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1章:才気と劣等

春の日差しが、真新しい制服の紺色に吸い込まれていく。神野友生(じんのともき)は、目の前にそびえ立つ東海西高校の校門を見上げていた。名門中の名門、全国から才能が集まるこの野球強豪校に、まさか自分が足を踏み入れることになるとは、去年の今頃は想像すらしていなかった。

隣には、双子の兄である裕生(ひろき)が、すでに堂々とした佇まいで立っている。がっしりとした体格に、野球選手らしい精悍な顔つき。裕生は、中学時代からその強肩と勝負強い打撃で名を馳せ、4番キャッチャーとして鳴り物入りでこの東海西高校に特待生として迎え入れられた。それに比べて、自分は……。友生は、細身の自分の体を見下ろした。

「おい、ボーッとしてないで早く行くぞ、友生」

裕生の快活な声が、友生の思考を現実に引き戻す。兄の言葉はいつもはっきりしていて、迷いがない。友生も

「うん」

と小さく頷き、兄の背中を追って校門をくぐった。

入学式は滞りなく進み、午後。真新しいユニフォームに身を包んだ1年生たちは、広大なグラウンドに集められた。まだ慣れない動きの1年生たちが、ぎこちなくキャッチボールを始めた。

その中で、裕生の動きだけが、明らかに異彩を放っていた。軽い送球練習にもかかわらず、バシィ!という乾いた音が、友生のすぐそばで響く。裕生が二塁へ向けて投げたボールは、まるでレーザービームのように一直線に伸び、捕球した選手のミットに突き刺さった。

しばらくして、バッティングケージの方から、カキィーン!という金属バットがボールを芯で捉える甲高い音が響き渡る。快音とともに、裕生の打ったボールは滞空時間の長い放物線を描き、みるみるうちに外野フェンスを越えていった。まだ入学したばかりの1年生の練習とは思えない、圧巻の一打だった。

「おいおい、すげぇな、あの肩も打球も。1年生でこれかよ……」

「あれが噂の特待の神野か。U-15にも選ばれたんだってな」

周囲から漏れ聞こえる感嘆の声と、期待に満ちた視線が裕生に集まる。友生は、そんな兄の姿を遠巻きに見ていた。兄が注目され、自分は「弟」として語られる。兄の才能がまぶしいほど輝いているからこそ、自分の存在は影に隠れてしまう。


中学時代、友生はピッチャーだった。背こそ高く、コントロールも悪くなかったが、球は遅く、目立った長所もなかった。ある日、監督に

「お前は球が遅いから変則で投げろ。……そうだな、サイドスローにしてみろ」

そう言われて試してみると、確かに球速は少し上がったが、代わりにコントロールが定まらなくなり、結局は補欠投手で終わってしまった。兄が4番キャッチャーとしてチームを引っ張り、グラウンドの中心で活躍する姿を、いつもベンチから眺めていた。


東海西高校の野球部は、全国レベルの練習量と質を誇る。ここには、中学時代に名を馳せた選手たちがゴロゴロいる。この中で、自分がどこまでやれるのか。いや、そもそも自分に「やれること」なんてあるのだろうか。友生は、胸の奥に鉛のような重さを感じていた。

「1年、集合!」

グラウンド中央から、部長の声が響いた。新入生たちが一斉に集まる。

その集団の前に、一人の男が腕組みをして立っていた。サングラスの奥の表情は読めないが、その場の空気は一気に引き締まる。引き締まった体躯に、精悍な短髪。40代半ばくらいに見えるが、実年齢はどうだろうか。グラウンドの全てを見通すような只ならぬ雰囲気を漂わせている。

「俺がこの野球部の監督、岡田誠一(おかだせいいち)だ」

低い、しかしよく通る声がグラウンドに響いた。サングラスの奥の目は、一人ひとりの新入生を射抜くように見渡している。

「お前ら、今日から正式に野球部の一員だ。だが、うちの高校には、全国から高い意識と才能を持った奴らが集まっている。レギュラーの座は一つもない。全て、自分自身で掴み取れ」

岡田監督の言葉は、静かだが重みがあった。

「そこでだ。今日は早速、お前らの実力を見せてもらう。今からチーム分けをして、紅白戦を行う。ピッチャーも全員投げてもらうぞ」

どよめきが起こる。まさか初日から紅白戦とは。友生は緊張で喉が渇いた。自分の球が、この強豪校の面々を相手にどこまで通用するのか、不安が募る。

チーム分けが発表される。友生は、比較的身体の小さい選手が多いチームに入れられた。対するもう一方のチームには、兄の裕生をはじめ、推薦組の主力選手たちがずらりと並ぶ。

まず、マウンドに上がったのは、がっしりとした体格の左腕投手。胸には「飯田」と書かれていた。兄の裕生とマウンドで話している時は陽気な雰囲気だったが、マウンドに立つと一変、その表情は真剣そのものに変わった。

ノーワインドアップから投げられた初球。豪快なフォームから放たれたボールは、唸りを上げてキャッチャーミットに突き刺さった。

バシィ!

