2章:試練の始まり
紅白戦を終え、疲労困憊の友生は加藤のいびきを聞きながら、なかなか寝付けずにいた。知った顔がいたことに少しは安堵したものの、四軍所属という現実と、兄との圧倒的な実力差を突きつけられた初日を思い返し、胸の奥は鉛のように重かった。
翌朝、まだ夜の闇が完全に明けきらない午前5時。寮内にけたたましい目覚ましのサイレンが鳴り響いた。友生は飛び起き、慌てて身支度を整える。顔を洗う暇もなく食堂へ向かうと、そこにはすでに1年生全員が集まっていた。先輩たちの指示が飛び交い、昨日教わったばかりの配膳作業をぎこちなくこなしていく。湯気が立つ大量のご飯や味噌汁、おかずが次々と並べられていく様子は、まるで戦場だ。
「おい、もっと早く動け!」
「皿が足りないぞ!」
厳しい声が飛び交う中、友生も必死に手を動かした。朝食を終えると、すぐにグラウンドへ集合する。すでにユニフォーム姿の2年生、3年生が整列していた。昨日、加藤から
「うちの野球部はとにかく辞める奴が多いんだ。特に2年と3年は半分くらいしか残ってねぇぞ」
と聞かされていた。その言葉を思い出しながら見れば、2年生、3年生はそれぞれ30人ほどしかいない。入学時はもっと多かったはずだが、厳しい練習についていけず、辞めていった者が多いのだろうと友生は改めて実感した。
「よし、ランニング開始!」
キャプテンの松田の声が響き、約100人もの部員が一斉に走り出した。グラウンドを囲むように作られたランニングコースを、全員が足並みを揃えて走る。誰一人としてペースを乱すことは許されない。少しでも遅れれば、すぐに先輩の怒声が飛んでくる。
「おい、足が合ってないぞ!」
「しっかり前を見ろ!」
友生は必死に食らいついた。息は上がり、肺は焼けつくように熱い。隣を走る裕生も、顔にはうっすらと汗がにじんでいるものの、それでも友生よりはずっと余裕があるように見えた。友生は、この瞬間も兄との差を痛感せずにはいられなかった。
ランニングが終わり、グラウンドの中央に集まった部員たちは、一軍から四軍まで番号が書かれたプレートの前に整列する。友生は、恐る恐る「四軍」のプレートの前へ。裕生は迷うことなく「一軍」のプレートの前に立ち、その堂々たる姿は遠目からでもはっきりと見て取れた。
「お、神野じゃねーか。1年から一軍入りとは、さすがだな!」
近くにいた3年生が、裕生に声をかける。裕生は軽く頭を下げ、その言葉に応えた。1年生でいきなり一軍入りは本当に異例なのだろう。友生はそんな兄の姿を横目に、自身の四軍のプレートを見つめ、改めて胸の奥が締め付けられるのを感じた。
部員たちがそれぞれのプレートに分かれる。友生は四軍のプレートを見つめながら、入学前にパンフレットで見た、この高校の広大な施設を思い出す。メインの球場が一つ、そして広々としたグラウンドが一つ、さらに充実した室内練習場まで揃っている。だが、今の自分に許されたのは…
「一軍はシートノックから始めるぞ! 球場を使う!」
「二軍は別グラウンドでノックだ!」
「三軍は一軍の補助として、ランナーなど手伝いながら練習!」
「四軍はグラウンドの外周へ。ひたすら走り込みだ!」
友生の耳に届いたのは、無情な指示だった。四軍の面々は、監督の指示通りグラウンドの外周へと向かう。そこからは、ただひたすらに走る、走る、走る。終わりの見えない走り込みが、友生たちの朝の練習のすべてだった。乾いた土を蹴る足音と、荒い息遣いだけが響く。
友生は、この途方もない走り込みの中で、自分がこの厳しい環境で本当にやっていけるのか、改めて自問自答していた。
朝の練習が終わり、午前8時。友生は兄の裕生と並んで自分のクラスの教室に入った。すでに何人かの生徒が席についていたが、その中に見慣れた顔を見つけ、少しだけ心が軽くなる。彼もまた、真新しい制服に身を包んだ野球部員だった。
「お、飯田じゃん。朝練お疲れ」
裕生が声をかけると、飯田は裕生の隣の席に座り、ニッと笑った。
「お疲れ。裕生もな」
飯田がそう返すと、裕生は友生の方を見て、
