第2話
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薄暗い埃の被ったような場所では食事も不味かろう、と土方は宗次郎とともに蔵を出た。周助らが食事をしている場所から一番遠い木陰に二人で腰を下ろす。女中から受け取った膳を宗次郎に渡すと、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて、さっそく握り飯を頬張った。飯を食べる様子は腹を空かせた子供に違いない。
土方は無関心を装いつつ横目で宗次郎を見た。久しぶりに会う宗次郎は、痩せ細っていたあの時に比べて幾分か健康的になったが、初めて出会った時のような無邪気さや子供らしさが抜け落ちていて、一気に大人びたように見えた。それは家族と離れたことで生まれた独立心なのかもしれないし、そうしなければならないと自分に言い聞かせた義務感かもしれない。
(どちらにしても、可愛げがない…)
てっきり蔵の中で泣いているのだと思っていた。もう嫌だと泣き叫んで助けを求められるのだと。しかし宗次郎は全くそんなことはなくて、蔵の中でただただ外に出られるのを待っていた。
そんなところがきっとふでの気に障るのだろうと思う。どんくさければどんくさいなりに叱られるのだろうが、何でもかんでも受け入れて「ごめんなさい」と笑顔で謝られるとまるで馬鹿にされているのかと逆上するのだ。女は特にそうだ。だからきっと宗次郎は無意識にそれをしてしまっている。
「ごちそうさまでした」
宗次郎はあっという間に平らげて、手を合わせて挨拶した。その礼儀正しさはおそらく姉に仕込まれたものだろうが、やはり蔵に長い時間閉じ込められた子供のやることではないと思う。もっと愚痴をこぼしてもいいのに。
(こいつなりの処世術かもしれねえが)
「いつもこうなのか?」
「こうって?」
きょとんと、宗次郎が目を丸くした。何気なく聞いたつもりだったが、土方は「あー…」と頭を掻きつつ、言葉を選ぶことになった。
「こんな風に…飯、食わしてもらえねえのか?」
言葉にして初めて気が付くこともある。自分が置かれた状況が言葉にされないと気づかないこともある。だからこれは、宗次郎にとって気づかないでいい、知らないでいい、わからないでいいことなのかもしれない。
しかし、宗次郎はさして気にする様子もなく
「そんなことありません」
と首を横に振った。特に迷う様子もない。
「叱られてもおふでさんはちゃんとご飯を用意してくれるし、女中の皆さんも優しいです」
それは何の問題もない答えだったが、しかし一方で優等生の模範解答みたいだ。土方は少し苛立ってさらに問い詰める。
「じゃあなんでお前は蔵にいたんだよ」
「…それはきっと僕が気に入らないことをしたから」
「気に入らないってなんだよ」
「わかりません」
宗次郎が曖昧に答えて、固く口を噤んでしまった。土方はそれ以上を聞くことを止めた。
そして理解する。
『その方がまだ良いんだがなあ』
勝太が言っていた言葉を。
(笑って済ませて、終わり…か)
それは大人のやることだ。子供はただ言葉をそのままストレートに受け取って、傷ついて悲しんでしまえばいいのに。そんな風に答えられてしまえば、助けることもできないし、本人が助けてほしいのさえわからないではないか。勝太が扱いに戸惑うのは当然だ。ある意味、勝太よりも大人のように振る舞っているのだから。
「可愛くねえ…」
「……」
思わず言葉を漏らすと、宗次郎が少し目を見開いて、そしてそのまま俯いた。あからさまに表情が暗くなる。
(やべ…)
もしかしたら、ふでに散々言われた言葉なのかもしれない。だとしたら、宗次郎にとっては罵倒の呪文のようなものだ。
土方が己の失言を後悔してると
「歳三さん」
と案外はっきりとした発音で名前を呼ばれた。「何だよ」と内心、びくびくしながら返答してやると、宗次郎は俯いた顔を土方の方へ向けた。
「お腹がいっぱいになったし、もう眠たいです」
「……」
何を言うのかと思えば、そんなことを言われて。
まるで子供の我儘のようなことを言われて。
突然無邪気な子供に戻ったように微笑まれて。
(何なんだよ、こいつは…)
と、土方は肩を落とすのだった。
翌朝。道場ではパァァンッという竹刀がぶつかる音が響いていた。久々に稽古着に身を包んだ土方は、幼馴染に相手になってもらっていた。