その球威に、打席に入った同じチームの先頭打者が、思わずのけぞる。飯田の球は、球速表示こそないものの、130キロを優に超えているであろう球だった。しかし、やや高めに浮いたボールを見て審判が

「ボール!」

と声を上げた。

「ボールが先行するな……」

ベンチで監督が腕を組む。マウンドの飯田は、制球に苦しんでいるようだった。先頭バッターには四球を与え、続くバッターにもカウントを悪くする。しかし、そこからが飯田の真骨頂だった。

「ストライク! バッターアウト!」

研ぎ澄まされた直球がアウトコース低めに決まり、バッターは見逃し三振。続くバッターも内角をえぐるような力強いストレートで詰まらせてセカンドゴロ。そして最後のバッターは、外角低めへの釣り球スライダーでタイミングを外し、ピッチャーゴロに打ち取った。結局、ランナーを出しながらも、飯田はその回を三者凡退に抑えきった。

飯田がベンチに戻り、その裏の守備。マウンドに上がったのは、一般枠チームの先発ピッチャー、小高智哉こたか ともやだった。いきなりの紅白戦でも緊張しないのか、堂々とした振る舞いで周囲を見回す。

そして、先頭バッターとして打席に入ったのは、やや小柄な選手。左胸には「清水」と書いてある。小高が投じた初球、甘く入ったストレートを迷いなく清水が振り抜くと、打球はライトとセンターの間を抜けていく。

清水は一塁ベースを蹴ると、そのまま二塁へ。ライトが打球を処理する間に、すでに二塁ベース上に到達していた。とてつもない俊足だ……!

小高の投球は不安定で、その後も推薦組チームのバッターに次々と打ち込まれる。連打、連打、そしてまた連打。先ほどまでは毅然とした態度を取っていた小高だったが、さすがにマウンド上で顔を歪めた。その小高に監督は無情にも交代を告げた。

一般枠チームの攻撃は、推薦枠チームの投手、飯田の前に沈黙が続いていた。二巡目、一般枠チームの4番である大野健が打席に入る。この選手は友生も知っていた。2年ほど前、東海では名を馳せた選手だったはずだ。当時はピッチャーだったが、今日はセカンドだな、などと考えていると、初球、真ん中高めの甘い球を見逃さなかった。快音とともに打球はライトオーバーのツーベースヒットとなり、チャンスを作った。

だが、その後は続かず、ベンチに戻った大野は

「ちっ、俺しか打てねーじゃねーか」

と悪態をつきながら守備位置に走っていった。


試合も中盤に差し掛かった頃、ベンチから

「神野友生、準備だ!」

と声が飛ぶ。

「はい!」

と返事をして立ち上がり、ブルペンに向かった。短い肩慣らしの後、彼はマウンドへと向かう。場内アナウンスの代わりに、ベンチから

「ピッチャー、神野友生!」

と声が響き、グラウンドにどよめきが起こった。

「神野って、あの神野裕生の兄弟かなんかか?」

「あんまり似てねーな。身体も細いし」

マウンドに上がった友生は、気合を入れ直すように深く息を吐いた。しかし、彼のピッチングもまた、思うようにはいかなかった。先頭バッターにはコントロールが定まらず四球を与え、続くバッターにもカウントを悪くする。なんとか打ち取ったと思えば、次のバッターには甘い球を痛打され、ヒットを許してしまう。友生は焦りの表情を浮かべた。

そんな友生の前に、続くバッターとして打席に立ったのは、双子の兄、裕生だった。友生は喉がひきつるような緊張を感じた。小さい頃から、兄には一度も勝てたことがない。野球でも、勉強でも、何をやっても裕生の方が上だった。この緊張した場面で、しかもこの状況で、兄と対戦する。動揺が、指先から全身に広がる。