「友生、こいつは飯田。飯田、こいつは俺の弟の友生」
と、簡単に紹介してくれた。友生は慌てて頭を下げた。
「神野友生です。よろしくお願いします」
「飯田拓真です。よろしくな」
飯田も笑顔で応じてくれた。
すると、飯田の向かいの席から、もう一人、野球部員が
「ういっす」
と声をかけてきた。紅白戦で友生と同じ一般枠チームの先発だった小高だ。
「おはよう、小高」
裕生と飯田が返すと、小高は表情を変えずに、飯田と友生に顔を向けた。
「なあ、俺、ピッチャー降ろされたわ。今日から三軍の外野。いきなり外野やらされたんだぜ」
「え、ピッチャーやめていいのかよ? お前、ピッチャーだったじゃん」
飯田が驚いたように言うと、小高は肩をすくめた。
「ああ、監督はとりあえず外野を練習しろってさ。まあ、今の俺に外野の才能があるとは思えねえけどな。ピッチャーで四軍にいるよりはマシだろ。神野は?」
小高の視線が友生に向く。友生は少し気まずそうに答えた。
「俺は、その噂の四軍のピッチャー。ひたすら走り込み」
「あー、四軍は走り込みばっかだって話は聞いてたな」
飯田が納得したように頷く。
その時、教室の入り口から、俊敏な動きで入ってきた生徒がいた。紅白戦で小高の球を打ち、韋駄天の走塁を見せた清水だ。清水は友生たちの会話に気づき、小走りで近づいてきた。
「おはよー! なになに、みんな朝練の話?」
「清水、お前も二軍だろ? 朝練どうだった?」
飯田が尋ねると、清水は少しだけ得意げに胸を張った。
「そりゃもう、バッシバシだったよ! 先輩もみんなレベルが高いから、着いていくのがやっとさ。でもやっぱ、神野は1年の中でもレベルが一回り違うって! 昨日の紅白戦も何本打ってたのよ!」
清水の言葉に、友生は複雑な表情で黙り込んだ。兄の才能が称賛されるたび、自分の無力さを突きつけられるようだった。
「にしても、1年生で一軍って、神野だけなんだよな」
小高が周囲を見回しながら呟く。
「だよな。1年生だけで50人近くもいるのに、やっぱそれだけこいつが特別なんだろ」
飯田が親指で裕生を指しながら答える。歴代で入学初日から一軍を言い渡された先輩はいるのだろうか、と友生はふと思った。
野球部員は全寮制で全員同じ校舎にいるはずだが、クラスは10クラスあるため、当然野球部員同士でもクラスが分かれる。だからこそ、こうして同じクラスに集まった面々との会話は、友生にとってささやかな安らぎとなっていた。
「あれ? そういえば問題児の秋本ってやつは?」
飯田がふと、疑問を口にした。
「あー、そういえばあいつ、昨日の寮でも見かけなかったし、今日の朝練にもいなかったな」
小高も腕を組み、首を傾げる。昨日、圧倒的なピッチングを見せた秋本が、寮にも朝練にも顔を出さないことに友生は不思議に思った。全寮制の野球部員である限り、朝練に参加しないのは異例中の異例だ。あの秋本のことだから、また気まぐれに休んでいるのだろうか。それとも、何か理由があるのだろうか。友生の心に、小さな疑問が芽生えた。
授業が始まった。友生のクラスは、1年生の普通科クラスの中でもごく一般的な雰囲気で、朝練で味わった緊張感とは打って変わって、どこか牧歌的な空気が漂っていた。教師の声がBGMのように響く中、友生はノートにペンを走らせる。疲労で時折意識が飛びそうになるが、なんとか睡魔と戦いながら、授業に集中しようと努めた。隣の席の裕生は、教科書を真っ直ぐに見据え、真面目に授業を受けている。その集中力に、友生は己との差を改めて感じていた。
午前中の授業はあっという間に過ぎ、待ちに待った昼食の時間になった。友生は裕生、飯田、小高、清水とともに学食へと向かう。広い学食にはすでに多くの生徒が列をなしていた。野球部の面々は、その中でもひときわ目立つ存在だ。
列に並び、順番が来てトレイを受け取ると、白衣を着た小柄な女性が笑顔で友生たちを迎えた。
彼女は寮の食堂で配膳をしていた寮母さんの一人だった。
「あんたら、野球部の一年生かい?」