土方は行商途中に、商売がてら寄る道場で腕試しをさせてもらっている。目についた道場には取りあえず顔を出し、格上にも果敢に挑戦した。そうすることでしか、剣の腕を挙げられる機会などなかったのだ。勝率は五分五分。コテンパンにやられることもあれば、筋が良いと褒められて入門を薦められることもある。だが、その誘いに乗ることは決してなかった。
「やっ、やっ、やぁぁ!」
勝太の力強い気合に鼓膜と身体が痺れる…久々に聞くとその迫力の凄まじさを感じることができた。
幼馴染が養子に入る前から、この迫力を目の当たりにしてきた。やれ農民の子がと蔑まれても彼が剣を続けられたのは、確かな実力と有無を言わせぬ存在感があったからだ。それは手当たり次第に挑んできたどこの道場にもない、唯一無二の剣士の姿だ。
(だからだろうな…)
他の道場に入門せず、この試衛館にこだわってしまうのは。きっと心のどこかで入門するのなら試衛館にするのだと決めている。
(それがいつになることやら…)
終りのない行商の日々にウンザリするばかりだ。そんなことを鬱々と考えていると
「なに考えてるんだ!」
「いてっ!」
踏み込みと同時に面を割られ、土方は後ずさった。脳天を打ち割るような衝撃に頭がくらくらと揺れる。
「お前は集中力が無い!」
こと剣のことに関しては容赦ない勝太の言い分は、確かにその通りだったので「悪い」と土方は素直に謝った。一つ年上なだけなのに、こういう時は強靭な壁のように遥か上に立っているかのようだ。
勝太は深く頷いて「休憩にするか」と竹刀を降ろした。土方も面を外して汗を拭く。
「歳、腕を上げたなあ」
大きな口から歯をのぞかせて、勝太は嬉しそうに微笑んだ。褒められることが苦手な土方は「うるせえ」と素直には受け取らなかったが、そんなことは幼馴染はお見通しだ。
「まあ天然理心流というよりは我流みたいな剣だがな。お前は少し基本を学べばもっと強くなる」
「今更、基本なんてもう遅せえよ。剣を始めた時から俺は我流なんだ」
早々に天然理心流に入門した勝太と違い、土方はお遊びの延長のチャンバラごっこのように剣を始めた。そのほうが性に合っていたしそれを後悔しているわけではない。
「…何だったら宗次を鍛えてやれよ。あいつは真っ新な状態だから、基本から始めさせればいい」
「昨日も言っただろう。それはできないんだ」
勝太はふう、と息を吐いた。珍しく愚痴を言う様に続けた。
「そりゃあ俺だって、れっきとした武士の子である宗次郎に剣を教えてやりたいと思っているよ。でもお義母さんの目もあるし、宗次郎が望まないのだから仕方ないだろう」
「望まないのか?」
それは意外な理由だ、と聞き返すと勝太は複雑そうに顔を歪めた。
「遠慮しているのかもしれない。自分には向いてないし、やらなければならない仕事があるからできないと断られてしまった」
「…相変わらず、可愛くねえガキだな」
やはり子供の言うような台詞ではないだろう。向いている向いていないは関係なく、男として生まれたのなら興味があるはずだ。武士の子であるなら、なおさら。
「我儘なのは困るが、聞き分けがいいのも返って可哀そうでな。だが、お義母さんは俺の言うことなんて聞いてくれやしないし、お義父さんは時に任せるしかないという」
「時か解決してくれんのかね」
「…さあ」
勝太の頼りない返事、土方も力が抜ける。道場に大の字で寝転がって天井を見上げた。
「…なあ、歳」
「言いたいことはわかってる」
幼馴染の言葉を遮って、土方は答えてやった。彼がとても言いづらそうにしていたからだ。
愚直なほどに真面目で優しい幼馴染が考えていることなんて、丸わかりだ。
「もう少し、ここにいてくれっていうんだろう」
「…ああ。お前の行商の邪魔をして申し訳ないんだが、宗次郎の為にも頼む」
大の字になって寝転がる土方の視界には入らないが、勝太はきっと頭を下げて懇願しているだろう。今のところ、宗次郎のことを上手く庇ってやれるのは土方だけだ。不器用な幼馴染ではかえってふでを逆上させることになりかねない。
「…仕方ねえなあ…」
「歳!」
幼馴染は声を上げて喜んだが、土方はと言えば別段、宗次郎のことを可哀そうだと思っているわけではなかった。生い立ちやこれまでの暮らしには同情すべきところがあるが、試衛館で上手くやれないのはきっと宗次郎自身にも問題があるのだろう。
ただ、気にかかることがあった。
(あの…雰囲気だ)
蔵に迎えに行ったとき。
まるで身体中が痺れるかのように宗次郎の存在感を感じた。それは勝太に感じる、大きな大木のような重厚感ではなく、もっと別の繊細な霧のように、肌に張り付く震えのような。
その正体を知りたいと思っている自分がいた。