友生は、祈るような気持ちでボールを投げた。だが、甘く入ったストレートは、裕生の狙い通りだった。カキィーン!という金属音が響き渡り、打球は瞬く間にライトの頭上を越え、フェンス直撃のツーベースヒットとなった。友生は呆然と立ち尽くした。やはり、兄には敵わない。その事実に、絶望的な気持ちになる。

結局、友生もまた、長続きしなかった。監督は渋い顔で腕を組み、ベンチに目をやる。

誰をマウンドに送るべきか、監督が考えあぐねていると、その時だった。グラウンドの隅から、大きくあくびをしながらゆっくりと歩いてくる人影があった。野球部にあるまじき茶髪をした、遅れてきた選手だ。その気だるげな様子に、監督の表情が険しくなる。

「おい、秋本! 今頃のこのこ来やがって、何をしていた!」

監督の怒鳴り声がグラウンドに響き渡る。しかし、呼ばれた秋本という男は、まるで響き慣れた怒声であるかのように、飄々とした表情であくびを一つ。

「んー、いやー、ちょっと寝坊っスかねぇ……」

悪びれる様子もなく、ヘラヘラと笑いながら答える秋本に、監督の血管が切れそうになる。

「この野郎! 初日からだぞ! なんだその態度は!」

「だって、試合も練習も、どーせ退屈っしょ?」

秋本は、そう言い放つと、監督の怒声も意に介さず、そのままのんびりとした足取りでマウンドへと向かう。周囲の選手たちは、そのマイペースぶりに呆れたような、あるいは戸惑ったような視線を向ける。

「え、今から投げるのか、あいつ?」

「まさか、アップもなしで……?」

ざわめきが広がる中、秋本はまるでルーティンワークのように淡々と投球練習を始めた。そして放たれた一球。ミットに収まる乾いた音が、グラウンドの空気を切り裂く。

「ッッッッッ!」

その球威は、見る者の度肝を抜いた。周囲のざわめきは、一瞬にして静まり返った。アップなしでこのスピードだ。ベンチもグラウンドも、誰もがその球に目を奪われていた。

秋本は続くバッターに向かって、淡々と速球を投げ込んだ。その球は、ただ速いだけではなかった。まるで吸い込まれるようにミットに収まり、寸分の狂いもないコースを突いていく。バッターは反応すらできず、次々と空を切る。

「ストライク! バッターアウト!」

「ストライク! バッターアウト!」

「ストライク! バッターアウト!」

三者連続三振。圧巻のピッチングだった。しかし、秋本はまるで興味がないかのように、すぐにマウンドを降りようとする。

「あー、つまんねー」

捨て台詞を吐きながら、彼は再びあくびを一つ。そして、グラウンドから出て行った。

秋本がグラウンドから出て行った後も、紅白戦は続いた。しかし、彼の圧倒的な投球の後のグラウンドには、どこか間の抜けた空気が漂っていた。推薦組チームは、一度火が付いた打線が衰えることなく、一般枠チームの投手陣を打ち崩していく。一方、友生や小高が交代した後も、一般枠チームはなかなか飯田を攻略できず、打線は沈黙したままだった。

監督の「よし、そこまで!」という声がグラウンドに響き渡る頃には、勝敗は明らかだった。推薦組チームの圧倒的な圧勝だ。一般枠チームの選手たちは、疲労と悔しさに満ちた表情でうなだれていた。


紅白戦が終わり、新入生たちはそのまま寮へと移動した。真新しいユニフォームから私服に着替え、各自に割り当てられた部屋に荷物を運び込む。

友生が自分の部屋のドアを開けると、中にはすでに先客がいた。ベッドに座っているのは、友生の二回りも三回りも大きく見える男だ。分厚い胸板と太い腕、短い髪は坊主頭に近い。まるで高校生には見えない、ごつい見た目のその男に、友生は思わずたじろいだ。

「よお、お前が同室か? 俺は2年の加藤辰弘かとう たつひろだ。よろしくな」

加藤は、無骨な笑顔を友生に向けた。その迫力に、友生は

「は、はい、神野友生です……先輩、よろしくお願いします」

と、か細い声で答えるのがやっとだった。

「元気がねーな!そんないきなり取って食ったりしないから安心しろよな」

笑い方も豪快に友生の背中をバシバシ叩く。

裕生は別の部屋のようで、友生は窓から見える見慣れない景色を眺めながら、ここから始まる寮生活、そして目の前の同室の存在に、改めて胸騒ぎを覚えていた。

午後6時、食堂から威勢のいい声が響く。

「1年生、食堂集合!」

ぞろぞろと食堂に集まった1年生たちの目に飛び込んできたのは、驚くほどの量の夕食だった。山盛りのご飯に、巨大な鶏肉の唐揚げ、大量の野菜炒め。まるで部隊の食事のような光景に、友生は思わずごくりと喉を鳴らした。