寮母さんが尋ねると、友生は会釈をして答える。
「はい、そうです!」
「はい、ご飯は大盛りだよ!」
そう言って、寮母さんは友生にご飯を山盛りによそい始めた。友生は思わず断ろうとしたが、
(あ、そっか。ここの野球部は山盛りって決まってるんだ……)
と思い出し、口を閉じた。寮母さんはニコニコと話しかける。
「ここの野球部は大変みたいだから、頑張りなよ」
その言葉は、朝から張り詰めていた友生の心をじんわりと温かくした。日替わり定食の焼きサバから香ばしい匂いが漂い、温かい家庭の味を連想させた。友生は焼きサバ定食が乗ったトレイを手に、他の面々とともに空いているテーブルを探した。
昼食を終え、各自が午後の授業に向かうために教室へ戻ろうと学食を出たその時だった。
「じゃ、俺は行くわ」
裕生が友生に声をかけると、意外な人物がその横に並び立った。清水だ。
「神野、行こうぜ!」
清水の言葉に、友生だけでなく、飯田や小高、そして裕生も目を見張った。
「え、清水も今から行くのか?」
飯田が驚いて尋ねる。清水は少し得意げに胸を張った。
「おう! 午後は授業サボって練習行けんの!」
その言葉に、友生はハッとした。清水が特待生だったとは、知らなかった。飯田や小高も同様に驚いた顔をしている。
裕生もまた、清水が特待生であるとは知らなかったようで、一瞬、目を見開いた。
そんな彼らのやり取りを尻目に、友生の視線の先に、学食の入り口からゆっくりと入ってくる長身の影が見えた。彼の特徴的な茶髪は周囲の生徒たちの間でひときわ目を引き、学食にいた生徒たちの視線が一斉に彼に注がれる。その視線の中、感情の読めない目で室内を見渡す、秋本だ。
秋本は友生たちの会話に目もくれず、裕生と清水の方へまっすぐ歩み寄り、二人の目の前で立ち止まった。
「お前らが、神野と清水ってやつか?」
秋本がそう問いかけると、裕生と清水は顔を見合わせ、頷いた。
「ああ、そうだけど」
裕生がそう答えると、清水も続いた。
「そうだよ! 俺が清水!」
秋本は舌打ちをした。
「なんでこんな奴らと野球やらなきゃいけねーんだよ」
秋本は忌々しげに呟いた。その言葉を聞いた裕生は、わずかに眉を上げた。
「そうか、お前も特待生だったのか。じゃあ、一緒に向かうか」
秋本は何も言わず、ただまっすぐに前を見据えている。その横顔には、朝練を休んでいたことへの負い目など微塵も感じられなかった。彼が何を考えているのか、友生には知る由もなかったが、裕生や清水が野球に真剣に取り組む一方で、秋本はあくまで不本意ながらここにいることが見て取れた。
「じゃあな、友生。夕方またグラウンドでな」
裕生が友生に声をかけ、清水、秋本と共に、午後の授業が始まる前の静かな廊下をグラウンドへと向かって歩いていく。友生は、少しだけ羨ましく思いながら、
(俺もあんな風に、たくさん練習できたら、もう少し上手くなるのかな……)
と、ぼんやり考えていた。友生、飯田、小高は、午後の授業のためにそれぞれの教室へと戻っていった。
午後の授業が始まった。教室には、疲労が抜けきらない友生、飯田、小高の姿があった。教師の声が遠くに聞こえ、まぶたの裏ではグラウンドの土が舞っているような錯覚に陥った。友生だけではない。飯田も小高も、疲れた表情で教科書と睨めっこをしている。慣れない寮生活と朝からの激しい練習が、彼らの体力を確実に蝕んでいるようだった。それでも、午前の走り込みよりは幾分かマシだと、友生は自分に言い聞かせた。
午後の授業も滞りなく終わり、放課後のチャイムが鳴り響いた。部活動の時間だ。友生は飯田、小高と共にグラウンドへと向かう。グラウンドに着くと、すでに多くの部員たちが集まっていた。
「おい、1年生は集合!」
3年生らしき先輩の声が響く。1年生たちが一斉に集まると、先輩が説明を始めた。
「グラウンド整備は1年生の仕事だ。道具を出して、しっかり整備しろ!」
友生はトンボを手に、グラウンドの端へと向かう。土を均し、手で石を取り除き、ラインを引く。地味で単調な作業だが、これがグラウンドコンディションを保つ上で重要な仕事だと、昨日加藤から聞いていた。
