振り返ると、そこに立っていたのは、エースの武藤だった。武藤は軽いランニングを終えたばかりのようで、友生の様子を興味深そうに覗き込んだ。
「アンダースローなんて、いきなり試すもんじゃねぇぞ」
武藤の言葉に、友生は慌てて理由を説明しようとする。
「いや、あの、身体の柔らかさを活かせるんじゃないかと思って……」
武藤は首を横に振った。
「気持ちはわかるが、アンダースローはそう簡単なもんじゃない。下半身が相当強くないと、まともに球がいかねぇし、何より一度このフォームを練習すると、身体がその動きに慣れちまって、他のフォームに戻すのがめちゃくちゃ難しくなる。アンダースローは、ピッチャーにとって『終着点』だと言われてるくらい、特殊なフォームなんだ。安易に手を出すな」
武藤の真剣な眼差しに、友生は思わず息を呑んだ。確かに、試投してみたものの、コントロールは定まらず、球威もなかった。武藤は友生に、タブレットを渡すように促した。
「ほら、お前のフォーム見せてみろよ」
友生は素直にタブレットを渡す。武藤は再生ボタンを押し、友生のサイドスローの投球フォームを何度か見直していた。
「なるほどな……。確かに身体は柔らかいな。特に腕……肘と手首の使い方は面白い。でも、その柔らかさを活かしきれてないな。もっと、こう……」
武藤は自身の腕を動かし、友生のフォームにはない、ある特徴的な動きをしてみせた。それは、身体の後ろに腕が隠れるような動きだった。
「お前はサイドスローだから、腕の出どころが最初から見えやすい。でも、もし、テイクバックの時に身体の後ろに隠すようにして投げられたら……どうなると思う?」
武藤の言葉は、友生にとってまさに目から鱗だった。これまでサイドスローに固執していた友生には、その発想はなかった。肘と手首の柔らかさを活かす、新たな投球フォームの可能性。
「オーバースローにしても大丈夫でしょうか……?」
友生は不安を口にした。
武藤はフッと笑う。
「それはわからん。フォームを変えれば、一時的に感覚が狂うことはあるだろう。下手したら、今より酷くなるかもしれない。だが、お前のその腕の柔らかさがあれば、鞭のように腕を使えるようになるはずだ。それに、腕が隠れれば、打者は球の出どころが分かりづらくなる。球速が仮に同じでも、球が見辛ければ打てないもんだ」
武藤の言葉は、友生の心に深く突き刺さった。それは、自分の「長所」を最大限に活かすための、具体的な道筋を示すものだった。
「やってみます……! そのフォーム、教えてください!」
友生は武藤に深々と頭を下げた。武藤は満足そうに頷き、その日から、友生の新たな挑戦が始まった。
春季大会が終わり、夏の予選が刻一刻と近づいてきた。監督やコーチ陣は、連日、選手たちの力量を見極めるために紅白戦や個別指導を強化していた。ベンチ入りメンバー、そしてレギュラーポジションをかけた競争は、日を追うごとに熾烈さを増していく。
そんな緊迫した空気の中、寮の食堂での夕食時、全選手が集まる広間で、監督の岡田がマイクを握った。
「皆、静かにしろ!」
監督の声が響き渡ると、騒がしかった食堂が水を打ったように静まり返る。選手たちの視線が一斉に岡田に集中した。
「夏の大会に向けて、チームの体制を固めていく時期だ。特に、今年は1年生の中からも期待の選手がいる。現時点での評価だが、神野裕生は、ベンチ入り候補としてリストアップしている」
岡田監督の言葉に、食堂にはわずかなざわめきが広がった。裕生は、隣に座る友生を一瞥することなく、まっすぐに監督の方を見ている。
「まだ決定ではないから、各自いつ選ばれてもいいように準備をしておけ!」
岡田監督がそう言い放ち、食堂から去っていくと、それまで静まり返っていた食堂は一気に喧騒に包まれた。
「マジかよ、1年生でベンチ入り候補だって?」
「よりによって、あの神野か……」
