第1話
寝ては起き、起きては寝る。
そんな浅い夢を繰り返していた。
どこかで見た景色。江戸に居た頃の懐かしい風景、聞こえてくる誰かの声。
そのどれもが間違いなく知っているもので、
どうやら昔の夢を見ているのだと、どこかで俯瞰した自分が眺めている。
しかし、浅い夢はバタバタと激しい足音によって覚まされる。
昔から変わらない足音は、それが誰のものか土方の脳裏にしっかりと刻まれている。
「あ、ここにいた!」
散々探し回ったのか、少し怒ったようにして総司がやってきた。縁側で横になっている土方は目を開けて総司を見る。
「…なんだよ、騒々しいな」
「何だよじゃありません。前川邸の方に居ないから、探し回っちゃったじゃないですか。なんでこっちに居るんですか」
「八木邸の庭の方が、紅葉がきれいなんだよ」
縁側に横になって、八木主人が手入れした庭を眺めていると、まるで一国の城主になったかのように雄大な気持ちでいられるのだ。
しかし、総司は「何言ってるんですか」とあっさりと聞き流す。
「新撰組の鬼と呼ばれる土方さんに、そんな景色を愛でるようなことを言われても困ります。ただ逃げていただけでしょう」
「休憩だ、休憩」
言葉を言い換えろ、と土方は嘯いて、横にした身体をようやく起こした。両手を上にあげて、「うーん」と背を伸ばす。
「寝ていたんですか?お疲れですね」
「ああ。刻はそれほど経っていないだろうが、夢を見た気がする」
「夢?」
探し回っていたと言っていた割には、総司は特に急かす様子もなく隣に座った。
もしかしたら特に用事はなく、遊び相手として探していただけなのかもしれない。
「昔の夢だ。お前が…小さい頃の」
「小さい頃?」
総司はどこか怪訝そうにこちらを見る。総司としてはあまり記憶が無い部分なのだろうが、こちらは年上の青年期だったので
良く覚えているのだ。
「お前がどれだけ可愛くないガキだったのかっていうことを、久々に思い出していただけだ」
「あ、酷い」
土方の物言いに、総司は少し口を尖らせた。
「酷くはねぇ。お前は物わかりばっかりよくて、ガキらしい可愛げもなくて全くを持って扱いに困った」
「…可愛げがなくて、悪かったですね」
総司はさらに機嫌を悪くした。
こうしていると忘れてしまうが、そう言えば仮にも恋人と呼ぶ間柄だったのだと土方は思い出した。
(何か、全然そんな気はしねえけど)
「覚えてないのか?試衛館の来たばかりの頃だ」
「……その頃の記憶はありませんね」
総司は少し考え込むようにして俯く。もしかしたら、そもそも思い出したくもないことなのかもしれない。
明るく天真爛漫だと食客や他の隊士には評されてきた総司なのだが、そう言えばそういう「後ろ暗い」ところは
土方と近藤くらいしか知らないのだ。
そう思うと、何やら可笑しくなって、土方は「ふっ」と息を吐くように笑った。
「本当に覚えてねえんだな」
「覚えていません。私の中で一番古い記憶の時には、既に剣術の稽古をしていましたから…」
困惑したように問い返した来た総司に、土方は
「じゃあ話してやるよ」
と、浅い夢で見た、微かな記憶を掘り起こす。
そして幼子に言い聞かせるように、語り始めた――。
冬が解け、桜がちらほらと咲き始める季節となった。土方はぼんやりと縁側にたたずみ、試衛館の庭木の様子を眺めていた。気温は温かくなってきたものの、植物たちの目覚めは遠いようで、堅く頑なにその蕾を閉じている。
「歳、来てたのか」
嬉しそうにはにかんで、幼馴染の島崎勝太が駆け寄ってきた。天然理心流宗家の養子となった勝太はこの試衛館の跡取りへと出世した。まだ農民だなんて頭を掻きつつも、順調に大きく無謀な夢に向かってまい進している青年である。
「行商途中の道草だ」
土方はぶっきらぼうに言い放ったが、「そうか、道草か」と何故か勝太は嬉しそうだ。
ゆくゆくは天然理心流試衛館の道場主となる勝太と違い、土方は薬屋の家業を手伝うため、ほうぼうを歩き回り行商を行っていた。いやいや始めた家業だったが、商いは自分の負けず嫌いな性分に合っていたようで、文字通り口八丁手八丁に薬を売りつけて成果をあげていた。道場に嗾けてみたり、色目を使って女と懇意になったり…手段は選ばず、稼ぐために何でもした。親族たちはかつての悪童と名を馳せた末弟が更生したのだと思っているが、勝太と同じように剣の道を歩みたいという思いは捨てきれていない。燻ったまま胸のどこかで生きている。だからこうして試衛館に立ち寄ってしまう。