友生が額の汗を拭いながら作業していると、少し離れた場所で、裕生もまたトンボを引いているのが見えた。裕生は一軍であり、他の1年生とは別メニューで練習しているはずなのに、グラウンド整備は同じように行っているようだ。
「裕生もグラウンド整備するんだね」
友生が思わず声をかけると、裕生は振り返り、軽く頷いた。
「ああ、1年生は全員やるんだ。一軍だろうが四軍だろうが関係ない。大変だよな、これ」
そう言いながらも、裕生の顔に嫌そうな色は見えない。友生が「そうだね」と相槌を打つと、裕生は静かに言葉を続けた。
「でも、俺、野球が好きだし、楽しいから、今まで嫌だなって思ったことは一度もないよ」
その言葉に、友生は改めて兄の野球に対する純粋な情熱を感じた。裕生にとって野球は、苦しい練習もグラウンド整備も、すべてひっくるめて楽しいものなのだろう。友生は、そんな兄の姿勢を眩しく見つめた。
グラウンド整備を終えると、いよいよ午後の練習が始まった。
四軍の友生は、午前中と同じくグラウンドの外周での走り込みだ。乾いた土煙の中を、ひたすら走り続ける。肺は熱く、足は鉛のように重い。だが、ここでの努力が、いつか必ず報われると信じて、友生は前を見据えた。
その一方で、メイングラウンドでは一軍の練習が始まっていた。裕生は、キャプテンの松田と同じポジションのため、互いに火花を散らすように競い合いながら練習に励んでいる。裕生と松田が並んで、的確にチームメイトに指示を出しながらキャッチャーゴロを処理している姿は、友生が走る外周からもはっきりと見えた。彼らの動きの一つ一つに無駄がなく、高いレベルで野球に取り組んでいることが伺える。
しばらく走り込みを続けていると、四軍担当のコーチが友生たちピッチャー陣を集めた。
「よし、お前ら、ピッチング練習だ。友生、お前はこっちに来い」
友生はコーチの指示に従い、ブルペンへと向かった。ミットの音が響く中、コーチは友生のフォームをじっと見つめ、的確なアドバイスを送る。
「腕が振り切れてないぞ!」
「体重移動が甘い! もっと左足に体重を乗せろ!」
コーチの指導は厳しかったが、その言葉一つ一つに友生の投球は確実に変化していく。疲労で体が思うように動かない中でも、友生は必死にコーチの言葉を吸収しようとした。
ブルペンでの練習が進む中、友生はふと、隣に立つ投手に目をやった。3年生の投手、高尾だ。彼はすでにマウンドに立ち、力強いストレートをミットに投げ込んでいる。その球は、見るからに重く、速い。友生とは比べ物にならない迫力があった。高尾は淡々と、しかし情熱的に投球練習を続けている。そんな投球を横目で見つつ、友生も自身の投球練習を続けた。自分もいつか、あんな球を投げられるようになるのだろうか。まだ見ぬ未来への思いが、友生の胸に去来した。
午後の練習も終わり、友生はへとへとになって寮の自室に戻った。友生は、今日一日で感じた疲労と、それ以上に募る焦燥感に、思わずため息をついた。四軍での練習は、ひたすらの走り込み。ピッチング練習はわずかな時間しか与えられず、これではいつまで経っても上手になれない、と友生は強く感じていた。
夕食を終え、各自が自室に戻る時間になった。友生は加藤先輩に声をかける。
「加藤先輩、俺、これから少しだけ自主練習したいんですけど、いいですか?」
加藤先輩は友生の言葉に少し驚いた表情を見せた。
「おう、いいぜ。自主練は自由だからな。ただ、無理はすんなよ」
加藤先輩はそう言いながらも、友生の真剣な眼差しを見て、何かを察したようだった。友生は小さく頷き、部屋を出た。向かうは、室内練習場だ。
室内練習場には、すでに数人の部員の姿があった。その中には、3年生投手の高尾もいた。高尾は、黙々とシャドーピッチングを繰り返している。そのフォームは、日中のブルペンで見た通り、力強く、無駄がない。そして、もう一人、友生の目を引いたのは、やはり2年生で、東海西のエースとして名を馳せる武藤だった。武藤は、ブルペンで軽めに投げ込みをしていた。彼もまた、一目でエースとわかる風格を漂わせている。高尾が淡々と練習に打ち込むタイプなら、武藤は野球を心から楽しんでいるかのように見える。そんな二人の実力者を前に、友生は改めて己との差を痛感する。