「俺たち3年が引退なんだぞ。こんなところで1年に席取られてたまるかよ」
友生の斜め前のテーブルでは、3年生の先輩たちが明らかに不満そうに声を潜め、あるいは露骨に舌打ちをしながら、裕生に視線を向けていた。中には、不満げに顔を背ける者もいる。友生は、その場のピリピリとした雰囲気に、思わず身を縮めた。裕生の実力が認められた喜びと同時に、これまで感じたことのない、不穏な空気が食堂を満たしていくのを感じた。
武藤に教わった新たな投球フォームへの挑戦は、友生の身体にこれまでにない感覚をもたらした。身体の後ろに腕が隠れるようなテイクバックから、鞭のように腕を振り出すオーバースロー。理論は頭に入ったが、身体がその動きに馴染むまでには時間がかかった。
ブルペンでの練習初日。友生が新しいフォームで投げ始めると、ボールはまだ安定しなかった。ストライクゾーンを外れることもあったが、以前のようなサイドスローと比べて劇的にコントロールが悪くなる、というほどではない。ただ、ボールに込める力が定まらない。
「もっと腕を柔らかく使うんだ。手首を、こう……」
武藤は時折友生に付き添い、自ら手本を見せながら細かくアドバイスを送る。武藤はエースとしての自身の練習も多く、友生にずっとつきっきりでいることはできなかったが、友生は武藤の助言を無駄にしたくなかった。
新しいフォームは、まだぎこちなく、球速が以前より上がった手応えはない。友生は不安を感じながら武藤に尋ねた。
「武藤先輩、このオーバースローで本当に大丈夫なんでしょうか? なんか、球が遅くなった気がして……」
武藤はフッと笑う。
「遅くなったって感じるのは、慣れてない証拠だな。新しいフォームってのは、一時的にそういうもんさ。でもな、友生、お前のその腕の柔らかさは、普通のピッチャーには真似できない天性のものだ。このフォームを完全にマスターすれば、お前の腕はまるでムチのようになる。しかも、腕が身体に隠れるから、打者からは球の出どころがほとんど見えなくなるんだ。球速が仮に並みだったとしても、見えなきゃ打てない。それが、お前がこれから手に入れる最大の武器になる。時間はかかるだろうが、必ずお前だけのものになるはずだ」
武藤の言葉は、友生の心に深く突き刺さった。自分の「長所」を最大限に活かすための、具体的な道筋がそこにあった。友生は、このフォームで上を目指したいという強い思いを胸に、コーチにフォーム変更の許可を願い出ることを決意した。コーチは友生の熱意と武藤の推薦もあり、限定的ながらも新しいフォームでの練習を許可してくれた。
コーチとの個別練習が始まったある日。友生が新しいフォームで投げ込むと、コーチは首を傾げた。
「友生、お前の今のフォームは、軸がブレているな。腕のしなりは素晴らしいが、それでは球に力が伝わらないし、肘にも負担がかかる。このフォームをものにするには、体幹の強化が不可欠だ。それに、テイクバックの際、腕が身体から離れすぎないように注意しろ。離れすぎると、肘を痛める原因にもなるし、球の出どころが早めに打者に見えてしまうからな」
コーチからの具体的な助言に、友生はハッとした。言われてみれば、確かに投げ終わりに身体が傾くことがあった。友生は、コーチの言葉を信じ、フォームの修正と並行して、自主的に体幹トレーニングを日課に加えた。寮の部屋で、プランクやサイドプランク、メディシンボールを使った捻り運動などを黙々とこなした。
しかし、結果はすぐにはついてこなかった。練習の成果を試す機会として、何度か紅白戦で登板させてもらったが、ストライクゾーンを狙いすぎて甘くなった球を痛打されたり、逆に力を入れすぎて四球を出したりと、安定しない。周りの視線もまだ冷ややかだった。
「神野弟、フォーム変えても全然だな」
「四軍にいるのも納得だわ」