(だから何だか中途半端だ)
苛立ちを隠せずに、勝太に聞かれないように舌打ちした。
すると勝太は両手を合わせて「そうだ」と切り出した。
「宗次郎に会って行けよ」
「宗次郎?」
「何だ、もう忘れたのか。お前が連れてきた宗次郎だよ」
勝太は呆れたように言うが、忘れてなどいない。ただ、出会った時から「宗次」と呼んでいたので、ピンと来なかっただけだ。
「ああ…あいつ、食い減らしに来たんだってな」
全て宗次郎の親戚にあたる井上源三郎から聞いたことだが、沖田家は相当困窮しているらしい。もともとは奥州白河の下級藩士だったようだが、宗次郎が幼い頃に父が亡くなり家督が継げず、取り潰しとなったようだ。身分だけは宗次郎の方が上だが、暮らしぶりなどは勝太や土方の方が裕福なのだという。
「まだ九歳なのに、家族と離れて暮らすのは寂しかろうな…」
勝太の目にうっすらと光るものがある。涙ぼろい幼馴染は、幼くして家族と離ればなれになった宗次郎を不憫に思っているようだ。加えて自分も家を出て、養子に入った身だからこそ同情しているのかもしれない。(ただ勝太が養子に入ったのは数年前の十代の話なので、宗次郎とは状況が違うのだが)
「…ふん、食わしてもらえるだけ有難いだろう。しかも剣術の稽古までできるんだから文句はないはずだ」
俺とは違って。
とまでは言わなかったが、幼馴染にはきっと伝わっただろう。しかし勝太は「おや」と首を傾げた。
「お前には言ってなかったかな。宗次郎は剣術の稽古はしていないよ」
「あ?そうなのか?」
土方には意外だった。もともと武家の子である宗次郎だが、実家の困窮によりとても剣術など習っていない。見るからにひ弱で細い体だ。だから、それもあって姉のミツは剣術道場である試衛館に口減らしに遣ったのだと思っていたが。
すると勝太はきょろきょろと辺りを見渡した。誰もいないのを確認すると、小声で土方に囁く。
「お義母さんがな。宗次郎に稽古を見せようとするとひどく怒るんだ」
「ああ…」
勝太が宗次郎に気を使って、声を抑えたのかと思ったが、そうではなく試衛館の道場主である周助の妻ふでに、聞かれてはまずいと思ったようだ。
ふでは吊り目で気の強そうな外見そのまま、男勝りの性格だ。周助もすっかり尻に引かれているような有様で、試衛館を取り仕切っているお局様のようなものだ。勝太も最初は「農民の子が何故養子に」と罵倒されていたため、頭が上がらないでいる。
(宗次となれば尚更か…)
下働きに来た武家の子など、ふでにとって恰好の標的だ。便利の良い小間使いの様に用事を言いつけて扱き使っているに違いない。土方は勝太の短い説明ですべてを察することができた。
「泣いて家に帰りてえって言ってるんじゃねえのか」
ははっと笑いながら軽い調子で訊ねてみると、勝太は眉間に皺を寄せて唸っていた。
「…その方がまだ良いんだがなあ…」
腕を組み思案する様子の勝太は困り顔だ。その後考え込んでしまった幼馴染にこれ以上いうこともなく、土方は空を見上げた。冬で枯れた木々に緑が戻り、確実に時間が流れているのだということを知る。
そうしていると日が暮れて、あっという間に夜になった。勝太が「泊まっていけ」と言ったので土方はその言葉に甘えることにした。
「歳さん、ゆっくりしておいき」
周助には鬼嫁扱い、勝太や宗次郎にはお局扱いをされているふでだが、唯一、土方には愛想がいい。色男と持て囃される土方が、「いつみてもいい女だ」とか「ここの飯が一番旨い」だとか冗談交じりにふでを持ち上げるので、ふでも悪い気がしないのだろう。こういう時は行商で鍛えられた話術がものをいう。
ふでと雇われた女中が飯を運ぶなか、宗次郎の姿が見当たらない。飯の数も土方をいれてぴったりの数。宗次郎の分はないようだ。
「お義母さん、宗次郎は…」
恐る恐るという風に勝太がふでに訊ねる。すると剣幕を鋭くして
「蔵の中で反省でもしているでしょう」
と言い捨てた。ぎょっと驚いたのは勝太だけではない。