「うそだろ……こんなに食うのかよ……」

友生が呆然と呟く隣で、裕生はすでに笑顔で箸を手に取っていた。

「うっま! やっぱり練習した後だと全然違うな!」

裕生は、まさに底なし沼のように次々と料理を平らげていく。友生は、自分の目の前の唐揚げを三個とご飯を少々食べたところで手が止まり、満腹感に襲われていた。

「おい、友生、なんで食わねーんだよ。残すと怒られるぞ」

裕生に促され、友生は無理やり箸を進めるが、一口食べるごとに胃が悲鳴を上げる。

「ご飯は一人丼三杯がノルマだからな!」

と先輩が声を上げると友生は呻き声をあげてしまった。

食事が終わりかけた頃、3年生たちが1年生の前に集まった。その中の一人が、毅然とした声で話し始める。

「1年生、お疲れ。俺はキャプテンの松田だ。今日から本格的に寮生活が始まるわけだが、いくつか伝えることがある。まず、明日からは朝晩の食事の準備、配膳、片付けはすべて1年生が担当する。それから、グラウンドの準備や片付けもな。慣れないことも多いだろうが、しっかり覚えるように」

厳しい口調ではあったが、3年生の言葉にはチームを支える責任感がにじみ出ていた。

その後、1年生たちが部屋に戻り、落ち着き始めた頃。友生たちの部屋に、丸刈りのいかにも野球部らしい雰囲気の先輩が入ってきた。入ってきて開口一番、

「よお、友生じゃねーか! 加藤も、お疲れさん」

と声をかけた。その声に、一瞬戸惑ったが友生はすぐに顔を綻ばせた。そこに立っていたのは、シニアリーグで一緒だった、一つ上の先輩エース、武藤進むとう すすむだった。

「武藤先輩も、この高校だったんですね!」

友生が思わずそう言うと、武藤はニヤリと笑った。

「なんだよ、知らなかったのか!」

武藤はそう言うや否や、友生の首に腕を回し、ガシッとヘッドロックをかけた。

「痛って!武藤先輩、やめてくださいよ!」

友生が苦笑しながらもがくのを、武藤は楽しそうに眺める。加藤もその様子を面白そうに見ていた。

「まさか、お前が東西とうせいに来るとはな!」

武藤はそう言うと、手に持っていたプリントを友生と加藤に手渡した。友生は、知った顔がいることに、少しだけ緊張が解けるのを感じた。

「東西ってのは、うちの高校の略称だ。みんなそう呼んでるから、お前も覚えとけよ。加藤も、友生のこと、しっかり可愛がってやってくれよな!」

武藤は加藤の肩をポンと叩いた。すると、加藤はニヤリと口角を上げ、武藤の方を見ずに友生をちらりと見ながら、

「わかってるよ、可愛がればいいんだろ?」

と、不敵な笑みを浮かべた。その様子に、友生は一抹の不安を覚えた。

「それにしても、裕生もいるんだろ? あいつは相変わらずすげーな、特待で入るなんてな」

裕生の部屋があるであろう方向をちらりと見る。

「寮のルールはそこに書いてあるから、よく読んでおくように。特に、消灯時間や外出禁止時間なんかは厳守だ。破ったら連帯責任だからな」

そこから一呼吸開けて

「そして、友生、お前は四軍所属だ。プリントにも書いてあるから、しっかり確認しとけよ」

武藤先輩は、懐かしさ半分、先輩としての厳しさ半分といった口調で続ける。そこには、明日からの寮生活における詳細なスケジュールと、練習のタイムテーブルがびっしりと書かれていた。

「それと、練習についてだ。明日からは本格的な練習が始まる。うちの練習は半端じゃないぞ。特待生だろうが一般生だろうが関係ない。ついてこれなきゃ容赦なく振り落とされるから覚悟しとけよ」

厳しい言葉の裏には、1年生たちに東海西高校の野球部員としての自覚を促し、成長を期待する思いが込められているようだった。友生は、改めてこの高校での生活が、想像以上に厳しいものになることを実感した。しかし、同時に、知った顔がいることにほんの少しだけ心強さも感じていた。

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