第7話
翌朝、土方は早起きして道場へ向かった。春の季節とはいえまだ朝晩は冷えるので、世話になっている客間を出るとその寒さですぐに目が冴えた。足早に道場へ向かうと思った通り勝太がいた。
「おお、歳!どうしたんだ」
朝の挨拶も疎かにするほど勝太は驚いた。今まで土方が自主的に早起きをすることなどなかったからだ。
「…たまにはいいだろう、たまには」
「そのたまたまが今まで一度もなかったから驚いているんじゃないか」
「いちいちうるせぇなあ」
驚きつつも喜ぶ幼馴染に土方は毒づいてかえす。土方はさっさと道場にある木刀を手にして、幼馴染の隣で構えた。そして一晩考えていたことを告げた。
「かっちゃん。俺は諦めることにする」
「ん?」
「宗次郎のことだよ」
一、二…と心の中で数えつつ土方は素振りを開始した。試衛館の木刀の重さは他の道場よりも数倍上を行く。数回振り下ろすだけで汗がにじむようだ。
一方で、隣にいた勝太はしばし沈黙してその後土方と同じリズムで素振りを始めた。
「そうか」
勝太は短い返答をした。しかし土方は気落ちする幼馴染を慰めることなどできなかった。
「俺には無理だ」
負けず嫌いの土方らしくない早々のギブアップ宣言だったが、勝太はもう一度「そうか」と言うだけでそれ以上、食い下がろうとはしなかった。それどころか、珍しく
「じゃあお前は、ここを出ていくんだな」
と、土方をどきりとさせるようなことを言った。全くその通りだったから、驚いた。
別れは好きではない。これが永遠の別れなんかじゃなく、また会えると分かっていても、見送られて去っていくあの虚しさは何度味わっても慣れるものではない。だから土方は黙って出ていくつもりだった。この幼馴染はたとえ黙って出て行ったとしても、何も言わないのはわかっていたからだ。
(だからまた甘えるつもりだった)
無意識でそうしようとしていたことに気が付き、自分自身に虫唾が走った。
「かっちゃん…俺は…」
「宗次郎に心を解いてほしいのと同じくらい、俺はお前に剣の道を一緒に歩んでほしいと思っているんだ」
土方はその言葉に目を見開き思わず木刀を下したが、勝太は素振りを止めようとはしない。まっすぐに前を見据えて、同じ動作を正確に繰り返していた。
「…おいおい、かっちゃん。俺を買いかぶり過ぎだぜ。俺はただ自分勝手に生きているだけだ。剣をしたい時にして、女と遊びたい時に遊んで、寝たい時に寝る。そんな人生だ」
動揺しているのを悟られたくなくて土方は茶化して返した。しかし勝太の表情は真剣だった。
「それでも、結局は剣に帰ってくる」
「……」
その短い台詞は、何一つ間違っていない。
「これは俺の我儘だ。歳にも歳の事情があるし、宗次郎もやりたくないと思っているのなら、俺が押し付けてしまってはいけないことなのだとわかっている。けれど…どうしてかな…諦めきれない」
「……」
「聞き流してくれ」
勝太はそういって話を締めくくる。その後は荒い息を吐きながら「はっ、はっ」とリズムよく素振りを繰り返していた。
きっとこの男はずっと諦めないだろう。土方が入門するのをいつまでも待っているだろうし、宗次郎が自ずから自分の才能を発揮しようとするのを、待っている。
まるでずっとそこに生えている大木のように。何年も何年もその場所に根強く立ち続ける。
土方はゆっくりと構えなおしてもう一度素振りを始めた。隣の勝太にリズムを合わせて、身体中の神経を一つにつなげて、一振り一振りに力を込める。心地よい疲労感が積み重なっていく。
(俺だって…)
ここにいたいという気持ちはある。この数日間の客人のような扱いではなく、門下生として道場のそして勝太の役に立ちたいという気持ちはいつでも。豪農である実家や口うるさい姉は、放蕩息子が試衛館に入門したとなれば、最初は気難しい顔をされてしまうかもしれないが、最終的には許してくれるだろうと思う。そういう意味では信頼している。
だから、これは自分自身の問題だ。心のどこかで、今の生活を変えたくない、踏み切れない気持ちがある。
(…門下生になったからってどうなる?)