「おい、ふで。まだ夜は寒いのに蔵に閉じ込めたら身体を悪くするだろう」
蔵に閉じ込めることは特に珍しいことではないようだが、周助がふでを責めた。するとふではみるみる不機嫌になり
「まだ幼いとはいえ要領が悪い子です。一晩くらい反省すれば少しは良くなるでしょう!」
と怒鳴ってしまう。すると気の優しい周助や養子身分の勝太は何も言えなくなる。そして食事の席に冷たい空気が流れだした。
(おいおい…)
せめて弟分を守ってやれよ、と言わんばかりに土方がちらりと勝太を見たが、勝太の方こそ(頼むから助太刀してくれ)と言わんばかりに土方の目を見て懇願していた。
土方は内心「はぁ」とため息をつきつつ、席を立つ。
「ふでさん。良かったらその糞ガキ、俺が一言文句を言ってやるぜ」
「本当かい?」
「ああ、任せてくださいよ」
いつもの軽い調子で言うと、ふでは嬉しそうに頷いた。土方は部屋を出て蔵のある裏手に向かう。その途中で台所によって、通いの女中にこっそりと宗次郎の分の食事を準備させた。と言っても、今日のメインのおかずであるところの川魚は、もともと宗次郎の分はなかったようだ。
(…そういうものか…)
ふでがする仕打ちは陰湿ないじめのようだが、しかしよくある光景でもある。以前、土方が奉公をしていた呉服屋でも特に女同士だと些細なことから小競り合いが起きていた。男の土方が聞けばどうでもいいことなのだが、女はつまらないことで嫉妬し、人を恨み、羨み、妬む。
(ないものを持っていうからこそ…か)
きっと宗次郎が名もなき農民の子だったら、ここまでの嫌がらせを受けることはなかっただろう。武家の子だからこそ当たりがきついのだ。
ああ見えて、ふでは周助へ嫁いでいるだけあって試衛館のことを気にかけている。いつまでも身分の不安定な夫や義理の息子を思いやれば思いやるほど、宗次郎のような幼子がその上に立つ身分を持っていることに苛立つのだろう。
(まあ、そう思うと同情しないでもない…)
宗次郎にも、ふでにも。
「お願いします」
女中が差し出したお膳にはおにぎり二つと汁物が一杯。漬物が二、三切れと少し寂しい。しかし、ここで文句を言っては女中に迷惑がかかるだろうから、土方は何も言わずに受け取った。
試衛館の蔵といえば、特に金銀財宝が眠っているというわけではなく、いらなくなった防具や古びた兜、はたまた農作業用の鍬や鋤などが仕舞われている。窓も格子付のものが一つあるだけの、薄暗い場所だ。
土方は寂れた扉をこじ開けた。重い扉はギギギギギと鈍い音を出しながら開かれて、月明かりを受け入れる。
「そーじ」
出会った時につけてやったあだ名で呼ぶ。蔵の一部となった宗次郎の姿はよく見えない。
「そーじ、飯だ」
お腹を空かせてる子供なら一目散に駆け寄ってくるだろう、と踏んだのに、物音ひとつない。(まさか)と土方は膳を置いて中に入った。
「おい!宗次!」
日差しが無くなれば気温は一気に下がる。普段からろくに飯も与えられていないようなら、身体が弱っていることも考えられる。土方は最悪の予想に肝を冷やしつつ辺りを見渡した。
「くそ…」
月明かりしか差し込まない蔵では視界が悪い。火でも持ってくるか、と踵を返したところで、蔵の奥からガタッと音がした。そして同時にカランという乾いた音も。
「…宗次か?」
見えない影に声をかける。しかし何も返答はなく気配だけが近寄る。
土方は自然と傍にあった木刀に手を掛けた。稽古で使用されなくなって放置されている木刀だ。天然理心流の木刀は他のそれよりも大分太い。本気で殴れば人が死ぬほどの。
(何だ、これ…)
ぞわぞわと土方の中で悪寒が走る。しかし、その感覚は恐怖でも畏怖でもなく…まるで嵐がやってくる前の静けさの迫力のような。
土方が木刀を構えたままでいると、しぃんと静まったなかで、
「……歳三さん?」
と、ようやく帰ってきた返答は、聞き覚えのある声だ。土方は安堵しつつ「ああ」と答えてやった。そうしているとようやく明かりの照らされた場所まで宗次郎がやって来た。
「歳三さん、どうしたの?」
「……お前」
(気のせいか…?)
さっきまで背筋を這うような震えを感じていたのに、
「どうしたの?」
この子供は、花が咲くような笑みを浮かべている。