だが、だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかない。友生は室内練習場の端で、自分にできる限りのピッチング練習を始めた。腕が思うように振れない。疲労困憊の体では、理想のフォームとはほど遠い。それでも、友生はボールを投げ続けた。
何球か投げ込んだところで、武藤が友生の近くにやってきた。
「おいおい、1年生がこんな時間まで頑張ってんのか。偉いな」
武藤はフランクな口調で友生に話しかける。友生は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます……」
「どうだ? 慣れない練習で体はきついだろ? でもな、お前ら1年生が今やってる基礎練が、一番大事なんだぜ。俺も昔は走り込みばっかりで嫌になったもんだ」
武藤の言葉は、友生の胸にじんわりと染みた。エースである彼も、同じような経験をしてきたのだと知って、少しだけ心が軽くなる。
「はい、きつい、です……」
友生が正直に答えると、武藤はニヤリと笑った。
「そうだろうな。でも、お前にはなんか光るものがある気がするんだ。頑張れよ」
武藤は友生の肩をポンと叩き、再び自分の練習に戻っていった。武藤の言葉は、疲労で折れそうになっていた友生の心に、小さな希望の光を灯してくれた。
しかし、自主練習を始めて数日も経たないうちに、友生は早くも限界を感じ始めていた。朝練の走り込み、午後の授業、そして放課後の練習。その後に自主練習を加えれば、休む時間はほとんどない。体は常に重く、授業中も常に睡魔に襲われる。
ある日の夜、疲労のピークを迎えた友生は、加藤先輩に弱音を漏らした。
「加藤先輩……俺、もう……野球、辞めたいです……」
友生の声は震えていた。加藤先輩は何も言わず、ただ友生の顔をじっと見つめた。その目には、友生と同じような苦しみを経験してきたであろう、深い理解の色が宿っていた。
「そうか……きついよな。俺も何度かそう思ったことはある。でもな、ここを乗り越えれば、また違う景色が見えてくるかもしれない。お前はまだ始まったばかりだ」
加藤先輩はゆっくりと、しかし力強く友生に語りかけた。友生はうつむきながら、さらに言葉を続けた。
「毎日練習してるのに、全然上手くなってる気がしないんです……周りのみんなは、俺と違って才能があるから、きつくても頑張れるんだって思っちゃって……」
友生の言葉を聞くと、加藤先輩の表情がみるみるうちに厳しくなった。
「そんな甘ったれたこと言うんじゃねぇ!」
加藤先輩は声を荒げた。友生はビクリと肩を震わせ、加藤先輩の顔を見上げた。
「才能があるから野球ができるわけじゃない! 確かに才能は大事だ。でもな、努力がなければ才能なんていうのはただの飾りだ。お前はまだ、本当の努力ってやつを知らねえだけだ! 野球はそんなに甘いもんじゃないんだぞ!」
加藤先輩の眼差しは鋭く、友生の心の奥底まで見透かされているようだった。その言葉は、友生の心に深く響いた。加藤先輩の厳しい言葉は、友生を追い詰めるどころか、奥底でくすぶっていた闘志に火をつけたかのようだった。
友生が何とか踏ん張っている間にも、四軍の1年生から野球部を辞める者が出始めた。一人、また一人と、徐々にその数は増えていった。
ある日、友生が加藤先輩と二人でいる部屋に、友生と同じ学年の生徒が訪ねてきた。彼は練習についていけず、精神的に追い詰められていた。
「もう、無理だ……俺、野球部辞めるよ」
そう呟く彼の背中を、友生はただ見送ることしかできなかった。彼の辞める姿は、友生の心に重くのしかかる。しかし友生は、加藤先輩の言葉を胸に刻み込み、簡単には諦めないという決意を固めていた。