生まれ持った身分が変わることがない。農民風情が剣術を身につけて得られるのは自己満足だけだ。武家の出である宗次郎のようにこの先に期待が持てるわけではない。せいぜい、勝太のように道場主止まりの人生だ。それに我流を極める土方はきっとそこまで道を極めることはできないだろう。
(だからきっと…いまは諦めている)
目の前の幼馴染のようなうらやましい程の愚鈍さは、自分にはないのだと実感する。
『夢』だなんてものは霞みと同じで、きっと手に触れられないし、食べられもしないし、ぼんやりしているのだと見切りをつけてしまっている。
「同じか…」
そう言う意味では、宗次郎と同じだ。
後ろを向いて、前に背を向けて、歩いている。
素振りが三百回を超え、そろそろ朝餉を知らせる声がかかるのではないか、と言う頃。バタバタと騒がしい音が道場へ近づいてきた。
何かあったのかと二人が木刀を下したとき、道場の出入り口に顔を出したのは二人が思ってもいない意外な人物だった。
「お義母さん、どうかしましたか?」
息を切らした様子で駆け付けたのはふでだった。きょろきょろと道場を見渡して、何かを探している。
「あぁ…ここじゃあない…」
そういうとふでは呟いて踵を返そうとする。どうやら勝太の声は耳に入っていないようだ。出て行こうとするふでを土方が止めた。
「ふでさん、どうかしたのか」
「あ、ああ…歳さん」
ふではようやく足を止めた。しかしおろおろと落ち着かない様子のふでの元へ二人は駆け寄った。よく見るとふでは顔色を真っ青にして、苛立つというよりは焦ったように眉間に皺を寄せていた。しかし口は重く、「いや…ねえ」と不自然に言い淀む。その様子に
「お義母さん、何かあったんじゃないですか?」
焦る勝太は促す。ふでの様子からは悪い予感しかしなかったからだ。しかしふではしばらく考えて曖昧に答えた。
「……それが、よくわからなくてねえ」
「わからない?」
土方と勝太は顔を見合わせる。ふでは「ふぅ」と一息つくと、「来て頂戴」と二人を呼んだ。
意味が分からないまま、しかしついていくことしかできず、二人はふでに従う。道場を出て、土方が寝床にしている客間も通り過ぎて、小さな物置部屋――今は宗次郎が使っているらしい――にやってくる。
宗次郎になにかあった…そう察することができて、土方の胸騒ぎは加速した。
「朝、起きてくるのが遅いから、起こしに来たんだよ。そうしたら…」
ふでが恐る恐る扉を開けた。薄暗い部屋の中には人の気配がないので、宗次郎がいないのだと分かる。しかしそれよりも目に飛び込んできた光景に、二人は言葉を失った。
「…これは…」
それが、なにか、ということを一番早く察知できたのは土方だろう。
部屋には断片的な布状の何かが散らばっていた。無事なのは与えられている煎餅布団だけのようで、足を踏む場所もないほどに、埋め尽くされたそれはどれも形が違い、切り刻まれ、引きちぎられた様に糸が飛び出ているものもある。
(まさか…)
土方はふでと勝太を押しのけて部屋に入った。部屋中に広がる布を、一つ一つ確かめるようにして見る。俄かには信じられない想像が土方の中で湧き上がったが、(そんなはずはない)と何度も疑った。
しかし、恐ろしいほどの想像は的を射ていたようで、布切れのなかの一切れに土方は見覚えがあった。
「あ…」
やっぱり。
(あの風呂敷だ…)
見覚えがある一切れは、ミツから手渡された風呂敷の柄と同じだった。
つまりは昨日、宗次郎へ手渡したあの風呂敷の中身が、このように切り刻まれてしまっているということ。流石にいま目の前で動揺しているふでが行った嫌がらせの類だとは考えづらいので、おそらく宗次郎自身がそうしたのだということ。
「あいつ…」
土方の胸騒ぎは一気に苛立ちと焦燥感と得体の知れない宗次郎への怒りに変わった。
(ガキのくせに、へらへら笑って処世術身につけているくせに、頑固で意地っ張りで、どうしようもないあの子供が、なんでこんなことをするんだ…!)
自分を捨てた姉をそんなに憎んでいるのか?
この生活に疲れ切ってしまったのか?
それとも、何か他に理由があるのか?
そのどれの答えも、土方にはわからない。しかし一番わかるのは、
「馬鹿が…!」
(あいつが馬鹿だってことだ…!)
土方は握りしめた拳を、床に打ち付けた。
そしておもむろに立ち上がり、呆然と立ち尽くす二人を押しのけて、部屋を出ていく。
「歳、どこにいくんだ!?」
「あいつを探してくるんだよっ!」
ふでが散々探した後だろうから試衛館にはいないはずだ。土方は玄関に駆けこむようにして向かい、そのまま試衛館の外に出たのだった。