そんな陰口が聞こえてくるたびに、友生の心は沈んだ。それでも、友生は諦めなかった。武藤が自分にかけてくれた期待、コーチが与えてくれたチャンス、そして何より、自分を変えたいという強い思いが、友生を突き動かした。
裕生が夏の大会のベンチ入り候補にリストアップされたことは、チーム全体に大きな波紋を広げた。特に、ベンチ入りを目指していた3年生たちにとっては、それは屈辱以外の何物でもなかった。
食堂での一件以来、裕生への先輩たちの態度は、目に見えて冷たくなった。練習中、裕生が近くを通るだけで、聞こえよがしにため息をついたり、わざとぶつかるように肩をぶつけたりする先輩もいた。
ある日のこと。夕食を終えた裕生が、寮の室内練習場で一人、素振りをしていると、数人の3年生が近づいてきた。その中心にいたのは、これまでレギュラーを張っていた外野手の斉藤だった。斉藤は、裕生がベンチ入り候補となったことで、自分のポジションが脅かされるのではないかと危機感を抱いている一人だった。
「おい、神野」
斉藤は、明らかに敵意のこもった声で裕生を呼んだ。裕生はバットを下ろし、静かに斉藤の方を向いた。
「どうしたんですか、斉藤先輩」
裕生の声は落ち着いていた。その冷静さが、斉藤の苛立ちを一層募らせる。
「お前さぁ、調子に乗ってんじゃねぇぞ? 入学してきていきなりベンチ入りだぁ? 俺たちがどれだけ苦労して、ここまでやってきたと思ってんだ?」
斉藤の言葉に、他の3年生たちも同意するように頷く。友生は少し離れた場所で、その様子を息を潜めて見ていた。裕生が何を言われるのか、友生は不安で仕方なかった
裕生は、斉藤の言葉に眉一つ動かさず、毅然とした態度で答えた。
「俺は、自分のやるべきことをやっているだけです。ベンチ入りできるかどうかは、監督が決めることですから」
裕生の言葉に、斉藤の顔が怒りで歪んだ。
「てめぇ、俺たちを舐めてんのか!?」
斉藤が裕生に掴みかかろうとした、その時だった。
「斉藤、やめろ!」
鋭い声が飛んだ。そこに立っていたのは、キャプテンの松田だった。斉藤と同じ3年生である松田の顔には怒りがにじみ出ていた。
「何をやってる! こんなところで醜い争いして、恥ずかしくないのか!?」
松田の迫力に、斉藤は怯んだように手を引っ込めた。
「松田、だが……こいつ……」
斉藤は不満そうに口を開こうとしたが、松田はそれを遮った。
「ベンチ入りは、お前らの私情で決まるもんじゃない。監督がチームの勝利のために、最善のメンバーを選ぶんだ。不満があるなら、練習で結果を出せ! グラウンドで証明してみせろ!」
松田の言葉に、斉藤たちは何も言い返すことができなかった。松田は全員を一瞥し、それから裕生に視線を向けた。
「神野、お前もだ。実力で黙らせるんだ。余計なことに気を取られるな」
「はい!」
裕生は力強く返事をした。松田は満足そうに頷き、その場を去っていった。斉藤たちは、不満げな表情をしながらも、松田の言葉に逆らえず、渋々その場を後にした。
その夜、友生は共同スペースで裕生に声をかけた。
「裕生、大丈夫だったのか? 斉藤先輩たちに、あんな風に言われて……」
裕生は友生の方を振り返り、小さく笑った。
「ああ、別に。慣れてる」
その言葉に、友生は胸が締め付けられるような思いがした。裕生はこれまでも、周囲からのやっかみや嫉妬に晒されてきたのかもしれない。
「でも、悔しくないのか?」
友生の問いに、裕生は静かに答えた。
「悔しいさ。だけど、そこで感情的になっても意味がない。俺がやるべきことは、グラウンドで結果を出すことだけだ」
裕生の言葉は、友生の心に深く刻まれた。兄の強さ、そして冷静さに、友生は改めて尊敬の念を抱いた。同時に、自分もそうありたいと強く思った。感情に流されず、ただひたすら目標に向かって努力する。それが、この厳しい競争社会で生き残る唯一の道なのだと。